行かなくていい理由には、なりません
東岸海峡郵便局の発着場に降りて、最初に目に入ったのは、毛布だった。
発着場の隅、壁際の木箱に、若い郵便魔女が一人座っていた。肩から毛布を掛けられている。両手で湯気の消えた器を包んで、海のほうを見ている。器の中身は、ほとんど減っていない。
毛布の端から出た手の甲に、赤い擦り傷が走ってる。箒の柄を、力任せに引き起こしたのだろうか。私も、養成学校で一度だけ、同じところを擦りむいたことがある。
隣の手すりに、救援網が掛けてあった。半分しかない。切れ目の糸が、潮を吸って重く垂れ下がっている。
アデルが、小さく言った。
「リタ。さっき話した子」
名前を呼ばれても、彼女はこちらを見なかった。
膝が、毛布の下で細かく揺れている。
第四風標の先がどういう空なのか、アデルの説明より、そのほうが分かりやすく思える。
指揮室は、発着場の真上にあった。
階段を上がると、窓の前に海峡図が広げてあって、その上に、蝋筆の小さな印がいくつも打たれていた。青い点が、第四風標の手前から南へ向かって、ぽつりぽつりと並んでいる。最初のうちは間が詰まっている。南へ下るほど、点と点のあいだが空いていく。
遠眼鏡を構えた信号係の女の人が、蝋筆を握ったまま動かなかった。次の点を、打てずにいる。
部屋の奥に、レオナ校長がいた。椅子に座って、窓のほうを見ている。
校長は私に気づいて、顔をこちらへ向けた。何も言わずに、軽く手を振って、小さく頷いただけだった。
アデルは、校長の椅子の後ろへ戻って、壁際に立つ。
「東部第四支局所属、リネット・ファルンです。」
「グレイグだ」
局長はの顔は傷だらけで、少し……、いや、とても恐ろしいように見える。
彼は指揮台の上の金属筒を取った。海峡用の、青い耐潮蝋が巻いてある。封緘の上に、局長印。
「西岸鐘守……ニルスという男だ。そいつに、これを届けてくれまいか」
筒が、私の手の上に置かれた。重さはそれほどない。それでも、とても軽いようには、思えない。
「第五鐘半までに、だ」
「はい」
「……申し訳ない」
自分よりずっと背が高く、年齢も上だろう。そんな強面の人物が、私なんぞに頭を下げている。
たいへん、よろしくない。
「それと」
局長は、窓の外へ目をやった。
「渡したら向こうで待て。安全が確認されてからでも、遅くはないだろう」
筒を胸の吊り具に留める。腰には下げない。海峡の横風に振られると、飛び方が筒に引っ張られる。
信号係の人が、遠眼鏡を下ろさないまま言った。
「……さらに南へ、これ以上は、もう」
新しい点がひとつ打たれ、さっきの点から、また少し、遠ざかった。
発着場の海側の端まで出て、手すりの手前で止まる。
霧が、正面から顔に当たった。冷たい。けれど、霧の冷たさだけではなかった。頬の右側にだけ、薄い膜を一枚貼られたような冷えが、時々、乗ってくる。左には来ない。
手袋をはめたまま、右手を、海のほうへ差し出した。
今の風路は、まだそこにある。特別異常はない。ただ、その先で、押し返しが途中から抜けている。床板の一枚だけが腐っていて、そこへ足を乗せた途端に沈むような抜け方だった。さっきの彼女は、おそらく、あそこへ踏み込んだんだ。
……怖いよね。すごく、よくわかるよ。
手を、もう少し下げた。
今の風路の、ずっと下。海面に近いところに、何かが擦れた。
流れと呼べるほどの力はない。手袋の革の縫い目に、細い糸が一本、引っかかって、すぐ外れる。それくらいの手応えだった。今の風路より冷たくて、向きが少しだけ南に寄っている。
古い。
箒に跨がって、発着場の床から、ほんの少しだけ浮いた。
穂先を、その冷たい筋の上へ寄せる。今の風路から外れた途端、箒が重くなった。けれど、下から、ごく薄く、何かが箒の腹を支えようとしている。支えきれずに、また離れる。
誰も何も言わなかった。
