二十七の札
返答は、すぐには来なかった。白鐘院の通信台は、送るのは早いのに、受けるのには少し時間がかかるらしい。受信器の金属片は静かなままで、記録室の壁の古い時計だけが、薄い音を刻んでいる。
記録机の横に、座っていた。机の端に、保全袋へ入れた封筒。その隣に、白く塗られた二十七番の保護受領札。さらに横へ、セリス・ハルトの現名登録簿。三つとも、古びかたが少しずつ違う。封筒は四十二年前から届かずにいたもの。受領札は、幼いセリスさんが手にしたもの。現名登録簿は、そのあとの長い年月のあいだ、何度も書き足され、直され、確かめられてきたもの。同じ机に並べると、時間が一枚ずつ重なっているように見える。
廊下から、足音が近づいてくる。セリスさんが戻ってきた。両腕に、食堂用の名札を入れた浅い箱を抱えている。名札は濡らさないよう、薄い布でくるんであった。
「名札、ですか」
「食堂の席札です。白鐘の日は、外から来る人も多いので」
セリスさんは、記録机とは別の作業台へ箱を置いた。布を開くと、木の名札がいくつも並んでいる。どれも白く塗られ、今の名前が黒い字で書かれていた。幼い字のもの、職員の手のもの、古びて上から塗り直したもの。並んでいるのは、どれもこの院で呼ばれている名前なのだろう。セリスさんは一枚ずつ確かめ、欠けた札を横へよけていく。
「毎年、作り直すんですか」
「そう、ですね。傷んだものだけ」
一枚を持ち上げる。端の塗料が剥げていた。
「子どもは、名札をよく落とすんです。元気があって可愛らしいんですけれど」
「直すのも、セリスさんが?」
「手の空いた人が。まぁ、そうなってしまうことが多いような気もします」
言いながら、セリスさんは小さな刷毛を取り出した。白い塗料を薄く溶いて、剥げたところへそっと乗せる。塗り潰すのではなく、木目の欠けをなぞるような手つきだった。
「昔は、これを作るの、嫌いでしたけど」
顔を上げる。セリスさんは名札から目を離さない。
「いろいろ、その、思うところがあったもので」
「今は?」
「今は……嫌いでは、ないんです。ただ、前より、慎重にはなりました」
整えた名札を、乾燥棚へそっと置く。塗り直したばかりの白が、ほかの札よりわずかに濡れて見えた。
名札は、呼ばれるために作られる。宛名も、呼ばれるために書かれる。ただ、それがいつまでも同じ意味を持つとは限らない。保全袋へ目をやる。リヴィア・エイル。
紙のその名前は、四十二年前から一字も変わっていない。けれどこの白鐘院では、セリスという名前が何度も呼ばれ、何度も書き直され、名札の塗料が剥げるほど使われてきた。
「ファルンさん」
その声に、顔を上げる。
「はい」
「あなた、宛名を見たら……自然に、読んでしまうでしょう」
「……はい」
配達先を確かめるとき、仕分けをするとき、受領を求めるとき。宛名は、読むものだ。仕事はいつも、そこから始まる。
「読みにくい……そう思ったご経験は」
責める声ではなかった。自分のことを尋ねているというより、郵便魔女の仕事そのものを尋ねているような声だった。少し、考えた。
「いえ、あまり」
正直に、答えた。
「でも……ここで呼ぶのは、少し、怖くて」
セリスさんの刷毛が止まった。
「その、なんていうか。名前の先に手紙があるのは、分かってるんです。でも、この院で何度もセリスさんって呼ばれてるのを見たあとだと……宛名だけを、先に口に出すのが少し」
最後まで、言えなかった。言ってから、余計なことだったかもしれない、と口の中がひやりとした。郵便魔女が怖がってどうする。封筒を運んできたのは自分だ。渡すために来たのに、その名前が怖いだなんて、逃げているのと変わらない。
けれど、セリスさんは怒らなかった。名札へ、少しだけ視線を落とす。
「……よかった」
「え?」
「何も思わずに呼ばれるよりは、ずっと」
