ええ、聞こえていますとも。
霧の向こうに、石の影が浮かんだ。
灯ではない。おそらく、塔の輪郭。岬の突端に、背の低い、四角い塔が建っている。崖の灰色に溶けかけていて、霧が流れた一瞬だけ、おぼろげな輪郭が見えては消えてを繰り返す。
西岸鐘楼。
古い流れは、塔へ向かって細くなりながら、最後まで途切れなかった。塔の手前で、手袋の縫い目から糸が抜ける。抜けたのと同じ時に、箒の下に、西岸の今の風路が触れた。
岬の根元に、小さな局舎があった。発着場の床に降りた途端、膝が一度だけ笑った。
局舎の扉が開いて、灯を提げた若い局員が飛び出してきた。
「おいおいおい! マジかよ……、どうやって」
「時間がありません!」
若い局員は何か言いたそうだが、それを飲み込んで頷く。
「こっちだ」
中では、救援班の魔女が三人、装備をつけたまま長椅子に座っていた。第五風標から先へ入るなと止められて、待っているのだという。風路が沈んだことは分かっている。けれど、東岸で何が起きているのかは、ここまで届いていなかった。
「貨物船が一隻、第四の手前から高度を下げながら南へ。乗員の安否は……不明です」
長椅子の三人が、一斉に立ち上がる。
「すぐに行かなきゃ……!」
そういった一人が、ほかの二人に止められる。
「……違いない。でも、無理だ。今出れば助ける前にこっちがお陀仏だ」
「でも、だからって、このまま……!」
止める二人も、それでもと伝える彼女も、どちらも正しい。耳を塞ぎたい、こういうのは、好きじゃない。
「……鐘守のニルスさんは」
少し、露骨だったかな。
「あ、ああ。鐘楼に。今朝からずっと上にいる。少し様子がおかしいって。それから一度も下りてこない」
局員が、岬の上を指した。
石段を、駆け上がっていく。息はすぐに上がって、胸の筒は何度も私を打った。
鐘楼の戸は、開いていた。
入ってすぐの部屋に、炉と、寝台と、細く割った薪が積んである。壁の釘に、油の匂いのする布が掛けてあった。長年使われてこなかったと聞いていたけど、とても、そんな風には、見えない。
上から、金具の触れ合う音がした。
狭い階段を上がる。一人がやっと通れる幅だ。壁の隙間から入る風が、上へ行くほど冷たくなる。
鐘の下に、老人が一人。
縄の根元にしゃがみ込んで、金具に油を差していた。白髪の混じった癖っ毛で、片側だけはねている。外套の袖をまくった腕はたくましく、手も大きい。掌の、縄の当たるところが、硬く盛り上がっている。
「ニルスさん……ですか」
老人が顔を上げた。私を見て、それから私の胸の筒を見た。
「……なんだよ」
「国際郵便組合、東部第四支局、リネット・ファルンです。至急、確認を」
ニルスさんは、すぐには手を出さずに、自分の手を見ていた。油で黒く光っている指を。
それから、腰に挟んでいた布を抜いて、指を一本ずつ拭いた。一本拭くたびに、裏返して、別の面でもう一度拭く。
急いでいた。第五鐘は、もう鳴っている。けれど、この人は、汚れた手で宛名に触りたくないのだと、手つきで分かった。そこへ、急いでくださいとは、なんか、いいづらい。
「いい」
ニルスさんが、手を出した。
筒を渡す。ニルスさんは、封緘の局長印を親指でなぞって、グレイグか、と漏らしたのが聞こえた。知っている名前らしい。友達……ではないよね。たぶん。
その場で、封を切った。
立ったまま読んでいる。紙を持つ手が、途中で一度止まって、また動いた。最後の行まで読んで、ニルスさんは、窓のほうを見た。外は白い。東岸も、海も、何も見えない。
「船か」
「はい。第四の手前から、南へ」
「人は」
「乗ってますけど、人数までは」
ニルスさんは、紙を畳んで、懐に入れた。
「わかった、少しどいてろ」
それだけ。
「えっと……」
「要らん」
ニルスさんは、鐘を見上げた。
「これが鳴れば、向こうに聞こえる。それが返事だ」
縄を、手に取りかけて、止まった。
振り返って、私を見た。上から下まで。濡れた外套の裾。手袋の、擦れた指先。
「……君は、どうやって来た」
「東岸から、海峡を」
「第四から先は、使い物にならないらしいが」
「まぁ、その、なんというか、わかるんです」
ニルスさんの眉が、少し動いた気がする。
「わかる? どういう意味だ?」
「使われなくなったからと言って、風路は無くなったわけじゃないんです。えーっと、その、少しだけ、消えずに残るものがあって……。それを辿ってきました」
「……見えるのか」
「うーん、見えるはちょっと違うんですよね、わかる、というか」
ニルスさんは、何も言わず、黙々と手を動かし続けている。ひと段落したのか、縄から手を離して、階段の脇の、低い棚のほうへ歩いていった。
棚には、鐘の手入れの道具が並んでいた。油布が二枚。予備の紐が一巻き。工具がいくつか。どれも、使い込まれていた。
その一番奥、壁と油布のあいだから、ニルスさんは細長い筒を取り出した。
掌に収まるくらいの、金属の筒だった。片側に、小さな留め具がついている。
観測針……?
