姉さんへ
記録室の扉が開いたとき、廊下の灯具は全て輝いている。最後の芯を直し終えてから、どれくらい経ったのかは分からない。外はもう暗くなりかけ、白い壁に差していた午後の光は、いつの間にか細くなっていた。
セリスさんが、扉の前に立っていた。手には、マテオの手紙。便箋は元の折り目に沿って畳まれ、封筒には戻されていない。白鐘院の薄い包み紙に挟んで、古い封筒と重ねて持っていた。
「お待たせしました」
「大丈夫です」
立ち上がると、膝が少し固まっていた。灯具の前に、長くしゃがんでいたせいだ。セリスさんがその膝を見て、わずかに目を細める。
「……ずっと、そちらに?」
「灯具の芯が、曲がっていたので」
セリスさんが、小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。
そんな話をしているあいだも、セリスさんの手は、手紙を離さなかった。読む前とは、持ち方が少し違っている。胸に抱え込むのでもなく、落とさないように持っている。かといって、遠ざけてもいない。名札や鐘布を持つときの手つきに、どこか近かった。
「そのー……、どう、でした?」
余り、上手だとは思えないが。そう言うと、セリスさんはうなずいて、それから、少し考える。
「春になったら、また会えるかなと」
黙って、聞いた。
「姉さんが帰ってきたら、僕が一番に出迎える、なんて」
セリスさんが、便箋の端へ目を落とす。
「字は、まだまだ下手っぴでしたね。」
「当時、七歳でしたか? それなら……」
「ええ」
少しだけ、目を伏せる。
「七歳、でした」
廊下の向こうから、子どもたちの声が聞こえてきた。夕方の鐘の練習が、終わったらしい。食堂へ向かう足音が、いくつも重なって近づいてくる。
「セリスさん、練習終わった!」
「夕食、先に行っていい?」
セリスさんは、手紙を持ったまま振り向いた。
「手を洗ってから。鐘の紐を触ったでしょう」
「はーい」
「灯具のそばを、走らない!」
「はーい!」
返事だけは、よかった。子どもたちはこちらの横を抜けて、食堂のほうへ走っていく。何人かはセリスさんの手元を見たけれど、何も訊かなかった。
セリスさんは、その背中を見送る。
「それではこれで」
そう言って、セリスさんは廊下を曲がった。記録室ではなく、白鐘院の職員が使う小さな作業室のほうへ。少し離れて、後に続いた。
作業室の机には、白い塗料の小瓶、名札用の刷毛、鐘布の留め具、乾かしかけの細い紐、白鐘の日の当番表が出ていた。窓際には、名札の乾燥棚。セリスさんが毎日使っている机なのだろう。
セリスさんが引き出しを開ける。なかには、布でくるんだ小さな道具が並んでいた。予備の刷毛、欠けた留め具、古い名札の見本。白鐘二十七番の札をしまっていたらしい、細い布袋も。その隣へ、セリスさんはマテオの手紙を置いた。記録室の台帳ではなく、仕事机の引き出しに。鍵は、かけなかった。ただ、閉める前に、便箋の端が折れていないかを、指でそっと確かめる。それから、静かに引き出しを閉めた。
「そこ、なんですね」
そう言うと、セリスさんは机の上の名札へ目をやった。
「ここなら、毎日、開けますから」
夕方の鐘の練習は、中庭で行われた。白鐘の日に手伝う子どもたちが、順番に紐を引く。本物の鐘は鳴らさない。代わりに、鐘楼の下へ吊るした小さな練習鈴を鳴らすのだ。音は軽い。からん、と鳴って、すぐに消える。それでも、子どもたちは真剣だった。
「強く引きすぎない」
セリスさんが言う。
「鐘は、叩くものじゃなくて、揺らすもの」
「揺らす?」
「そう。音が出るところまで、連れていくの」
中庭の端で、それを聞いていた。
セリスさんの腕には、もう封筒はない。マテオの手紙は記録室ではなく、名札の刷毛や、鐘布の留め具や、白い塗料の小瓶と同じ引き出しに収まっている。閉めるとき、セリスさんは鍵をかけなかった。そのことが、なぜか少し、印象に残っていた。
「リネットさんも、どう?」
子どもが、練習鈴の紐を差し出してきた。