刷毛を、水皿へ置く。
「私も、怖いので」
とても静かな言い方だった。泣きそうにも見えないし、震えてもいない。ただ、白い名札を毎年塗り直してきた人が、作業の手を止めて、一度だけ本当のことを口にした――そんな声だった。
何も、返せなかった。
通信台で、小さな音がした。金属片が一つ、続けて二つ、三つと震える。第四支局からの返答だった。受信器から吐き出された細い紙片を、両手で受け取る。文字はエルナさんのものだ。必要なことだけが、端正に並んでいた。
白鐘院の保護改名記録、現名登録簿、保護受領札、封鎖名簿。それらの照合が取れれば、旧式導風符の応答要求は、代替の確認で足りる。もし符が旧名以外を拒むなら、導風を安定させたうえで、今の名前の署名と保護番号を、同時に示すこと。――旧名を声に出す必要は、ない。
最後に、支局長の短い追記があった。
――現地の白鐘院管理者の確認を優先。無理に進めるな。
紙片を読み終えて、小さく息を吐いた。
「名前を言わなくても、受け取れるみたいです」
セリスさんは、すぐには返事をしなかった。机の二十七番の札を見て、現名登録簿を見て、それから保全袋の封筒を見る。
「そうですか」
「はい」
「でも、その符……」
「えっと。そうですね。拒むかもしれないのは、その通りです。でも、試せます。封が固まりそうになったら、すぐ止めます」
「止められるんですか」
「たぶん」
そこは、言い切れなかった。旧式の導風符は、今の保全符より癖が強い。しかも四十二年前のものだ。何を本人と認め、何を撥ねるのか、実際に反応を見るまで分からない。
「たぶん、なんですね」
「……はい」
少し、沈黙が落ちた。中庭からは、鐘布を運ぶ声がしている。誰かが笑い、誰かが叱られ、木箱を置く音がした。白鐘の日の支度は、止まっていない。
セリスさんは、名札の箱に蓋をした。
「十分です」
「今で、構いませんか」
セリスさんは、首を横に振った。
「院長を呼びます。記録の管理者として、立ち会ってもらわないと」
「はい」
「それから――少しだけ、時間をください」
記録机の真鍮の留め具を、手に取る。
「鐘楼の布を、一枚掛けてきます」
思わず、まばたきをした。手紙は目の前にある。弟の名前も見た。受け取る方法も分かった。それでも、セリスさんは布を掛けに行くと言う。
彼女は、少しだけ笑う。穏やかというより、困ったような笑い方だった。
「……手を動かしていないと、椅子に座ったまま、何もできなくなりそうなので」
返事に、迷った。セリスさんは名札の箱を棚へ戻し、代わりに白い鐘布を一枚取り上げる。
「逃げているように、見えますか」
「……分かりません」
「私も、分かりません」
鐘布を、腕にかける。
「でも、白鐘の日の布は、今日掛けないと間に合わないんです。折り目を伸ばすのに、時間が要るので」
それは、仕事の理由だった。同時に、いますぐ手紙へ手を伸ばさずに済ませるための理由でもあった。どちらが本当かは、分けられない。――それでよかった。セリスさんの暮らしは、手紙を受け取るためだけに、止まっているわけじゃない。
「手伝います」
セリスさんが、少し驚いたように瞬きをした。
「郵便物は?」
「記録室に保全します。扉は閉めて、鍵はセリスさんが持っていてください」
「あなたが、持たなくていいんですか」
「この部屋の鍵は、白鐘院のものですから」
セリスさんは一瞬、何か言いかけた。けれど、言わずに鍵束を取った。扉を閉める前に、彼女は机の上をひととおり見る。保全袋、二十七番の札、現名登録簿、第四支局からの返答。それを確かめてから、扉に鍵をかけた。古い鍵が、重たい音を立てる。
鐘楼へ続く階段は、外壁に沿って作られていた。風が強い。セリスさんの抱えた鐘布があおられないよう、端を支えながら上がっていく。白い布は、見た目より重かった。まだ少し湿りを含んでいる。畳み皺を伸ばすために、わざと乾かしきっていないのだという。
