現名署名
記録室へ戻ると、院長が待っていた。
白髪を後ろで束ねた、小柄な女性だった。杖をついているが、背筋はまっすぐ伸びている。記録机の横に立ち、保全袋と二十七番の札と現名登録簿を、すでに一通り確認したあとらしい。
「国際郵便組合の方ですね」
「はい。東部第四支局のリネット・ファルンです」
「セリスから聞きました」
院長はセリスを見た。
「受け取りますか」
セリスはうなずいた。
迷いがない、というほどではなかった。
けれど、鐘楼へ上がる前とは少し違っていた。顔色は悪い。手も冷えているように見える。それでも、記録室の入口で止まらず、机の前まで歩いてきた。
「はい」
「読めますか」
「分かりません」
「そうですか」
院長はそれ以上聞かなかった。
そのやり取りが、リンには少し意外だった。
もっと長く確認するのかと思っていた。読むのか、受け取るのか、あとで後悔しないのか。そういうことを尋ねるのかと。
けれど院長は、机の上の木箱から小さな印章を取り出しただけだった。
「白鐘院記録管理者として、照合に立ち会います」
「お願いします」
リンは第四支局から届いた返答紙片を、記録机に置いた。
院長が読む。
セリスも読む。
旧名の発声は必須ではない。
その一文の前で、セリスの視線が少しだけ長く止まった。
リンは保全袋を開いた。
封筒を取り出すと、記録室の空気がわずかに変わった。
古い導風符が白く光る。
弱い光だった。
けれど、まっすぐではない。
光は封蝋の上で揺れ、窓の外へ伸びようとして、すぐに下へ垂れた。
リンの指先が冷える。
オルシュ渓谷で見た旧風路と同じだった。
横へ流れない。
空へ立ち上がらない。
下へ、引かれる。
「反応しています」
院長が言った。
セリスは封筒を見ていた。
宛名の方ではない。
差出人欄の方を。
マテオ・エイル。
姉さんへ。
リンは封筒を記録机の中央へ置いた。
導風符の光が、机の上を細く走る。
現名登録簿。
保護受領札。
封鎖名簿。
光はそれぞれに触れかけて、ためらうように震えた。
「まず、保護番号を」
リンが言った。
セリスは二十七番の札を手に取った。
古い白い札は、彼女の手に収まると、不思議と小さく見えた。
「白鐘二十七番」
セリスの声は、記録室に静かに落ちた。
導風符が震える。
封筒の縁が、わずかに硬くなった。
リンは息を詰める。
拒んでいる。
旧い符は、番号だけでは足りないと言っているのかもしれない。
セリスは手を止めなかった。
「現名、セリス・ハルト」
その名を言った瞬間、廊下の向こうから子どもの声がした。
「セリスさん、名札、乾いたよ」
たぶん、知らずに呼んだのだろう。
記録室の中で、セリスが少しだけ目を閉じた。
「あとで見ます」
いつもの声で答える。
導風符の光が、そこで一度、揺れ方を変えた。
リンには、符が迷っているように見えた。
リヴィア・エイルを探している古い符。
白鐘二十七番を知っている札。
セリス・ハルトと呼ばれて返事をする人。
それらが同じ机の上にあるのに、まだ一つにつながらない。
封蝋の端が、白く固まり始めた。
「固着します」
院長が低く言う。
リンは封筒の上へ手をかざした。
触れない。
導風符の周りの空気だけを、細く支える。
窓の外には、オルシュ渓谷へ落ちていく風がある。導風符は、そちらへ引かれようとしていた。四十二年前の経路へ戻ろうとしているのか、宛名を見つけられずに保留へ沈もうとしているのかは分からない。
リンは、封筒の上の風を少しだけ持ち上げた。
強く引いてはいけない。
符を壊す。
弱すぎると沈む。
箒で飛ぶときよりずっと細い操作だった。封筒一枚の上にある、薄い風の層だけを、机から剥がれないように保つ。
指先がしびれる。
導風符が小さく鳴った。
紙が、息をしているような音だった。
「署名を」
リンは言った。
声が少し掠れた。
セリスは現名登録簿の横に置かれた受領紙を見た。