「私?」
「魔女さんは、こういうの上手そう」
セリスさんがこちらを見て、少しだけ笑う。
「一度くらいなら」
「では」
紐を、受け取った。細い紐だった。それでも、引いてみると、思ったより重い。力を入れすぎれば鈴が乱れ、弱すぎれば鳴らない。少し戸惑いながら、紐を引く。
からん。
軽い音が、鳴った。子どもが笑う。
「鳴った」
「鳴ったね」
紐を、返した。たった一度の、練習鈴だった。それでも、指先に残った重さが、どこか導風符に似ている。強く引けば、壊れる。弱すぎれば、届かない。ちょうどいいところまで、連れていく。自分の指を見た。昼間、導風符を支えたときの痺れが、まだ少し残っていた。
「大丈夫ですか」
セリスさんが訊いた。
「はい。少し、変な感覚が抜けないんです」
「封筒の、とき?」
「はい」
セリスさんが、こちらの手を見る。
「もし、支障が出るようでしたら、本日もゆっくりされてください」
セリスさんは、それ以上は何も言わず、代わりに、練習鈴の紐を子どもの手へ戻し、結び目の位置を少しだけ直す。
「ここを持って。下すぎると、手が滑るから」
「はい」
子どもが、また紐を引く。からん、と軽い音が、中庭に広がった。
その夜は、白鐘院に泊まることになった。オルシュ渓谷の風が、夜になって不安定になったせいだ。現行風路そのものは、使える。けれど東側の尾根を抜けるあたりで、昼間より旧風路の沈み込みが強くなっていた。白鐘院の発着場に立てた簡易風標も、谷側へ傾いたまま、戻らない。
第四支局へ帰還延期の連絡を送る。
「問題なさそうですか」
「はい」
「部屋を、用意します」
「重ね重ね、すみません」
「白鐘の日の前なので、来客用の部屋はもう整えてあるんです。使ってください」
案内された部屋は、小さかった。寝台と机、白い水差し。窓からは鐘楼の布が見える。夜風に揺れる布は、昼間より大きく見えた。
郵便袋を机の横へ置き、外套を脱ぐ。右手の指を曲げると、まだ少し違和感がある。導風符を支えたときの感覚が、残っていた。あれは、飛行ではなかった。それでも、風を読む仕事だった。封筒一枚の上の古い風を、沈まないように支える――たったそれだけのことに、思っていたよりずっと、力を使っていた。
窓の外で、谷の風が低く鳴った。窓辺へ寄る。夜のオルシュ渓谷は暗くて、底は見えない。それでも、そこに旧風路が沈んでいることだけは分かった。昼間よりも、はっきりと。地面の下へ吸い込まれていくような、重い風の気配。風路は、切れていない。失われたのでもない。ただ、戻ってこない深さへ、引かれている。
机の上へ、報告用紙を広げた。配達報告とは別に、風路異常の所感を書く。オルシュ渓谷、旧風路の残存域。現行風路の上空から観測。横流れなし、断裂反応なし。ただ、下方への牽引あり。導風符の反応にも、同じ沈み込みの傾向。――そこまで書いて、筆が止まった。
沈殿。それが、一番近い気がした。用紙の端へ、小さく書き足す。
――風路沈殿反応、仮。
勝手に名前をつけていいものか、少し迷った。ユリウスさんなら、もっと正確な言葉を選ぶだろう。エルナさんなら、観測条件が足りないと言う。アデルなら、地図の上でどこからどこまで沈んだのか、と訊いてくる。それでも、その言葉は消さなかった。消してしまうと、昼間見たものが、ただの違和感に戻ってしまう気がした。
筆を置くと、廊下から足音が聞こえた。誰かが通り過ぎていく。そのあと、遠くの部屋で、引き出しの開く音がした。セリスさんの仕事机かもしれない。マテオの手紙を入れた、あの引き出し。窓の外を見たまま、その音を聞いていた。
手紙は、もう届いた。それでも、届いたあとも、人は暮らしのなかで、何度もその場所へ戻るのだろう。引き出しを開ける。閉める。鍵はかけない。また、開ける。――それは配達記録には、残らない。けれど、その音のほうが、たぶんずっと長く、こちらに残りそうだった。
夜の鐘楼で、白い布が揺れている。谷底の風は、暗いまま沈んでいた。




