二十七回目の鐘
翌朝、白鐘院を出た。夜のうちに沈んでいた旧風路は、朝になると、少し力を取り戻したように感じる。それでも、谷底へ引かれていることには変わらない。
発着場で、セリスさんから小さな封筒を受け取った。第四支局宛ての、受領控えだ。なかには、白鐘院の確認印、現名署名の写し、保護番号の照合記録。
「たしかに」
「では、お願いします」
セリスさんはそう言って、すぐに中庭へ目を向けた。職員たちが、鐘布の位置を直している。子どもが一人、食堂用の名札を持ったまま走りかけて、セリスさんに見られ、歩き直した。
「白鐘の日まで、忙しそうですね」
「毎年のことです」
セリスさんが答える。
「でも、今年は少し、頑張れそうです」
セリスさんは、中庭の白い布を見ていた。
「まだ、院長に言っただけですけど。……二十七回目を、私が鳴らします」
「二十七回目って……。」
「はい」
白鐘二十七番。幼いセリスさんが手にしていた、あの札。昨日の記録室が、よみがえった。
「……誰のため、なんて言っちゃうようじゃ、まだまだですかね」
そう言うと、セリスさんが少しだけ笑った。
「訊かないんですか」
「まぁ、そうですね」
「郵便魔女なのに?」
「……郵便魔女なので!」
その答えに、セリスさんは少しだけ目を細める。
「では、本当にお気をつけて」
風が吹いて、鐘楼の白い布が揺れる。その向こうに、オルシュ渓谷が見えた。沈んだ風路の気配は、まだ谷底にある。箒に乗る前に、もう一度だけ振り返った。セリスさんは、中庭へ戻っていくところだった。
「セリスさん、灯具の芯、一本曲がってる!」
「昨日、直したはずだけど」
セリスさんが、こちらを見た。少しだけ、目を逸らす。セリスさんは何も言わず、灯具のほうへ歩いていった。いつもの仕事へ戻る背中。
箒を、浮かせる。白鐘院を離れるとき、保全袋は空だった。その軽さが、少しだけ、心細かった。
第四支局へ戻ると、アデルが真っ先に地図台へ呼んだ。
「オルシュ、どうだった」
「沈んでた」
「……わかるように伝えよう、そんな気はないのかね?」
アデルが、眉を寄せる。地図の上へ、オルシュ渓谷の旧風路を示す灰色の線をなぞった。
「切れてはいないんだよね。消えてもいない。谷底へこう、吸い寄せられてるー! って感じ。」
「なんじゃそりゃ」
アデルが、すぐに記録紙を開く。バカげたことを言っている自覚は、ある。でも、なかなか言葉だけで説明するのって難しいんだ。
「高さは?」
「現行風路から見た感じだと、谷底寄り、かなぁ。でも正確な高度は取れてない。」
「それは正解。巻き込まれたら一大事」
アデルが、地図へ小さな印をつけながら尋ねる。
「……砂海の欠落、水門の途中消失、オルシュの沈降。全部、同じ風路異常に入れていいと思うか?」
「分かんない」
素直に首を振る。分からんものは分からん!
「こんなの、学校でも習わなかったし、そうだよね」
深いため息をつきながらアデルは項垂れるように机に顔を落とした。
「前例って、あるのかな」
「……とりあえず、ユリウスさんに回そ」
そこへ、エルナさんも入ってきた。
「配達報告! まーた寄り道して!」
「すいません!」
その剣幕に慌てて敬礼の姿勢で背が伸びる。関係ないだろうに、アデルも椅子から立ち上がり、自分の隣で同じ姿勢を保っている。まぁ、わからないでもない。訓練の賜物だ。
「完了しました。旧名の発声なし。保護番号と現名署名、封鎖名簿、院長の確認印で受領」
受領控えを渡す。エルナさんは目を通して、少しだけ眉を緩めた。報告書の端へ何か追記しているのが見えた。
「ユリウスさんへは、風路異常の件も一緒に送ります」
自分の報告用紙も出す。夜に、白鐘院で書いたものだ。オルシュ渓谷、旧風路の残存域。下方への牽引あり。導風符の反応にも、同じ沈み込みの傾向。用紙の端には、小さく仮称が書いてある。
風路沈降反応。
エルナさんが、そこを見た。
「仮称ですか」
「はい。勝手に、つけました」
「悪くありませんね」
少し、驚いた。
「正直、怒られるかなって」
「わかりやすくて、よろしい」
エルナさんは、親指を立ててくれた。彼女の褒め方の最高級だ。それから用紙を写しへ回した。
「ユリウスさんに送ります」
支局長が、受付のほうから顔を出した。
「ファルン、帰還報告がまだだ」
「あ、はい」
「……その前に、昼だな、一緒に行くぞ」
「ええ……」
「そんなに嫌かね? たまには付き合えよ」
支局長、食べ方が汚いんだよねえ。
白鐘の日、配達の途中で、オルシュ渓谷の上を通った。本来の経路から少しだけ外れるが、アデルが許した範囲のうちだ。東の尾根を越えると、白鐘院の鐘楼が見えた。白い布が、すべて掛かっている。中庭には、人が集まっていた。遠目にも分かるくらい、大勢が白いものを身につけている。職員、子ども、近隣の村人、かつて白鐘院にいた人たち。
高度を落としすぎないよう、上空で箒を止める。
鐘が鳴った。一度目。低く澄んだ音が、渓谷いっぱいに広がる。二度目、三度目。音は風に乗り、山肌に当たって、また戻ってくる。数えた。十回、十五回、二十回。鐘のたびに、鐘楼の白い布が、少し遅れて揺れる。
二十六回目が鳴ったあと、少しだけ、間が空いた。それはまるで、何かを躊躇っているようにも思える。
二十七回目。
鐘が、鳴った。強すぎない。けれど、弱くもない。音が出るところまで、誰かが確かに連れていった音。
昨日の、練習鈴がよみがえる。強く引けば乱れ、弱すぎれば届かない。二十七回目の鐘は、谷へは落ちず、空へまっすぐ広がっていく。
中庭に集まった人々が、それが誰のための鐘かなんて、知らなくてよい。セリスさんが何を思って紐を引いたのかも、分からなくていい。ただ、その鐘は鳴った。リヴィアという名前を呼び戻すためではなく――セリスさんがマテオの手紙を、白鐘院の一日のなかへ置いた、それを知らせるように。
箒の上で、髪留めを少し押さえる。《《たいへん、よろしい》》。――でも、その「《《よかった》》」は、軽くない。胸の奥に、少し痛い形をしたまま、残る。
鐘の余韻が、渓谷へ流れていく。谷底の旧風路は、まだ沈んだままだ。下へ引かれていく風と、空へ広がる鐘の音が、同じ場所に、いっしょにある。しばらく、その音を聞いていた。
やがて、鐘楼の白い布が風に揺れて、音の残りが薄くなっていく。次の配達へ、向かわなければならない。箒の向きを変えると、郵便袋が背中で小さく揺れた。なかには、今日届けるべき別の手紙が入っている。白鐘院が、少しずつ遠ざかっていく。
それでも、二十七回目の鐘の音だけは。私の胸の中で。