「濡れてるんですね」
「少しだけ。乾きすぎると、裂けてしまうので」
セリスさんが布の端を確かめる。
「湿りすぎても重くなるし、風を受けすぎると、留め具が抜けます」
フィオナが聞いたら、喜びそうな話だった。白鐘院には、白鐘院の守り方がある。紙ではなく鐘布、封筒ではなく名札、保護袋ではなく記録室の鍵。この場所はこの場所のやり方で、長いあいだ、何かを守ってきたのだ。
鐘楼の上に出ると、オルシュ渓谷が見渡せた。深い谷、崩れた斜面、その上を薄い雲が流れていく。思わず、谷底へ目が落ちた。旧風路の気配が、まだ下にある。落ちたまま、消えもせず、そこにあるのに、空へは戻らない。保全袋は記録室へ置いてきたはずなのに、胸の奥で、導風符が震えたような気がした。
「ここから、村が見えたそうです」
「オルシュの?」
「はい。事故の、前は」
セリスさんが鐘布を広げる。こちらも端を持つと、白い布が風を受けて、二人のあいだで大きく膨らんだ。
「私は、覚えていません」
留め具を、手に取る。
「覚えていないふりをしているのか、本当に覚えていないのかも……もう、分からないんです」
布を押さえる。風が強くて、少し気を抜くと、手から抜けていきそうになる。
「でも、マテオの字は、分かりました」
セリスさんの声が、風に少し紛れた。
「紙の端に、姉さんへ、と書く癖があったんです。拾った石にも書いていました。姉さんの石、姉さんの椅子、姉さんのパン。字を覚えたばかりで、何にでも書きたがって」
留め具が一つ、布を留める。真鍮が石の金具に噛み合う、硬い音がした。
「あれは、その字でした」
何も、言えなかった。セリスさんは、旧名は読まなかった。けれど、弟の字は読んだ。それだけで、あの封筒は、ほんの少しだけ違う場所へ進んだのかもしれない。
「ファルンさん」
「はい」
「私は、受け取ると思います」
セリスさんが、二つ目の留め具を取る。
「でも、たぶん、すぐには読めません」
「はい」
「それでも、いいんでしょうか」
風に揺れる布を押さえたまま、少し考えた。手紙は、受け取られた時点で配達完了になる。読むか読まないかは、受取人のもの――そう答えるのは、簡単だった。でも、それをそのまま口に出すと、何かを置き去りにする気がした。
「セリスさんが受け取ったら、私の配達は、そこで終わります」
少し、間を置いて、
「でも、手紙のほうは、そこで終わらない気がします」
セリスさんが、こちらを見た。
「郵便魔女は、そういうことも言うんですか」
「……たぶん、言わなくていいことです」
「では、どうして」
「私が、そう思ったので」
セリスさんが、少しだけ笑う。今度の笑いは、さっきより少しだけ、力が抜けていた。
「そうですか」
三つ目の留め具を留める。白い布が鐘楼の外側へ掛かり、風を受けて大きく広がった。谷へ向かって、白い面が揺れる。
下の中庭から、子どもたちの声がした。
「セリスさん、布、まっすぐ?」
セリスさんは下を覗き、いつもの声で答える。
「左が少し低い。下から見て、もう一回教えて」
「はーい!」
子どもが笑って走っていく。セリスさんが布の端を直し、こちらも手伝う。白い布は、風の中で何度も膨らんでは、何度も戻った。
記録室には、まだ受け取られていない手紙がある。それでも、鐘布は今日掛けなければならない。――そのことが、少しずつ分かってきていた。手紙は、人の暮らしへ届く。暮らしは、手紙が来たからといって、何もかもを止めてはくれない。だからこそ、届く場所だけは、間違えたくなかった。
布を留め終えると、セリスさんはしばらく谷を見ていた。その隣に立つ。谷底の風は、まだ沈んだままだ。白い鐘布だけが、空のほうで、大きく揺れていた。




