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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter9 過去に届く手紙
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現名署名

 記録室へ戻ると、院長が待っていた。


 白髪を後ろで束ねた、小柄な女性だった。杖をついているが、背筋はまっすぐ伸びている。記録机の横に立ち、保全袋と二十七番の札と現名登録簿を、すでに一通り確認したあとらしい。


「国際郵便組合の方ですね」


「はい。東部第四支局のリネット・ファルンです」


「セリスから聞きました」


 院長はセリスを見た。


「受け取りますか」


 セリスはうなずいた。


 迷いがない、というほどではなかった。


 けれど、鐘楼へ上がる前とは少し違っていた。顔色は悪い。手も冷えているように見える。それでも、記録室の入口で止まらず、机の前まで歩いてきた。


「はい」


「読めますか」


「分かりません」


「そうですか」


 院長はそれ以上聞かなかった。


 そのやり取りが、リンには少し意外だった。


 もっと長く確認するのかと思っていた。読むのか、受け取るのか、あとで後悔しないのか。そういうことを尋ねるのかと。


 けれど院長は、机の上の木箱から小さな印章を取り出しただけだった。


「白鐘院記録管理者として、照合に立ち会います」


「お願いします」


 リンは第四支局から届いた返答紙片を、記録机に置いた。


 院長が読む。


 セリスも読む。


 旧名の発声は必須ではない。


 その一文の前で、セリスの視線が少しだけ長く止まった。


 リンは保全袋を開いた。


 封筒を取り出すと、記録室の空気がわずかに変わった。


 古い導風符が白く光る。


 弱い光だった。


 けれど、まっすぐではない。


 光は封蝋の上で揺れ、窓の外へ伸びようとして、すぐに下へ垂れた。


 リンの指先が冷える。


 オルシュ渓谷で見た旧風路と同じだった。


 横へ流れない。


 空へ立ち上がらない。


 下へ、引かれる。


「反応しています」


 院長が言った。


 セリスは封筒を見ていた。


 宛名の方ではない。


 差出人欄の方を。


 マテオ・エイル。


 姉さんへ。


 リンは封筒を記録机の中央へ置いた。


 導風符の光が、机の上を細く走る。


 現名登録簿。


 保護受領札。


 封鎖名簿。


 光はそれぞれに触れかけて、ためらうように震えた。


「まず、保護番号を」


 リンが言った。


 セリスは二十七番の札を手に取った。


 古い白い札は、彼女の手に収まると、不思議と小さく見えた。


「白鐘二十七番」


 セリスの声は、記録室に静かに落ちた。


 導風符が震える。


 封筒の縁が、わずかに硬くなった。


 リンは息を詰める。


 拒んでいる。


 旧い符は、番号だけでは足りないと言っているのかもしれない。


 セリスは手を止めなかった。


「現名、セリス・ハルト」


 その名を言った瞬間、廊下の向こうから子どもの声がした。


「セリスさん、名札、乾いたよ」


 たぶん、知らずに呼んだのだろう。


 記録室の中で、セリスが少しだけ目を閉じた。


「あとで見ます」


 いつもの声で答える。


 導風符の光が、そこで一度、揺れ方を変えた。


 リンには、符が迷っているように見えた。


 リヴィア・エイルを探している古い符。


 白鐘二十七番を知っている札。


 セリス・ハルトと呼ばれて返事をする人。


 それらが同じ机の上にあるのに、まだ一つにつながらない。


 封蝋の端が、白く固まり始めた。


「固着します」


 院長が低く言う。


 リンは封筒の上へ手をかざした。


 触れない。


 導風符の周りの空気だけを、細く支える。


 窓の外には、オルシュ渓谷へ落ちていく風がある。導風符は、そちらへ引かれようとしていた。四十二年前の経路へ戻ろうとしているのか、宛名を見つけられずに保留へ沈もうとしているのかは分からない。


