霧の向こうへ
これだけ大きくなる音を聞いたのは、初めてで。全身が大きく震えて、それと同時に鼓動が早くなって。
鐘が鳴り終わっても、柵の外は白いまま、何も返ってこない。それでも、身体の興奮は収まらないでいる。
ニルスさんは、縄から手を離さない。その表情に焦りはない。何を思っているのだろう。
二度目も、同じ。音が海へ出ていって、霧の向こうで細くなり、そのまま立ち消える。せめて、向こう側が見えれば、と思った。
気が付くと、柵に手をついていた。手から伝わる石の冷たさで我に返った。指先に、塩のざらつきが残っている。
向こうの鐘守も、この音色を待っているはずなんだ。グレイグ局長が、合図が来たらすぐ鳴らせと言っていたから。
ニルスさんの横顔は変わらなかった。縄を引いて、戻して、また引く。急いでも遅れてもいない。
三度目の音が鳴り終わりかけた時。その尻尾に、別の音が重なった。
ずっと遠い。窓の外の、白の奥の奥から。こちらの鐘より少し高くて、少し細い。霧を何枚も透かしてきたせいで、輪郭がぼやけている。
はじめは、自分の耳鳴りかと思ったんだ。
「来たぞ」
ニルスさんが言った。私が気づくより、半拍早い。それだけで、この人の凄さが分かる。
東の鐘の音。
ニルスさんは、次の一打を、ほんの少しだけ遅らせた。東の音が消えきるのを待ってから、縄を引く。こちらが鳴る。向こうが応える。その間を、縄を握った手が測っている。
階下から、誰かの叫ぶ声が上がってきた。言葉は鐘の音にかき消されて、聞き取れない。けれど、声の調子でなんとなく。局舎の発着場にいる人たちにも、東の鐘が届いたんだろう。
柵の外へ右手を出してみる。
手袋の縫い目に、あの細い糸が触れた。東岸からここまで、私が拾ってきた古い流れ。触れたと思った途端、糸が太くなった。指に引っかかる程度だったものが、手のひら全体を押し返してくる。糸が、縄に変わったような手応え。
加えて手の下、少し離れたところで、別の冷たさが動いた。もっと南にも、もっと低いところにも。私が通ってきた筋とは違う向きの流れが、あちこちで、一斉に身じろぎを始めている。長いあいだ止まっていたものが、鐘の音に揺すられて、順番も構わずに起き上がろうと。
互いに重なって、ぶつかって、すぐにほどける。
手を引っ込めた。手袋の中では、指がすっかり冷え切っていた。
「どう、だ」
ニルスさんが、縄を引きながら訊いた。目は海から離さない。
「これなら、なんとか」
「そうか」
それだけ言って、また縄を引いた。
「下へ行け。ここは俺だけで十分だ」
石段を駆け下りると、局舎の発着場に、救援班の三人が出ていた。
装備は、さっき長椅子に座っていた時のままだった。救援網を肩に掛けて、牽引帯の金具を腰に下げている。三人とも、東の空のほうを見ていた。
「鳴った、よね?」
一番若い魔女が、誰にともなく言った。頬が赤く染まっていて、少し興奮しているようにも見える。
隣で、年かさの魔女が、若い魔女の胸の留め具を引いて締め直している。
「……それで、どうすりゃいいんだ?」
「風評に明かりが着いてから出るんです!」
年かさの魔女は、そこで私に気づいた。
「どうだい、すごい音だったろ」
答えようとした時、霧が大きく動いて、視界が晴れていくのが分かった。
おそらく強い風が、海の上を横切った。発着場の手すりが鳴る。霧が、手前から奥へ、帯のように剥がれていく。
その向こうに、船が浮かんでいた。思っていたより、近いな。
海面から、さほど高くないところに、ずんぐりした船体が横腹を見せている。帆は畳まれたまま、帆柱の索が風に煽られて、ばたばたと音を立てていた。風と潮に押されるまま、ゆっくり回っている。
ヘルダ号。
甲板の上に、人がいて、必死にしがみついているのが見える。手すりに沿って、何人か。こちらに気づいたのか、一人が大きく腕を振っている。
若い魔女が、息を吸う。
霧の筋が一本、船のほうへ走った。
……そうだ、霧が動いたのなら、それは風が動かしたことに他ならない。鐘で目を覚ました古い流れの一本が、漂っていた船体を、真横から殴ったんだ。
ヘルダ号が、傾いた。
こちら側の舷が沈んで、向こう側が跳ね上がる。帆柱が、空を斜めに切った。甲板に積んであった木箱が、一斉に滑り出す。手すりのところにいた人が、手すりを抱えたまま、身体ごと持っていかれそうになっていた。
船体が、落ちていく。
傾いたまま、海のほうへ、ぐっと沈む。沈んだ先で、どうにか止まる。止まりきれずに、まだ少し揺れている。
誰かが、何か叫んで。私はもう、床を蹴っていた。
箒に跨がった記憶などない。気づいた時には、発着場の端が、足の下を後ろへ流れていた。
「待て!」
局舎のほうから、局員の声がする。そりゃそうだ、命令違反。
それでも。行かなきゃいけないと、思うんだ。
「申し訳、ございません」