グレイグ局長も、校長も、窓の前にいるはずだ。アデルも。急げとも、無理をするなとも、誰も言わない。
アデルなんて、真っ先に声を張り上げそうなものだけれど。でも、それはたぶん。
頬の右側に、また冷えが乗った。
途切れていない。少なくとも、手を伸ばした先の霧の中までは。
西岸まで続いているかどうかは、分からない。それは、行かないと分からない。
「行かなくて良い理由には、なりません」
誰に言ったのか、自分でもよく分からない。それでも、信用には、応えたい。
床を、思い切り蹴った。
霧に入ると、東岸はすぐに消えた。振り返っても、白しかない。発着場の灯も、指揮室の窓も、どこにあったのか分からなくなる。
手袋の縫い目に引っかかる、あの細い糸だけを頼りに進んだ。
今の風路の上を飛ぶのとは、わけが違う。乗ってしまえば、あとは向きを決めるだけでいいんだ、普通は。この古い流れは、乗ったそばから痩せていく。痩せたところで箒が沈み、沈んだぶんを自分の魔力で持ち上げる。少し行くと、また太くなる。太くなったところで、箒がふっと軽くなる。
こんな心許ないものを頼りに飛ぶのは、本当いに怖い。そのはずなのに。なぜかいつも、不思議と心は昂ってしまう。
軽いところは、すぐに終わる。終わった先で速度が出ていると、痩せた流れを踏み越えてしまう。踏み越えた先には、何もない。この繊細な調整が楽しくて仕方ない。
胸の筒が、時々、小さく鳴った。
どれくらい飛んだのか、分からなくなりかけた頃、背中のほうから鐘が聞こえた。
東岸の時鐘だった。霧に吸われて、遠い。
第五鐘。
あと、半分。
その音が消えるのと同じくらいの時に、手袋の縫い目から、先ほどまで辿れていた糸が外れた。
外れたまま、戻ってこなかった。
箒が、深く沈みこむのが分かる。
「浮揚、維持。出力、二段階上昇」
柄を引き起こす。両膝で締める。落ちはしない。けれど、下から支えていた薄いものが、どこにもなかった。前へ手を伸ばしても、冷たい霧があるだけだ。頬にも、何も乗ってこない。
このまま前へ出れば、もう風路の外だった。古いも新しいもない、ただの海の上に投げ出されるだけ。それは遭難と何ら変わらない。
止まった。止まっているあいだも、魔力は減っていく。箒を宙に置いておくだけで、手のひらから少しずつ抜けていく。
焦って、前へ手を伸ばし続けた。何もない。少し上も、何もない。
前にしか、手を伸ばしていなかった。
右手を、横へ回した。
何もない。
左へ。
左の、少し下。手袋の小指の付け根に、糸が触れた。
あった。
さっきまでの筋から、箒一本分ほど左にずれていた。まっすぐ西へ続いているはずの流れが、そこで途切れて、横へ逃げて、また続いている。
コレ、継ぎ目だ。
古い風路が、昔の地図の線のまま、きれいに残っているわけではない。何十年という月日が、海の風に何度も押されて、ずれて、切れて、ずれたところでまた繋がっている。
穂先を、左へ寄せた。箒の腹に、薄い支えが戻ってきた。
息を吐いて、また進んだ。
しばらくして、霧の奥で、何かが軋んだ。
木が擦れる音だった。大きな、重いものが、波に持ち上げられて、下ろされる時の音。鎖か、金具が、それに合わせて鳴っている。
船だ。
姿は見えない。左の、ずっと下のほうから聞こえる。距離は分からない。近いのか、霧が音を運んでいるだけなのか。
それから、声が聞こえた。
言葉にはなっていなかった。誰かが、誰かを呼んでいるような、短い声だった。一度だけ聞こえて、波の音に紛れた。
私一人が船の上へ降りても、乗っている人たちを連れて帰ることはできない。そもそも、あの音の真下に、この細い流れが続いているのかどうかも分からない。続いていなければ、船の上で、私の箒も沈む。
あの人たちを連れて帰れるのは、救援班の担当。救援班が飛べる道を作るのは、西の鐘だ。だから、私がすべきなのは。
胸の筒が、また小さく鳴った。