院長が筆を差し出す。
「ここに」
受領紙には、旧名欄があった。
白鐘院の院長は、その欄へ小さな封鎖印を押した。
空白を埋めるのではなく、開かないことを示す印だった。
その下に、現名署名欄がある。
セリスは筆を取った。
指先は震えていなかった。
けれど、最初の一画だけ、いつもより少し濃く紙に沈んだ。
セリス・ハルト。
書き終えると、院長が保護受領札を受領紙の横へ置いた。
白鐘二十七番。
封鎖名簿。
現名登録簿。
院長の確認印。
セリスの署名。
それらが机の上で一つずつそろっていく。
導風符の光は、まだ揺れていた。
封蝋は半分固まりかけている。
リンは風を支え続けた。
これ以上、強くできない。
けれど、手を離せない。
「ファルンさん」
セリスが言った。
「はい」
「封筒の差出人を、もう一度見せてください」
リンは導風符から手を離さないまま、封筒を少しだけ回した。
差出人欄が、セリスから見える向きになる。
マテオ・エイル。
姉さんへ。
セリスは、それを見た。
旧名は読まない。
受領紙には、今の名前を書いた。
けれど、差出人欄の幼い字だけは、目を逸らさずに見ていた。
「白鐘二十七番、セリス・ハルト」
セリスはもう一度言った。
「マテオ・エイルからの郵便物を、受け取ります」
導風符が鳴った。
今度は、沈む音ではなかった。
細い鈴のような音が、封筒の上で一度だけ響く。
白く固まりかけていた封蝋が、ゆっくり元の色へ戻った。
リンは息を吐いた。
指先から力が抜ける。
支えていた風が、机の上でほどけた。
導風符の光は消えていた。
封筒は、ただの封筒になっている。
四十二年前の本人限定郵便は、白鐘院の記録室で、セリス・ハルトの手に渡った。
「受領完了です」
リンは言った。
明るくは言えなかった。
声が少しだけ低くなる。
セリスはうなずき、封筒へ手を伸ばした。
今度は、リンも止めなかった。
封筒はセリスの手に移る。
厚手の紙が、彼女の指の中で少しだけしなった。
「重いですね」
セリスが言った。
紙が厚いので。
リンはそう答えかけて、やめた。
セリスも、たぶん紙の重さだけを言ったのではなかった。
院長が受領紙を確認し、記録台帳へ挟んだ。
「読む場所は、礼拝堂にしますか」
セリスは首を横に振った。
「記録室で読みます」
それから少し考えて、言い直した。
「いえ。少しだけ、食堂を見てきます。名札が乾いたそうなので」
リンはセリスを見た。
封筒を受け取ったばかりだった。
読もうと思えば、すぐに読める。
けれどセリスは、手紙を持ったまま食堂の名札を見に行くと言った。
院長は驚かなかった。
「では、鍵は私が」
「お願いします」
セリスは封筒を胸に抱えたまま、記録室の扉へ向かう。
途中で、作業台の上に残っていた名札の箱を片手で持った。
封筒と名札。
どちらも落とさないように、少し持ち方を変える。
リンはその後ろ姿を見ていた。
マテオの手紙は、セリスの生活の中に入った。
でも、その生活を押しのけてはいない。
それが、なぜかとても大事なことに思えた。
食堂では、子どもたちが席札を並べていた。
白鐘の日に来る客の分まで、長い机の上にはいつもより多くの札が置かれている。小さな手があちこちへ伸び、名字の順番を間違えたり、同じ名前を二枚並べたりしていた。
「セリスさん、これどこ?」
「院長の隣。来賓だから」
「この人、去年も来た?」
「来ました。足が悪いから、入口に近い席にして」
「はーい」
セリスはいつものように答える。
片腕には、封筒を抱えたまま。
子どもたちは、その封筒のことを尋ねなかった。
気づいていないのかもしれない。
気づいても、聞かないことにしたのかもしれない。
リンは食堂の入口に立っていた。
配達は完了した。
確認も終わった。
本来なら、第四支局へ戻って報告書を書けばいい。
けれど、足が動かなかった。
セリスは一枚の名札を取り上げた。