 リンは、封筒の上の風を少しだけ持ち上げた。


 強く引いてはいけない。


 符を壊す。


 弱すぎると沈む。


 箒で飛ぶときよりずっと細い操作だった。封筒一枚の上にある、薄い風の層だけを、机から剥がれないように保つ。


 指先がしびれる。


 導風符が小さく鳴った。


 紙が、息をしているような音だった。


「署名を」


 リンは言った。


 声が少し掠れた。


 セリスは現名登録簿の横に置かれた受領紙を見た。


 院長が筆を差し出す。


「ここに」


 受領紙には、旧名欄があった。


 白鐘院の院長は、その欄へ小さな封鎖印を押した。


 空白を埋めるのではなく、開かないことを示す印だった。


 その下に、現名署名欄がある。


 セリスは筆を取った。


 指先は震えていなかった。


 けれど、最初の一画だけ、いつもより少し濃く紙に沈んだ。


 セリス・ハルト。


 書き終えると、院長が保護受領札を受領紙の横へ置いた。


 白鐘二十七番。


 封鎖名簿。


 現名登録簿。


 院長の確認印。


 セリスの署名。


 それらが机の上で一つずつそろっていく。


 導風符の光は、まだ揺れていた。


 封蝋は半分固まりかけている。


 リンは風を支え続けた。


 これ以上、強くできない。


 けれど、手を離せない。


「ファルンさん」


 セリスが言った。


「はい」


「封筒の差出人を、もう一度見せてください」


 リンは導風符から手を離さないまま、封筒を少しだけ回した。


 差出人欄が、セリスから見える向きになる。


 マテオ・エイル。


 姉さんへ。


 セリスは、それを見た。


 旧名は読まない。


 受領紙には、今の名前を書いた。


 けれど、差出人欄の幼い字だけは、目を逸らさずに見ていた。


「白鐘二十七番、セリス・ハルト」


 セリスはもう一度言った。


「マテオ・エイルからの郵便物を、受け取ります」


 導風符が鳴った。


 今度は、沈む音ではなかった。


 細い鈴のような音が、封筒の上で一度だけ響く。


 白く固まりかけていた封蝋が、ゆっくり元の色へ戻った。


 リンは息を吐いた。


 指先から力が抜ける。


 支えていた風が、机の上でほどけた。


 導風符の光は消えていた。


 封筒は、ただの封筒になっている。


 四十二年前の本人限定郵便は、白鐘院の記録室で、セリス・ハルトの手に渡った。


「受領完了です」


 リンは言った。


 明るくは言えなかった。


 声が少しだけ低くなる。


 セリスはうなずき、封筒へ手を伸ばした。


 今度は、リンも止めなかった。


 封筒はセリスの手に移る。


 厚手の紙が、彼女の指の中で少しだけしなった。


「重いですね」


 セリスが言った。


 紙が厚いので。


 リンはそう答えかけて、やめた。


 セリスも、たぶん紙の重さだけを言ったのではなかった。


 院長が受領紙を確認し、記録台帳へ挟んだ。


「読む場所は、礼拝堂にしますか」


 セリスは首を横に振った。


「記録室で読みます」


 それから少し考えて、言い直した。


「いえ。少しだけ、食堂を見てきます。名札が乾いたそうなので」


 リンはセリスを見た。


 封筒を受け取ったばかりだった。


 読もうと思えば、すぐに読める。


 けれどセリスは、手紙を持ったまま食堂の名札を見に行くと言った。


 院長は驚かなかった。


「では、鍵は私が」


「お願いします」


 セリスは封筒を胸に抱えたまま、記録室の扉へ向かう。


 途中で、作業台の上に残っていた名札の箱を片手で持った。


 封筒と名札。


 どちらも落とさないように、少し持ち方を変える。


 リンはその後ろ姿を見ていた。


 マテオの手紙は、セリスの生活の中に入った。


 でも、その生活を押しのけてはいない。


 それが、なぜかとても大事なことに思えた。



 食堂では、子どもたちが席札を並べていた。


 白鐘の日に来る客の分まで、長い机の上にはいつもより多くの札が置かれている。小さな手があちこちへ伸び、名字の順番を間違えたり、同じ名前を二枚並べたりしていた。


「セリスさん、これどこ?」


「院長の隣。来賓だから」


「この人、去年も来た?」


「来ました。足が悪いから、入口に近い席にして」


「はーい」


 セリスはいつものように答える。


 片腕には、封筒を抱えたまま。


 子どもたちは、その封筒のことを尋ねなかった。


 気づいていないのかもしれない。


 気づいても、聞かないことにしたのかもしれない。


