連なる思いの影
海の上へ出て、すぐに分かったよね。来た時とは、まるで違ったから。
あちらから渡ってきた時は、手袋の縫い目に引っかかる糸を、途切れないように辿るだけで精いっぱい。今は、箒の腹の下に、はっきりとした支えがある。押し返してくる。
鐘が、ニルスさんが。ちゃんと道を起こしてくれた。けれど、その支えが、落ち着かなかった。
急に太くなる。箒が持ち上げられて、身体が後ろへ取り残されそうになる。次の瞬間には、底が抜けたように薄くなる。そこへ、横から別の冷たさが割り込んできて、穂先ごと押し流される。
柄を引き戻す。押し流された分だけ、元の筋を探し直す。
探している間に、また別の流れが来る。
後ろで、箒の穂が風を切る音がした。
振り返ると、救援班の三人が、すぐ後ろについてきていた。若い魔女が先頭で、年かさの魔女がその少し上、もう一人が連結索の端を握って一番後ろにいる。正直、ギョッとした。
「ちょちょちょっ! 危ない、ですよ!」
「そんなの、あなたも同じでしょう!」
若い魔女がこちらへ叫び返す。思いの丈は、私の想像よりはるかに長い。見れば、彼女たちは全員、肩を強張らせ、少し震えているように見えた。
年かさの魔女と、一瞬、目が合った。
「前を向け! 我々が続く!」
強い風の中でも、はっきりと聞こえる芯の強さがある。
……それでも。怖い、よね? あなたたちは、私と違うから。
「今行かなかったら、私たち、何のためにいるんですか!!!」
若い魔女がまた、声を張り上げる。その声に、表情に、載せられた思いを無碍になんて、できるわけがない。
……だって。私も、同じだから。
「必ず、私の後に! 絶対、届けます!」
霧が、また私たちの視界を塞ぐように立ちはだかる。
ヘルダ号のほうへ、穂先を向ける。
今いる流れは、確かに南へ向かっている。けれど、どこまで南へ続いているのかは分からない。途中で、隣の流れと重なっている気がする。重なった先で、どちらがどちらなのか、今すぐに判断はできない。
でも、止まれない。後ろには、届けなきゃいけない思いが連なっている。私にできること。しなければいけない仕事。それらが、一斉に脳内を駆け回る。
やって、やろうじゃない。
乾いた唇を、思わず舌で舐め回す。
海峡中で、何本もの古い流れが、鐘の音に揺すられて目を覚ましている。どれもすごく冷たい。どれも、少しずつ南へ寄っている。どれが船の下まで続いていて、どれが途中で海へ落ちているのか。
絶対に、間違えられない。
霧を抜けて。後ろを振り返ると、影が三つ、確かに続いている。
ヘルダ号は、さっきよりずっと近くに。
傾きが、増していた。片側の舷が、ほとんど海面を舐めそうなところまで下がっている。帆柱の先が、こちらへ突き出すように斜めになっていた。
甲板でしがみつく人たちの顔が見えた。
手すりに腕を絡めて、身体を支えている男がいる。その男の外套の裾を、もう一人が両手で掴んでいる。帆柱の根元に、太い綱で自分の胴を縛りつけている人もいた。綱の結び目を、何度も確かめるように叩いている。
一人が、こちらを見て、口を大きく開けていた。何を叫んでいるのかは、風に消されて聞こえなかった。
穂先を、まっすぐ船へ向けた。
箒が、沈んだ。
急いで引き起こす。さっきまで支えてくれていた流れが、船の手前で、すとんと途切れていた。前へ手を伸ばしても、何もない。
後ろで、救援班の箒が止まる気配がした。
横へ回った。左へ、船の舳先のほうへ。流れがある。太い。これなら、と思って穂先を寄せた。三つ数えないうちに、痩せていく。痩せた先で、また海の上に放り出されそうになる。
戻った。
今度は、少し上へ。
上には、別の流れがあった。さっきのより冷たい。けれど向きが違う。船の上を、ずっと高いところで通り過ぎて、西のほうへ逃げていく。あれに乗っても、船の真上を素通りするだけだった。
救援班の三人も、それぞれ別の方へ散っていた。
一人は船の艫のほうへ回り込もうとして、途中で箒が大きく揺れ、慌てて戻ってきた。年かさの魔女は、低いところを探っていた。海面すれすれに、何かないかと。穂先が一度、波頭を掠めて、白い飛沫が上がった。
誰も、船まで届かない。届かない場所で、四本の箒が、宙に浮いたまま止まっていた。
止まっているあいだにも、魔力は抜けていく。
ヘルダ号が、また更に傾いた。
甲板の上を、大きな樽が転がった。手すりに当たって、一度跳ねて、手すりを越えた。霧の下へ、落ちていく。
しばらくして、下のほうで、重い水音がした。
若い魔女が、飛び出した。
穂先を船へ向けて、まっすぐに。
「ペトラ!」
年かさの魔女の手が、若い魔女の箒の柄を掴んだ。二本の箒が、空中でぶつかって、大きく揺れる。若い魔女の身体が、柄の上で前へつんのめった。
年かさの魔女は、掴んだ手を離さなかった。
「離してください!!!」
「……だめ、離せない」
「人がいるんですよ! 今、行けないなら……!」
「落ち着きなさい!」
乾いた音が響く。本気の平手打ちに真っ赤に染まる頬。年かさの魔女の声も、震えている。先ほどまでの芯の強さを残したまま。
「今、ここに居れるだけで奇跡なんだ!」
若い魔女は、柄を握ったまま、肩で息をしていた。ボロボロと真っ赤に染まった頬を雫が駆け抜けていく。
私は、その二人の合間から、船を見ていた。
私も、ペトラと呼ばれた彼女と同じ。行きたかった。
行けば、たぶん、船の手前で箒が沈む。沈んだ先で、引き起こす魔力は、もう帰りの分しか残っていない。そこから先は、どちらかしか選べない。
分かっていた。分かっていたから、ここに居る。
東岸からここまで、私は、一人で渡ってきた。あの時の古い流れは、今よりずっと細かった。途切れて、ずれて、何度も見失いかけた。それでも、渡れた。
今は、鐘が鳴っている。流れは、あの時よりずっと太い。後ろには救援班がいる。船も、すぐそこに見えている。
あの時より、何もかも揃っているはずなのに。
なのに、人のいるところまでの、彼らを救えるだけの風路だけが、分からない。
手袋の中で、指を握り込んだ。
触れれば分かる。冷たさも、重さも、流れの向きも。でも、触れられるのは、手の届くところだけだ。手の届かない先で、どの流れがどの流れと重なって、どこで切れているのか。何本もの流れが一度に起き上がった海の上で、それを一本ずつ手で確かめていく時間は、もうなかった。
一目でも、見えたら。
一度でいいから、見えたら。
そんなことを思ったのは、初めてだった。今まで、見えないことを、困ったと思ったことはなかった。触れて分かれば、それで十分だったから。結局、こういう時はいつも一人だったから。
唇を、噛んでいた。鉄の味がした。
ヘルダ号の帆柱の先が、また少し、下がった。




