飛ばない魔女への配達報告③
学校への便は、この経路のついでに落としていく。今日も連絡書を一通、事務室へ届けた。それだけなら、すぐ帰れるはずだったんだけど。
鞄の底には、まだあの受領票がある。使用担当者の欄が、まっさらなままの。この前も、その前も、ティルは「あとで」と言って、結局、押さないままで。帳簿は、閉じないまま。
もう一回ティルの前に立って、同じことをお願いする。……それは、どうしても、気が進まなかった。あの、逃げ道を探すような目を、見たくはないから。
だから事務室で、ついでみたいな顔をして、校長先生に相談できませんか、って訊いてみた。別で用事もあるし。
自分でも、逃げてるな、とは思う。ティルに言えないことを、校長先生に肩代わりしてもらおうとしてる。でも。
通されるまで、廊下で少し待つ。窓から、発着場が見えた。今日もティルは壁際にいて、生徒の箒を膝に乗せている。遠すぎて、何を直してるのかは分からないけど、たぶん、また古い紐だ。
校長室は、相変わらず静かだった。
壁に、黒い外套。裾に、金の細い刺繍が一本、流れるように入っている。机の上は、よく片づいている。綺麗好きなのは、相変わらずみたい。
……この部屋のにおいだけで、勝手に背筋が伸びる。身体って、覚えてるんだな。
「あら、リン」
校長が、記録簿から顔を上げて、こちらへ視線を流す。
「……頼まれてた件ですけど」
「なかなか、上手くいかないものですね」
その声は、思っていたより、ずっと穏やか。昔の剣幕が嘘のように思う。……それはそれで、落ち着かない。
鞄から受領票を出して、机に置く。空欄を、指で示した。
「これ、本当に私で大丈夫ですか? 自信がなくなったんですけど」
校長先生は、受領票を手に取った。担当印の空欄のところで少しだけ、目を細める。
「ええ、あなたの言葉になら、耳を貸してくれると思ったのだけれど」
指先が、紙の端をなぞる。
「……スイマセン」
言ってから、しまった、と思う。自分の情けないところが、口から出てしまった。
校長先生は、笑わずに。しばらく、私を見ていた。
「いえ、そうじゃないんです。泣き言を言いに来たんじゃなくて。どうしたらいいか、相談したくて……」
「《《たいへん、よろしい》》。わからないことを素直に言うのはなかなか難しいものですから」
少し、頬を緩めて、それから机の受領印を一度手に取って、また置いた。
「少し、踏ん切りがつかないだけ、でしょうか」
訊いていいのか、迷った。迷ったまま、口が動く。
「……《《飛ばない》》から、ですか」
「……そうね、《《飛ばない》》から。私と違ってね」
うーん、触れづらい。確かに、校長先生は《《飛べない》》郵便魔女として有名だ。就任当時からその事で色々あったのは誰でも知っている。
だからこそ、それには触れたくない。ここは沈黙が金。余計な口は、開かない。
校長先生は、記録簿を開くと、短く何か書きつけた。封蝋の棒を蝋燭の火にかざして、溶けた蝋を、紙の端に落とす。校長鍵の小さな印で、そっと、押さえた。
「今回は、私が代わりに」
「……いいんですか」
「優秀な魔女を私用で何度も呼びつけては、私の立場が悪くなりますから」
少しだけ微笑んだ。
それから、受領票を、私のほうへ戻す。空欄は既に本来あるべきものとは違う形で、埋められている。
受け取って、鞄に戻す。それでは、と言いかけた折、校長先生が言った。
「第四支局は、どう?」
「……忙しくて、たいへんですけど」
「けど?」
「面白い、ですかね」
校長先生が、また少し笑う。
「そう」
それだけ。でも、その返事には、送り出した生徒がの成長を喜んでいる、そんな響きがあった。……気がする。
礼をして、校長室を出た。背中で、扉が閉まる。