ごめん、もう少しだけ持ちこたえて。必ず、届けるから。 東岸海峡郵便局の発着場に降りて、最初に目に入ったのは、毛布だった。
発着場の隅、壁際の木箱に、若い郵便魔女が一人座っていた。肩から毛布を掛けられている。両手で湯気の消えた器を包んで、海のほうを見ている。器の中身は、ほとんど減っていない。
毛布の端から出た手の甲に、赤い擦り傷が走ってる。箒の柄を、力任せに引き起こしたのだろうか。私も、養成学校で一度だけ、同じところを擦りむいたことがある。
隣の手すりに、救援網が掛けてあった。半分しかない。切れ目の糸が、潮を吸って重く垂れ下がっている。
アデルが、小さく言った。
「リタ。さっき話した子」
名前を呼ばれても、彼女はこちらを見なかった。
膝が、毛布の下で細かく揺れている。
第四風標の先がどういう空なのか、アデルの説明より、そのほうが分かりやすく思える。
指揮室は、発着場の真上にあった。
階段を上がると、窓の前に海峡図が広げてあって、その上に、蝋筆の小さな印がいくつも打たれていた。青い点が、第四風標の手前から南へ向かって、ぽつりぽつりと並んでいる。最初のうちは間が詰まっている。南へ下るほど、点と点のあいだが空いていく。
遠眼鏡を構えた信号係の女の人が、蝋筆を握ったまま動かなかった。次の点を、打てずにいる。
部屋の奥に、レオナ校長がいた。椅子に座って、窓のほうを見ている。
校長は私に気づいて、顔をこちらへ向けた。何も言わずに、軽く手を振って、小さく頷いただけだった。
アデルは、校長の椅子の後ろへ戻って、壁際に立つ。
「東部第四支局所属、リネット・ファルンです。」
「グレイグだ」
局長はの顔は傷だらけで、少し……、いや、とても恐ろしいように見える。
彼は指揮台の上の金属筒を取った。海峡用の、青い耐潮蝋が巻いてある。封緘の上に、局長印。
「西岸鐘守……ニルスという男だ。そいつに、これを届けてくれまいか」
筒が、私の手の上に置かれた。重さはそれほどない。それでも、とても軽いようには、思えない。
「第五鐘半までに、だ」
「はい」
「……申し訳ない」
自分よりずっと背が高く、年齢も上だろう。そんな強面の人物が、私なんぞに頭を下げている。
たいへん、よろしくない。
「それと」
局長は、窓の外へ目をやった。
「渡したら向こうで待て。安全が確認されてからでも、遅くはないだろう」
筒を胸の吊り具に留める。腰には下げない。海峡の横風に振られると、飛び方が筒に引っ張られる。
信号係の人が、遠眼鏡を下ろさないまま言った。
「……さらに南へ、これ以上は、もう」
新しい点がひとつ打たれ、さっきの点から、また少し、遠ざかった。
発着場の海側の端まで出て、手すりの手前で止まる。
霧が、正面から顔に当たった。冷たい。けれど、霧の冷たさだけではなかった。頬の右側にだけ、薄い膜を一枚貼られたような冷えが、時々、乗ってくる。左には来ない。
手袋をはめたまま、右手を、海のほうへ差し出した。
今の風路は、まだそこにある。特別異常はない。ただ、その先で、押し返しが途中から抜けている。床板の一枚だけが腐っていて、そこへ足を乗せた途端に沈むような抜け方だった。さっきの彼女は、おそらく、あそこへ踏み込んだんだ。
……怖いよね。すごく、よくわかるよ。
手を、もう少し下げた。
今の風路の、ずっと下。海面に近いところに、何かが擦れた。
流れと呼べるほどの力はない。手袋の革の縫い目に、細い糸が一本、引っかかって、すぐ外れる。それくらいの手応えだった。今の風路より冷たくて、向きが少しだけ南に寄っている。
古い。
箒に跨がって、発着場の床から、ほんの少しだけ浮いた。
穂先を、その冷たい筋の上へ寄せる。今の風路から外れた途端、箒が重くなった。けれど、下から、ごく薄く、何かが箒の腹を支えようとしている。支えきれずに、また離れる。
誰も何も言わなかった。
グレイグ局長も、校長も、窓の前にいるはずだ。アデルも。急げとも、無理をするなとも、誰も言わない。