端の白い塗料が、まだ少し乾ききっていない。
「これはまだ棚へ戻さないで。服に白がつきます」
「分かった」
子どもが名札を受け取る。
そのとき、封筒の角がセリスの作業服に触れた。
古い骨のような白い封筒。
白い名札。
白い鐘布。
同じ白でも、全部違う。
リンはそう思った。
白鐘院の白は、何かをきれいに消す色ではない。
何度も塗り直し、洗い直し、乾かし直して、使い続ける色だった。
セリスは一通り名札の位置を見終えると、封筒を抱え直した。
「記録室へ戻ります」
子どもが顔を上げた。
「セリスさん、あとで鐘の練習見る?」
「見ます。夕方に」
「絶対?」
「絶対」
セリスはそう答えた。
その声は、約束の声だった。
マテオの手紙を読む前でも、夕方の鐘の練習を見る約束は残っている。
リンは、そのことに少し救われた。
何から救われたのかは、よく分からなかった。
記録室に戻ると、院長は席を外していた。
扉の前に、白鐘院の小さな札が掛けられている。
記録確認中。
セリスは中へ入り、机の前に座った。
リンは扉のそばに立つ。
「外で待ちます」
そう言うと、セリスは封筒を机に置いたまま顔を上げた。
「ここにいてください」
「いいんですか」
「読んでいる間ではなく、開けるまで」
セリスは封筒の封蝋を見た。
「封を切るところまで、一人だと時間がかかりそうなので」
リンはうなずいた。
記録室の中は静かだった。
中庭の声も、食堂の音も、厚い扉に遮られて少し遠い。
セリスは封筒を裏返した。
封蝋には、エイル家の印が押されているのだろう。古くて細部は崩れていたが、小さな鳥の形だけは残っている。
「これは、マテオが押したものではありません」
セリスが言った。
「父の印です。たぶん、父が用意した封筒を、マテオが使ったのでしょう」
彼女は机の引き出しを開け、小さな紙切りを取り出した。
刃は古いが、よく手入れされていた。
封筒の端へ当てる。
そこで、手が止まった。
リンは何も言わなかった。
セリスは一度、深く息をした。
それから、紙切りを机に置いた。
「すみません」
「謝らなくていいです」
「少し、手が冷たくて」
セリスは両手を膝の上で握った。
白鐘院の仕事で荒れた手だった。
名札を塗り、鐘布を留め、記録を開き、子どもの食器を並べる手。
その手が、封筒の前で止まっている。
リンは、自分の手袋を外した。
「これ、使いますか」
差し出したのは、郵便魔女用の薄い手袋だった。
封筒を扱うときに使うものではない。空を飛ぶとき、指先の冷えを防ぐためのものだ。
セリスは少し驚いた顔をした。
「いいんですか」
「はい。少し温かいだけです」
セリスは手袋を受け取った。
右手だけにはめる。
サイズは合っていなかった。指先が少し余る。
それでも、セリスはその手で紙切りを持った。
今度は、封筒の端へ刃が入った。
古い紙が、小さな音を立てて開く。
リンは目を伏せた。
中身は、セリスのものだ。
マテオの手紙は、ゆっくり封筒から出された。
折り目のついた便箋。
子どもの字が並んでいる。
セリスはそれを机の上に広げた。
リンは扉の方を向いた。
「廊下にいます」
「はい」
今度は、セリスも止めなかった。
リンは記録室を出て、扉を静かに閉めた。
廊下には、白鐘の日に使う灯具が並んでいる。
一つだけ芯が曲がっていた。
リンはそれを、指でそっと直した。
何かをしていないと、扉の向こうの音を待ってしまいそうだった。
中から、紙のこすれる音がした。
それきり、しばらく何も聞こえなかった。
リンは灯具の前にしゃがんだまま、じっとしていた。
届けられてよかった。
そう思った。
でも、よかった、と明るく言えるようなものではなかった。
四十二年遅れた手紙が、いま開かれている。
そのことが、廊下の冷たい床を通して、少しずつ胸に上がってくる。
遠くで、鐘楼の布が風を受ける音がした。




