海峡の救援要請
第四風標の鈴だけ、反応が鈍い。
東岸海峡郵便局の指揮室は、発着場の真上にある。海側の壁は一面が窓で、その外に五つの観測鈴が吊られていた。朝から海霧が入り込み、窓枠の金具には細かな水の粒が並んでいる。床板は湿って、歩くたびに靴底に薄く吸いつくような感じがする。
欠航の報せは、未だに出ていない。
鈴が鳴る。第一風標から順に、海峡を渡る風に押されて、低い音がひとつずつ並んでいく。三つ目と四つ目のあいだにだけ、息をひとつ吸えるほどの隙間があった。
バルト・グレイグは、指揮台へ伸ばしかけた手を止めた。
霧の朝は、どの鈴も少しずつ遅れる。珍しいことではない。ただ今朝は、第四だけがほかより半拍ほど後ろにいた。
「トマ。第四……、遅くないか」
観測員のトマは、湯気の消えかけた茶の椀を置いて、人差し指をこめかみに当ててぐるぐると回している。
「遅れてはいますね。誤差の範囲とも」
「早朝からずっとか?」
トマは紙を巻き戻し、始業時の欄に指を置いた。二本の線を見比べて、少し黙る。
「……開いてます……ね。ほんの少しですけど。気にしすぎでは?」
「万が一があってからでは遅いんだ、いつも言ってるだろ」
「まぁ、そーなんですけどぉ」
そう言いながら、トマは椀に手を伸ばし、口をつけずに戻した。
グレイグは海峡へ目をやった。
霧の向こうに風標の灯が並んでいる。第一と第二ははっきりしている。第三は白く滲み、第四はさらに滲み、第五は針の先ほどの光になって揺れていた。
消えてはいないのだから、止めるほどではない。
その判断が、喉の奥に引っかかったまま、下りていかなかった。
部屋の奥の卓には、朝の点検の続きが広げたままになっている。海峡便の救援魔女が胸に巻く保護帯が三本。縁の縫い目は潮で固まり、一本は留め具の近くで糸が毛羽立っていた。
その前に、私とアデルが座っている。
保護帯に織り込まれた保護魔法の効き目を、実物を見て測りたいと言って、今朝ここへ来た。自分では飛ぶことが出来ないのは、《《たいへん腹立たしい》》。仕方がないので郵便魔女がひとり、箒の後ろに乗せて運んできている。アデル・グランツは校長である私の椅子の少し後ろで、壁に背を預けていた。来た時には霧で髪が額に貼りついていて、しきりに気にしているようだった。
点検のあいだ、私は毛羽立った縫い目を爪の先で何度も起こしていた。誰がこれを巻いていたのかと訊き、名前を聞くと、それを紙に書き留めた。
今、その指が縫い目から離れた。顔を上げたが、口は開かなかった。
グレイグも、黙っていた。
「局長」
信号係のミラが、窓に額がつくほど身を乗り出していた。
「第四の手前、発光信号です。貨物船……ヘルダ号です」
トマが椅子から腰を浮かせた。
グレイグは信号台の横へ出た。
霧が一瞬だけ薄くなる。第四風標の灯の手前、海面すれすれに、ずんぐりした船体が浮かんでいた。帆は畳まれている。舳先が、いつもの航路とは違う方角を向いているのが見て取れる。
光が三度、途切れながら瞬く。
「舵、効かず。機関、停止。」
即ち。
「乗組員は……戻れません」
「急げ!」
「急げって言われても!」
船はゆっくりと向きを変えていく。潮と風に、横腹を押されている。
「救援班、準備だ!」
足元の発着場から返事が上がった。救援網が床に広げられる音がする。牽引帯の金具が触れ合う。魔女たちが保護帯を胸に巻き、留め具を鳴らして締める。卓の上の擦り切れた三本と同じ型だった。
鈴がまた一度鳴った。三つ目までは、さっきと同じ低さで続いた。
トマの手が、茶の椀の縁で止まっていた。
四つ目が、待てども待てども来なかった。
グレイグは海峡を見据えたまま、左手で窓枠を掴んでいた。濡れた金具が掌に食い込む。
第四風標の灯が、ない。
「第四、消灯!」
トマの声が裏返った。
部屋が一斉に動き出す。海峡図の上に透明板が引き出され、第三から第五をつなぐ青線に赤が重なった。風圧紙が音を立てて巻き取られ、魔力流の針は震えたまま戻らない。トマの肘に当たった椀が床に落ち、冷めた茶が板の目に沿って広がった。誰も拾わなかった。
発着場の端から、箒がひとつ飛び出した。
「リタ!」
下で誰かが叫んだ。救援班でいちばん若い魔女だった。救援網の端を肩に掛けたまま、ヘルダ号のほうへまっすぐ出ていく。
「戻せ!」
グレイグの声で、発着場の係が信号旗を振った。
リタは第三風標の手前まで見る見るうちに加速していく。そこで、箒が沈んだ。穂先が海面へ向き、リタの身体が柄にしがみつく格好になる。救援網が肩から滑り、海のほうへ垂れ下がった。
ミラが両手で口を覆った。
リタは柄を引き起こし、穂先を振って、もがくように高度を取り戻した。来た道を這うように戻ってくる。発着場の床に足がついた途端、膝が折れた。網は半分を海に置いてきている。
「すみません……すみません……!」
リタの声が、下から切れ切れに上がってくる。救援班の年長の魔女が、その背中に手を置いて黙らせていた。
「第三から先へは誰も出すな」
「局長、でも船が――」
「分かっている」
グレイグは流されていく船を目で追っていた。