 リンは食堂の入口に立っていた。


 配達は完了した。


 確認も終わった。


 本来なら、第四支局へ戻って報告書を書けばいい。


 けれど、足が動かなかった。


 セリスは一枚の名札を取り上げた。


 端の白い塗料が、まだ少し乾ききっていない。


「これはまだ棚へ戻さないで。服に白がつきます」


「分かった」


 子どもが名札を受け取る。


 そのとき、封筒の角がセリスの作業服に触れた。


 古い骨のような白い封筒。


 白い名札。


 白い鐘布。


 同じ白でも、全部違う。


 リンはそう思った。


 白鐘院の白は、何かをきれいに消す色ではない。


 何度も塗り直し、洗い直し、乾かし直して、使い続ける色だった。


 セリスは一通り名札の位置を見終えると、封筒を抱え直した。


「記録室へ戻ります」


 子どもが顔を上げた。


「セリスさん、あとで鐘の練習見る?」


「見ます。夕方に」


「絶対?」


「絶対」


 セリスはそう答えた。


 その声は、約束の声だった。


 マテオの手紙を読む前でも、夕方の鐘の練習を見る約束は残っている。


 リンは、そのことに少し救われた。


 何から救われたのかは、よく分からなかった。


 記録室に戻ると、院長は席を外していた。


 扉の前に、白鐘院の小さな札が掛けられている。


 記録確認中。


 セリスは中へ入り、机の前に座った。


 リンは扉のそばに立つ。


「外で待ちます」


 そう言うと、セリスは封筒を机に置いたまま顔を上げた。


「ここにいてください」


「いいんですか」


「読んでいる間ではなく、開けるまで」


 セリスは封筒の封蝋を見た。


「封を切るところまで、一人だと時間がかかりそうなので」


 リンはうなずいた。


 記録室の中は静かだった。


 中庭の声も、食堂の音も、厚い扉に遮られて少し遠い。


 セリスは封筒を裏返した。


 封蝋には、エイル家の印が押されているのだろう。古くて細部は崩れていたが、小さな鳥の形だけは残っている。


「これは、マテオが押したものではありません」


 セリスが言った。


「父の印です。たぶん、父が用意した封筒を、マテオが使ったのでしょう」


 彼女は机の引き出しを開け、小さな紙切りを取り出した。


 刃は古いが、よく手入れされていた。


 封筒の端へ当てる。


 そこで、手が止まった。


 リンは何も言わなかった。


 セリスは一度、深く息をした。


 それから、紙切りを机に置いた。


「すみません」


「謝らなくていいです」


「少し、手が冷たくて」


 セリスは両手を膝の上で握った。


 白鐘院の仕事で荒れた手だった。


 名札を塗り、鐘布を留め、記録を開き、子どもの食器を並べる手。


 その手が、封筒の前で止まっている。


 リンは、自分の手袋を外した。


「これ、使いますか」


 差し出したのは、郵便魔女用の薄い手袋だった。


 封筒を扱うときに使うものではない。空を飛ぶとき、指先の冷えを防ぐためのものだ。


 セリスは少し驚いた顔をした。


「いいんですか」


「はい。少し温かいだけです」


 セリスは手袋を受け取った。


 右手だけにはめる。


 サイズは合っていなかった。指先が少し余る。


 それでも、セリスはその手で紙切りを持った。


 今度は、封筒の端へ刃が入った。


 古い紙が、小さな音を立てて開く。


 リンは目を伏せた。


 中身は、セリスのものだ。


 マテオの手紙は、ゆっくり封筒から出された。


 折り目のついた便箋。


 子どもの字が並んでいる。


 セリスはそれを机の上に広げた。


 リンは扉の方を向いた。


「廊下にいます」


「はい」


 今度は、セリスも止めなかった。


 リンは記録室を出て、扉を静かに閉めた。


 廊下には、白鐘の日に使う灯具が並んでいる。


 一つだけ芯が曲がっていた。


 リンはそれを、指でそっと直した。


 何かをしていないと、扉の向こうの音を待ってしまいそうだった。


 中から、紙のこすれる音がした。


 それきり、しばらく何も聞こえなかった。


 リンは灯具の前にしゃがんだまま、じっとしていた。


 届けられてよかった。


 そう思った。


 でも、よかった、と明るく言えるようなものではなかった。


 四十二年遅れた手紙が、いま開かれている。


 そのことが、廊下の冷たい床を通して、少しずつ胸に上がってくる。


 遠くで、鐘楼の布が風を受ける音がした。


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