↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter9 過去に届く手紙
PR
76/96

再開の壁

 記録室は、礼拝堂の奥にあった。


 厚い扉を開けると、乾いた紙と、磨かれた木棚の匂いがする。窓は小さく、光は白い布越しに入ってくる。壁ぎわの棚に木箱が並び、それぞれに細い札が差し込まれている。


 保護受領記録。改名許可記録。封鎖名簿。現名登録簿。


 札の文字を、順に目で追う。ここは、名前をしまっておく場所なのだ。


 セリスが、棚の前で足を止めた。


「オルシュ事故のあとの記録は、こちらです」


 中庭で鐘布の行き先を指していたときと、同じ声だ。ただ、木箱を引き出す指先だけが、少し遅い。


 保全袋を胸の前に抱えたまま、扉のそばに立っている。急かしたくない。でも、黙って立っているのも落ち着かない。何をしていても、少しずつ間違っている気がする。


 セリスが箱の蓋を開ける。中には、布に包まれた古い名簿。革の表紙は端が擦り切れ、留め紐だけが新しいものに替えてある。何度も、開かれてきたのだろう。


 名簿を机へ運び、白い布の上に置く。表紙の埃を、指先で払う。その手つきが、ゆっくりしている。大事なものを開く前の速さだ。


 名簿を開く。黄ばんだ紙に、古いインクの名前が縦に並んでいる。横に、現名、保護番号、保護時年齢、親族記録の有無。


 ページをめくる指は、迷わない。


 ――知っているのだ。自分が、どこに書かれているか。


 この閉じた場所へ、何度も来て、確かめてきた指なのかもしれない。その迷いのなさが、少しつらい。


 やがて、指が一行の前で止まる。


 そこに、古い名前がある。


 読まない。目に入れば、読めてしまう。読めば、頭の中で音になる。音になれば、呼んだのと同じだ。


 だから、封筒の角だけを見ている。保全袋の中で、導風符がかすかに光っている。


 セリスが、口を開いた。


「現名、セリス・ハルト。保護番号、白鐘二十七番」


 自分の名前と、番号だけを読む。旧名の欄は、読まない。


 名簿の横に、小さな木札を置く。白く塗られた札に、二十七、と古い字で刻んである。角は丸く、塗料は薄く剥げている。子どもの手が、何度も握ったのだろう。


「名前が決まるまで、これで呼ばれていました」


 セリスは、それだけ言った。


 別の帳面を開く。現名登録簿。セリス・ハルト、という名前。旧名欄は封鎖済み。備考欄に、オルシュ崩落事故保護児童、親族照合未完了、とある。


 鞄の中で、封筒が、小さく震えた気がする。


 親族照合、未完了。そこへ、弟の名前を持った手紙が届いた。


「差出人を、見てもいいですか」


 セリスが訊く。


 保全袋を机へ置く。差し出すのではなく、彼女から見える向きに。差出人欄だけが出るように、封筒を袋の上で少しずらす。


 マテオ・エイル。幼い字で、姉さんへ。


 セリスが、それを見る。


 名簿の端を押さえていた指が、ほんの少し、白くなる。


「……マテオ」


 小さな声だった。


「弟です」


「はい」


「七歳でした」


「はい」


「字が、まだ」


 そこで、言葉が切れる。


 何か言いたい。でも、何を言っても、この場所には軽すぎる気がして、言えない。


 セリスが、机の端の真鍮の留め具を、一つ手に取った。鐘布を吊るす部品だ。指の中で一度だけ回して、元へ戻す。


 その手が、次に何をすればいいのか、分からなくなっている。


「受け取るには」


 セリスが言う。


「その名前を、言わなければ、なりませんか」


 すぐには、答えられない。


 規定なら、答えはある。旧式の導風符は、宛名本人の応答を求める。この手紙は、古い名前へ向かっている。


 でも、机の上には、二十七番の札がある。封鎖名簿がある。現名登録簿がある。四十二年、閉じて、しまって、必要なときだけ開いてきた記録が、全部、いまここにいる人を、セリスと呼んでいる。


 そのセリスが、弟の名前を見ている。


「確認します」


 と言った。


「第四支局と、白鐘院の記録で。いま、ここで答えなくて、いいです」


 セリスの目が、こちらを見る。


「まだ、渡しません。再保留にも戻しません。確認が済むまで、この部屋で預かります」


 言ってから、怖くなる。


 四十二年待った手紙を、今度は私が止める。そんなことを、こんなに簡単に、決めていいのか。


 ――でも、急いで渡すのも、違う。それだけは、分かる。


 セリスが、机の上の保全袋を見た。


「ここで、ですか」


「はい。記録室の中で。セリスさんの見えるところに置きます」


 彼女の手が、二十七番の札に触れる。指で押さえたまま、小さくうなずいた。


「では、ここに」


 セリスが机の端を空ける。食堂用らしい名札が、未整理のまま何枚か置かれている。今の字で、子どもの名前。それを一枚ずつ重ねて、別の皿へ移す。


 空いた場所へ、古い白い布を敷いた。鐘楼の布ではなく、記録を置くための布だ。


「ここなら、日が当たりません」


「はい」


「湿気も、少ないです」


「ありがとうございます」


 そこへ、保全袋を置く。導風符が、また小さく光る。


 封筒は、まだ誰にも受け取られていない。それでも、仕分け台の上ではなく、白鐘院の記録室の、机の上にある。


 セリスは、封筒に触れない。ただ、その隣に、二十七番の札を置いた。


 白い札と、マテオの手紙が、並ぶ。


 それを見ていると、胸の奥が、少し痛い。


 届いたわけじゃない。まだ、届いていない。でも、もう仕分け台には戻っていない。


 第四支局への照会は、記録室の通信台から送った。


 白鐘院の通信台は古い。木枠の中で、風鈴のような受信器が並んでいて、打ち込むたびに細い金属片が震え、遠くの支局へ短い風を送る。


 文面は、何度も見直した。旧名は書かない。差出人名も、最小限に。


 本人限定郵便。四十二年前。保護改名記録一致。保護受領札あり。旧式導風符、応答要求型。代替確認での受領可否を、確認されたし。


 文字だけを見れば、ただの照会だ。机の端の封筒を見なければ、そう読める。


 送信を終えると、セリスは白鐘の日の準備に戻っていった。記録室の扉は、閉めない。封筒が見えるように、少しだけ開けておく。


 廊下の向こうから、子どもたちの声がする。


「セリスさん、名札あった!」


「乾いてた?」


「乾いてた!」


「じゃあ、食堂の棚に戻して。順番、間違えないでね」


「はーい」


 その声を聞きながら、記録室に残る。


 保全袋の封筒は、静かだ。導風符も、いまは光らない。名前を呼ばれるのを、待っているのかもしれない。


 小さく、息を吐く。


「もう少しだけ、待って」


 今度は、封筒に言った。


 四十二年待った手紙に、もう少し待ってほしいなんて、ひどいのかもしれない。


 それでも、そう言うしかない。


 この手紙が届く先は、名前だけじゃない。セリスさんと呼ばれて返事をする人の、今日の、途中だから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。