……結局、一度も、怒られなかった。それが、なんだか、調子を狂わせる。
発着場に戻ると、ティルはやっぱり、古い紐と格闘していた。
「ティル」
呼ぶと、びくっと顔を上げる。名前、まだ慣れないらしい。
「さっきの受領票、なんだけど」
「あ……ご、ごめんなさい、まだ」
「ううん。もう、いいの。校長先生に貰ったから」
ティルは、きょとん、とした。
「……いいん、ですか」
「うん。いいんだよ」
ほっとした顔になる……かと思ったら、ティルは、ちょっとだけ、困ったみたいに笑った。
「……すみません。なんか、ボクのせいで」
「ティルのせいじゃないよ」
午後の実習が、始まっていた。
帰ろうと、自分の箒のほうへ歩く。ティルはいつもの位置で、生徒の鞄を確かめたり、空を見上げたりしている。じゃあ、またね——と言いかけた、そのとき。
帰投してくる生徒の一人が、風路から弾かれたのが分かった。支えを失い、何とか持ちこたえているように見えるが、それも長くはもたない。
派手な嵐じゃない。高度も、そんなにない。ただ、進入の途中で、横から入った流れに箒が一度、大きく沈んだ。経験の浅さからくる、初歩的な失敗だ。
教師が声を上げるより先に、ティルが動いた。
壁際の、自分の箒を取る。
迷わない。地面へ置いて、跨がって、柄を握って、留め具まで確かめる。全部、びっくりするくらい、手慣れていた。
——飛ぶんだ。
一瞬、そう思った。
ティルが、空を見る。落ちてくる生徒の位置も、風も、ちゃんと読めているんだろう。
それから地面を――蹴れない。
もう一度。箒は、ちゃんと風を拾ってる。穂先も、僅かに浮いてる。それなのに、ティルの足だけが、石床から離れない。
指が、柄に食い込む。息が、止まってる。顔から、血の気が引いていく。
何が起きてるのか、私にも、最初は分からなかった。
ティルは、まだ行こうとしている。でも、身体が、動かない。
――それ以上は、見ていられなかった。
自分の箒を取りに行く時間はない。
「貸して!」
ティルの跨った箒を一度沈めて、引き抜いきながら、全力で走る。
「いだっ!」
おそらくバランスを崩したティルが尻もちをついたような音がした。
……ごめん、それでも、今は一刻を争うから。振り返らずに箒へ魔力を流し込み、それに腰掛けるように飛び乗った。安全面を考えると、褒められたものではない。でも、今はこっちのほうが早い。
姿勢制御の難易度が跳ねあがるから推奨はされない。それどころか、授業でこんなことをすれば、厳重注意を受ける。一発芸としての見栄えはいいんだけど。
落ちていく生徒。横から入った流れ。高度は、ぎりぎり足りる。いける。
右から回って、下へは入らず、前へ。抱き止める、っていうより、流れから押し出して、降りられる側へ戻す感じ。うん、なんとかなったかな。
戻ると、あたりは、その子の無事を確かめるのに慌ただしい。ティルだけが、少し離れたところに、ぽつんといた。
箒からは、降りてる。……いや、奪ったのは私だった。
「さっきはごめん」
しばらく、返事がなかった。
それから、
「……すみません」
と、こぼれた。《《たいへん、よろしくない》》。
「えっと、それは私のセリフじゃ?」
ティルは、私が持ったままの箒を真っ直ぐ見ている。
「行こうとは、したんです」
少し黙ってから、ティルは続けた。
「前に、一度……落ちてて」
「怪我は?」
「もう、とっくに治ってます」
少し、笑おうとする。
「だから、飛べるはずなんですけどね」
その手は、まだ、震えている。ついそっと、その手を握ってしまった。
「強がる必要は、ありません」
いつからいたのか、発着場の端に、校長先生がいた。
「できることを少しずつ」