甲板の上で、小さな人の形がいくつか動いている。こちらへ手を振っているのかもしれない。振っているのか、縁にすがっているのか、この距離では見分けがつかなかった。
「よく無事だった」
発着場では、リタが膝をついたまま肩で息をしている。救援班の残りは網を抱えたまま、第三風標の手前の空を見ていた。誰も動けないままでいる。
グレイグは窓枠から手を離す。掌に、金具の跡が赤く残っているのが見えた。
「西岸は」
通信士が首を振った。
「第三回線まで試しましたが、どれも返ってきません」
「船便は」
「霧で停止命令が出ています。港長からも、出すなと」
「西岸の救援班は」
「向こうも、第五風標から先への進入を止めているはずです。確認は取れていませんが」
ミラが遠眼鏡を目に当てたまま、声を落とした。
「……見失いました」
霧が厚くなっていた。さっきまで浮かんでいたずんぐりした影が、どこにもない。発光信号も途絶えた。
ミラは遠眼鏡を下ろさなかった。唇だけが小さく動いている。船の名を繰り返しているのか、数を数えているのか、グレイグには聞き取れなかった。
やがて霧が薄れる。
「いた。いました。……南へ、さっきより」
船は流れていた。
次に霧が寄せた時、姿が消えるまでの間は短かった。戻ってくるまでの間は長かった。そのたびにミラの肩が上がり、下がった。
「南西から嵐です」
トマが、床の茶を踏まないように爪先立ちで風圧紙を持ってきた。赤い線が、朝より明らかに濃い。
「第六鐘まではもちません。霧も増えてます。第五鐘半を過ぎたら、霧笛島から先は、まず見えなくなります」
透明板の上に、第五鐘半の線が引かれた。
その線を越えたら、船は探せない。探せない船は助けられない。
グレイグは海峡図の西側へ手を伸ばした。
今の地図の下に、もう一枚、古い図が挟まれている。黄ばんだ紙に、東岸鐘楼と西岸鐘楼を結ぶ細い線が一本きり。現行の風路網が整う前、海峡を渡る道はこれしかなかった。東と西で同時に鐘を鳴らし、海の上に風を起こす。グレイグが見習いの頃、一度だけ訓練で鳴らしたことがある。三日ほど難聴になった。
「旧海上風路を起こす」
部屋が静まった。
最初に動いたのは、書記のハンネスだった。この部屋でグレイグより長く働いている唯一の男で、眼鏡を額に押し上げたまま、もう引き出しを開けていた。
「東岸の鐘守には、すぐ伝えます」
「西岸は」
ハンネスは引き出しから厚紙を一枚抜いた。角が少し黄ばんでいる。
「正式な依頼状が要ります。局長の名で、西岸鐘守本人宛て。《《彼》》の協力がなければ、向こうの鐘は鳴らせません」
「至急準備しろ」
ハンネスが定型の文言を埋め、宛名を書き入れた。グレイグは横から署名し、印を押した。朱が紙に沈む。ハンネスが封をし、海峡用の青い耐潮蝋を巻いて、金属筒へ納めた。
手の中に、筒がひとつ残った。
重くはない。
通信は通らず、船は出せず、海峡便の魔女は第三風標から先へ行かせられない。
書くことはできた。封もできた。だが。
……届けられる者がいない。
「第五鐘半までに、これが向こうに着けば――」
ハンネスが言いかけた。
「違う」
グレイグは筒を指揮台に置いた。金具が濡れた木板に当たって、硬い音を立てた。
「着けばいいんじゃない。第五鐘半までに、鐘を鳴らせなければ」
その先は、考えたくもない。
ハンネスは眼鏡を鼻へ下ろし、透明板の線を見直した。それから小さく頷いた。
「万事休す、とでも言いましょうかの」
「一人だけ」
そう呟いた私に視線が集まった。いえ、これでは正しくありません。きっと注意されたんでしょうね。
『間違っては、いませんが。それは、正しくありません』
フフッと少し口角が吊り上がったのをが分かった。今は、それよりも。
「一組だけ、その無理難題をこなす方法があります」
「えっと……?」
「そんな都合のいい人がいるのか。仮に向こう側へ飛べるものがいるとして、こちらに着くのがそもそも間に合うのか」
痛いところを突かれた、と言うような顔で埋め尽くされる。別に意地悪をしているつもりは、無いのですけど。
「たいへん幸運なことに、それができるパーツが一つ、この場には有るんですよね」
「そんな勿体ぶってる場合じゃ……!」
「アデル、後はお願いね」
「承知しました」
グレイグは迷わなかった。
「第四風標消灯、現行風路使用不能。貨物船漂流、乗員あり。西岸鐘守本人宛て鐘鳴依頼状一通を同送。第五鐘半までに西岸鐘鳴を」
通信士が打ち込んでいく。ハンネスが救援記録に時刻を書き入れる。
グレイグは指揮台の筒を取り上げ、封緘を親指でなぞってから、通信士へ渡した。筒が緊急転送管の口へ納まる。
「東岸鐘守へ。合図が来たら、すぐに鳴らせ」
「伝えます」
ハンネスが立ち上がった。
「救援班は第三の手前で待機。旧風路が起きるまで入るな。リタは休ませろ」
「ミラ」
「はい」
「ヘルダ号の位置を、見えるたびに海峡図へ落としてくれ。流れる向きが知りたい」
「はい」
ミラは遠眼鏡を片手に持ったまま、もう片方の手で蝋筆を取った。
通信台の送信鈴が三度鳴った。筒が管の奥へ吸い込まれていく音がして、止んだ。




