飛ばない魔女への配達報告④
騒ぎが収まったころには、もう、日も落ちていた。
リネットさんは、とっくに第四支局へ帰ったみたいだ。ボク以外の皆も、一人、また一人と引いていって、発着場には、ボクと、校長先生だけが残る。
帰ればいいのに、なんだかそんな気分になれなくて。自分の箒を何となく手入れしている。
穂先を見て、柄を撫でて、革紐の締まりを確かめて、留め具をひとつずつ押してみる。異常はない。分かってる。異常なんて、あるわけがない。だって、この箒は、ついさっき、ちゃんと飛んだんだから。
ボクじゃなくて……リネットさんが、だけど。
もう一度、穂先を確かめる。もう一度、革紐を。何度でも、確かめられるんだ。確かめているあいだは、ほかのことを、考えなくて済むから。
校長先生が残っているのは……なんでだろ。少しの不安が、胸を潰してくる。息苦しくて、苦しい。
でも、しばらく、何も言われなかった。ボクが黙っているから、だと思う。顔を上げるのが、怖かった。
先に口を開いたのは、ボクのほう。沈黙に耐えられなかったから。こう言うところなんだと思う。
「……リネットさん、スゴかったですね」
学校始まって以来の天才と言われている彼女と話せたのは、本当に幸運だったと思う。ボクらの世代で、彼女を知らないコなんて居ない。
だからこそ、その幸運が余計に自分を醜くさせる。
「そう、ですね」
校長先生は、それだけ返してくれた。でも、それ以上何も言ってくれないのは、やっぱり苦しい。
「……今日、ボク、箒を手に」
言葉を口にするたび無心に動かしていた手が、動かなくなっていった。
分かって、いたのに。
「地面を蹴る、そのときだけ、身体が止まって」
言葉にすると、全部、ぜんぶが、嘘みたいだ。
「前に、一度落っこちて」
ちょうど、今日みたいな天気だったと思う。怪我は、随分前に治った。と言うか、そこまで大きな怪我をしたわけじゃない。でも。
あの落ちていく時の、体の芯から凍てついていくような感覚が、ずっと消えずに残っている。
「飛ぼうとすると、戻ってくるんです。落ちたときの、あの感じだけ。頭は、飛べるって分かってるのに。足だけ、動かなくて」
ボクが、本当に悔しいのは。
飛べなかったこと、じゃない。
「目の前で、友達が、落ちそうだったのに。ボクは、行けなかった」
それが、いちばん。
風も読めて、場所も分かってて、助け方まで分かってて。それでも、動けなかった。結局、リネットさんに、やってもらった。
言ってから、つい、こぼれた。
「……校長先生には、分からないですよね」
校長先生は、飛ばない。飛べない、郵便魔女として、有名な人だ。ボクとは、違う。
……言ってしまってから、しまった、と思った。いちばん、言っちゃいけない人に。違うんです、と言おうとして、顔を上げる。
そこには柔らかく微笑む先生がいた。
「……だからでしょうか、こんなに、あなたをうらやましく思えるのは」
予想外だった。一番言われたくないことを言ってしまったはずだ。それなのに。本当に、自分のこういう所が、大嫌いだ。
「少しだけ、昔話をしても?」
言葉に詰まる。ごめんなさい、すみません、申し訳ございません、そんな言葉だけが、頭の中を駆け抜けていって、先生が何を言いたいのか、わからない。
「大丈夫、落ち着いて」
そっと手を握られる。今日二度目だ。二人とも、両手で包み込むように。不思議と気分が落ち着いていくのがわかる。回っていた視界がようやく定まって、騒音を奏でていた鼓動は、落ち着きを取り戻しつつあるのが分かった。
「私も、《《飛べない》》事で色々悩んだから。だから、少しだけ理解できます」
「先生も……?」
「ええ。でも、恥ずかしながら、周囲に当たり散らしたんです、私。当時は幼かったからで片付けられないくらいに。今思い出しても、いえ、今だからこそ、当時を思うと物凄く胸が苦しくなりますね」
とても、想像できないなと思った。それでも、その言葉には嘘はないんだとも思った。少し遠くを見るように、焦点のぼやけた瞳には、悲哀の色が濃く、言葉の端々に怒りにも似た強さがある。
「とても、大切な人に沢山の傷を付けました。だからなんとなく、あなたがどんな気持ちで言ってるのか、理解できるんです」
この人が飛べないのに校長先生になった理由を少し、理解できたと思う。
「同じくらい、あの人もたぶん、こんな気持ちだったんでしょうね。《《たいへん、よろしくない》》」
先生の手は、小さい。顔を上げられないからわからないけど、おそらく、ボクの手よりもずっと。それでも、ずっと、ずっと、あったかい。
「……飛びたいよぉ」
ずっと、言えなかったこと。空が、嫌いになったわけじゃない。箒だって、嫌いじゃない。いつでも飛べるように、ずっと、整えてるのに。役割を果たせないこの子に、申し訳なくて、悔しい。
「ええ、飛べますとも。あなたは、私と違いますから」
「……スミマセン」
根に持たれただろうか。いや、そうではなさそうだ。
「フフ、リンも私の前だと、良くそんな顔をするわね」
リネット先輩も……?
その言葉が口に出ることはなくて。ボクは、手入れの終わった箒を、いつもの壁際へ戻そうとして——手を、止めた。
なんか、今日はそこに置きたくなかった。
理由は、うまく言えない。でも、今日のこの箒を、いつもの場所に、いつもみたいに寝かせてしまうのは、なんだか、違う気がした。
箒を、抱え直す。持って帰ることにした。
校長先生は、何も言わずに、ただ、ボクの隣を、一緒に歩いてくれた。