養成学校で、一度だけ触らせてもらったことがある。風路に残った魔力の向きや、反応の強さを確かめる道具だ。留め具を外せば、中の針が自由になって、風の筋があればそちらを向く。けれど、学校の資料室にあったものより、ずっと古い型だ。どうして、こんなのが。
もっとすごいのは、古いのに、錆や傷みというものが全くないことだ。使っていないのであれば、尚更だ。
海の鐘楼で、塩の風が壁の隙間から入ってくる部屋で、留め具の金具が光っていた。筒の継ぎ目に、乾いた布で拭いた跡がある。最近のものではない。何年も、何十年も、同じように拭かれてきた跡。
「……どこで、これを」
「昔、もらってな」
ニルスさんは、筒を掌に乗せたまま言った。
「変な女だった。あの時は訳が分からないまま、受け取ったがな」
「……いつ頃」
「さて、な。もう、四十年は経つか。」
四十年。
この人は、四十年以上、これを棚に置いて、手入れを続けてきたのか。使わない道具を、ずっと、ずっと。
「それでも、今、わかった。こいつは、今日、この日のためにあったんだと」
ニルスさんは、観測針を、私のほうへ差し出した。
「持っていけ」
「でも、これは」
「まだまだ現役だ。動作の確認と手入れを欠かした日など、ない。信じろ」
ニルスさんは、窓の外の白いところを見た。
「そうか、これでよかったのか」
「ありがとう、ございます」
「俺は渡しただけだ。預けた奴に言うんだな」
ニルスさんは、少しだけ口の端を上げて、呟く。
「困っている郵便魔女、か。まったく、とんでもないことを任されてたんだな」
指先で、留め具を確かめた。外しはしない。金具の向きと、掛かりの深さだけを、指の腹でなぞる。
ニルスさんが、それを見ていた。
「……そこが留め具だって、分かるのか」
「えっと、はい。学校で、習いましたから」
「俺は、間違えたぞ」
ニルスさんは、そう言って、縄のほうへ戻った。
階段の下から、足音が上がってきた。さっきの若い局員と、救援班の魔女が一人。局員が、息を切らしながら言った。
「鐘守。下の灯、全部つけました。救援班、発着場で待機します」
「おう」
ニルスさんは、手袋を外して、棚に置いた。
「素手で、ですか」
「郵便魔女ってのは、みんな同じことを聞く決まりでもあるのか?」
ニルスさんの掌が、霧の冷えで、すぐに赤くなった。
縄を握る。握る位置を、目で探さなかった。手が、勝手にそこへ行く。
私は、観測針を胸の吊り具に留めた。筒を外した場所に、今度は針が収まる。
窓の外は、白いまま。あの白の、左の肩の後ろのほうで、船が流れている。
ニルスさんが、海を見た。
耳を澄ませているのだろうか。東岸の鐘は、まだ鳴っていない。西が先に鳴らなければ、東は応えない。
ニルスさんが、息を吸って、思い切り縄を、引いた。耳より先に、身体全身に来た。
石の床が震えて、ニルスさんの肩が沈み、その反動が腕を伝って返っていくのが見えた。頭の上で、鐘が重く傾く。天井の梁から、細かな埃と、塩の粒が降ってきた。
それから、音が来た。
耳の奥まで、まっすぐ入ってくる。近すぎて、思わず顔をしかめた。
縄が戻る。肩が上がる。もう一度、引く。
長いあいだ、点検されるだけで、鳴らされることのなかった鐘の音が、開いた窓から、霧の海峡へ出ていった。




