再開の壁
記録室は、礼拝堂の奥にあった。
厚い扉を開けると、乾いた紙と、磨かれた木棚の匂いがする。窓は小さく、光は白い布越しに入ってくる。壁ぎわの棚に木箱が並び、それぞれに細い札が差し込まれている。
保護受領記録。改名許可記録。封鎖名簿。現名登録簿。
札の文字を、順に目で追う。ここは、名前をしまっておく場所なのだ。
セリスが、棚の前で足を止めた。
「オルシュ事故のあとの記録は、こちらです」
中庭で鐘布の行き先を指していたときと、同じ声だ。ただ、木箱を引き出す指先だけが、少し遅い。
保全袋を胸の前に抱えたまま、扉のそばに立っている。急かしたくない。でも、黙って立っているのも落ち着かない。何をしていても、少しずつ間違っている気がする。
セリスが箱の蓋を開ける。中には、布に包まれた古い名簿。革の表紙は端が擦り切れ、留め紐だけが新しいものに替えてある。何度も、開かれてきたのだろう。
名簿を机へ運び、白い布の上に置く。表紙の埃を、指先で払う。その手つきが、ゆっくりしている。大事なものを開く前の速さだ。
名簿を開く。黄ばんだ紙に、古いインクの名前が縦に並んでいる。横に、現名、保護番号、保護時年齢、親族記録の有無。
ページをめくる指は、迷わない。
――知っているのだ。自分が、どこに書かれているか。
この閉じた場所へ、何度も来て、確かめてきた指なのかもしれない。その迷いのなさが、少しつらい。
やがて、指が一行の前で止まる。
そこに、古い名前がある。
読まない。目に入れば、読めてしまう。読めば、頭の中で音になる。音になれば、呼んだのと同じだ。
だから、封筒の角だけを見ている。保全袋の中で、導風符がかすかに光っている。
セリスが、口を開いた。
「現名、セリス・ハルト。保護番号、白鐘二十七番」
自分の名前と、番号だけを読む。旧名の欄は、読まない。
名簿の横に、小さな木札を置く。白く塗られた札に、二十七、と古い字で刻んである。角は丸く、塗料は薄く剥げている。子どもの手が、何度も握ったのだろう。
「名前が決まるまで、これで呼ばれていました」
セリスは、それだけ言った。
別の帳面を開く。現名登録簿。セリス・ハルト、という名前。旧名欄は封鎖済み。備考欄に、オルシュ崩落事故保護児童、親族照合未完了、とある。
鞄の中で、封筒が、小さく震えた気がする。
親族照合、未完了。そこへ、弟の名前を持った手紙が届いた。
「差出人を、見てもいいですか」
セリスが訊く。
保全袋を机へ置く。差し出すのではなく、彼女から見える向きに。差出人欄だけが出るように、封筒を袋の上で少しずらす。
マテオ・エイル。幼い字で、姉さんへ。
セリスが、それを見る。
名簿の端を押さえていた指が、ほんの少し、白くなる。
「……マテオ」
小さな声だった。
「弟です」
「はい」
「七歳でした」
「はい」
「字が、まだ」
そこで、言葉が切れる。
何か言いたい。でも、何を言っても、この場所には軽すぎる気がして、言えない。
セリスが、机の端の真鍮の留め具を、一つ手に取った。鐘布を吊るす部品だ。指の中で一度だけ回して、元へ戻す。
その手が、次に何をすればいいのか、分からなくなっている。
「受け取るには」
セリスが言う。
「その名前を、言わなければ、なりませんか」
すぐには、答えられない。
規定なら、答えはある。旧式の導風符は、宛名本人の応答を求める。この手紙は、古い名前へ向かっている。
でも、机の上には、二十七番の札がある。封鎖名簿がある。現名登録簿がある。四十二年、閉じて、しまって、必要なときだけ開いてきた記録が、全部、いまここにいる人を、セリスと呼んでいる。
そのセリスが、弟の名前を見ている。
「確認します」
と言った。
「第四支局と、白鐘院の記録で。いま、ここで答えなくて、いいです」
セリスの目が、こちらを見る。
「まだ、渡しません。再保留にも戻しません。確認が済むまで、この部屋で預かります」
言ってから、怖くなる。
四十二年待った手紙を、今度は私が止める。そんなことを、こんなに簡単に、決めていいのか。
――でも、急いで渡すのも、違う。それだけは、分かる。
セリスが、机の上の保全袋を見た。
「ここで、ですか」
「はい。記録室の中で。セリスさんの見えるところに置きます」
彼女の手が、二十七番の札に触れる。指で押さえたまま、小さくうなずいた。
「では、ここに」
セリスが机の端を空ける。食堂用らしい名札が、未整理のまま何枚か置かれている。今の字で、子どもの名前。それを一枚ずつ重ねて、別の皿へ移す。
空いた場所へ、古い白い布を敷いた。鐘楼の布ではなく、記録を置くための布だ。
「ここなら、日が当たりません」
「はい」
「湿気も、少ないです」
「ありがとうございます」
そこへ、保全袋を置く。導風符が、また小さく光る。
封筒は、まだ誰にも受け取られていない。それでも、仕分け台の上ではなく、白鐘院の記録室の、机の上にある。
セリスは、封筒に触れない。ただ、その隣に、二十七番の札を置いた。
白い札と、マテオの手紙が、並ぶ。
それを見ていると、胸の奥が、少し痛い。
届いたわけじゃない。まだ、届いていない。でも、もう仕分け台には戻っていない。
第四支局への照会は、記録室の通信台から送った。
白鐘院の通信台は古い。木枠の中で、風鈴のような受信器が並んでいて、打ち込むたびに細い金属片が震え、遠くの支局へ短い風を送る。
文面は、何度も見直した。旧名は書かない。差出人名も、最小限に。
本人限定郵便。四十二年前。保護改名記録一致。保護受領札あり。旧式導風符、応答要求型。代替確認での受領可否を、確認されたし。
文字だけを見れば、ただの照会だ。机の端の封筒を見なければ、そう読める。
送信を終えると、セリスは白鐘の日の準備に戻っていった。記録室の扉は、閉めない。封筒が見えるように、少しだけ開けておく。
廊下の向こうから、子どもたちの声がする。
「セリスさん、名札あった!」
「乾いてた?」
「乾いてた!」
「じゃあ、食堂の棚に戻して。順番、間違えないでね」
「はーい」
その声を聞きながら、記録室に残る。
保全袋の封筒は、静かだ。導風符も、いまは光らない。名前を呼ばれるのを、待っているのかもしれない。
小さく、息を吐く。
「もう少しだけ、待って」
今度は、封筒に言った。
四十二年待った手紙に、もう少し待ってほしいなんて、ひどいのかもしれない。
それでも、そう言うしかない。
この手紙が届く先は、名前だけじゃない。セリスさんと呼ばれて返事をする人の、今日の、途中だから。