アデルなんて、真っ先に声を張り上げそうなものだけれど。でも、それはたぶん。
頬の右側に、また冷えが乗った。
途切れていない。少なくとも、手を伸ばした先の霧の中までは。
西岸まで続いているかどうかは、分からない。それは、行かないと分からない。
「行かなくて良い理由には、なりません」
誰に言ったのか、自分でもよく分からない。それでも、信用には、応えたい。
床を、思い切り蹴った。
霧に入ると、東岸はすぐに消えた。振り返っても、白しかない。発着場の灯も、指揮室の窓も、どこにあったのか分からなくなる。
手袋の縫い目に引っかかる、あの細い糸だけを頼りに進んだ。
今の風路の上を飛ぶのとは、わけが違う。乗ってしまえば、あとは向きを決めるだけでいいんだ、普通は。この古い流れは、乗ったそばから痩せていく。痩せたところで箒が沈み、沈んだぶんを自分の魔力で持ち上げる。少し行くと、また太くなる。太くなったところで、箒がふっと軽くなる。
こんな心許ないものを頼りに飛ぶのは、本当いに怖い。そのはずなのに。なぜかいつも、不思議と心は昂ってしまう。
軽いところは、すぐに終わる。終わった先で速度が出ていると、痩せた流れを踏み越えてしまう。踏み越えた先には、何もない。この繊細な調整が楽しくて仕方ない。
胸の筒が、時々、小さく鳴った。
どれくらい飛んだのか、分からなくなりかけた頃、背中のほうから鐘が聞こえた。
東岸の時鐘だった。霧に吸われて、遠い。
第五鐘。
あと、半分。
その音が消えるのと同じくらいの時に、手袋の縫い目から、先ほどまで辿れていた糸が外れた。
外れたまま、戻ってこなかった。
箒が、深く沈みこむのが分かる。
「浮揚、維持。出力、二段階上昇」
柄を引き起こす。両膝で締める。落ちはしない。けれど、下から支えていた薄いものが、どこにもなかった。前へ手を伸ばしても、冷たい霧があるだけだ。頬にも、何も乗ってこない。
このまま前へ出れば、もう風路の外だった。古いも新しいもない、ただの海の上に投げ出されるだけ。それは遭難と何ら変わらない。
止まった。止まっているあいだも、魔力は減っていく。箒を宙に置いておくだけで、手のひらから少しずつ抜けていく。
焦って、前へ手を伸ばし続けた。何もない。少し上も、何もない。
前にしか、手を伸ばしていなかった。
右手を、横へ回した。
何もない。
左へ。
左の、少し下。手袋の小指の付け根に、糸が触れた。
あった。
さっきまでの筋から、箒一本分ほど左にずれていた。まっすぐ西へ続いているはずの流れが、そこで途切れて、横へ逃げて、また続いている。
コレ、継ぎ目だ。
古い風路が、昔の地図の線のまま、きれいに残っているわけではない。何十年という月日が、海の風に何度も押されて、ずれて、切れて、ずれたところでまた繋がっている。
穂先を、左へ寄せた。箒の腹に、薄い支えが戻ってきた。
息を吐いて、また進んだ。
しばらくして、霧の奥で、何かが軋んだ。
木が擦れる音だった。大きな、重いものが、波に持ち上げられて、下ろされる時の音。鎖か、金具が、それに合わせて鳴っている。
船だ。
姿は見えない。左の、ずっと下のほうから聞こえる。距離は分からない。近いのか、霧が音を運んでいるだけなのか。
それから、声が聞こえた。
言葉にはなっていなかった。誰かが、誰かを呼んでいるような、短い声だった。一度だけ聞こえて、波の音に紛れた。
私一人が船の上へ降りても、乗っている人たちを連れて帰ることはできない。そもそも、あの音の真下に、この細い流れが続いているのかどうかも分からない。続いていなければ、船の上で、私の箒も沈む。
あの人たちを連れて帰れるのは、救援班の担当。救援班が飛べる道を作るのは、西の鐘だ。だから、私がすべきなのは。
胸の筒が、また小さく鳴った。
ごめん、もう少しだけ持ちこたえて。必ず、届けるから。




