オルシュ渓谷
オルシュ渓谷へ近づくと、風の音が変わった。北方の風はもともと乾いている。アルネリアの冬ほどではないけれど、山肌を渡る風には、古い石と雪解け水の匂いが混じっていた。
現行風路の上を飛びながら、左手の谷を見下ろす。底は深い。白い岩肌が裂け、ところどころに黒い土がのぞいている。四十二年前に崩れた斜面は、今は草に覆われて、それでも形だけは、まだ歪んだままだった。
その谷に、風が落ちていた。
箒の柄を、握り直す。横へ流れているのでも、途中で切れているのでもない。谷底のどこかへ、細い流れが引き込まれている。ふつう、風路は空に残るものだ。弱っても、曲がっても、空のどこかに痕跡を置く。なのにオルシュの古い風路は、見えない重りでも吊るされたみたいに、下へ、下へと沈んでいた。
保全袋の中で、封筒の導風符が小さく震えた。とっさに、高度を上げる。
導風符は、リヴィアさんを探している。けれど、いま向かっているのは……。二つは同じ人を指す。同じ名前で呼んでいいとは、限らないのに。
東の尾根へ回り、アデルが示した発着場へ降りた。白鐘院は、渓谷の斜面へ寄り添うように建っている。石造りの古い建物で、屋根は灰色、窓枠だけが白く塗られていた。中庭には洗った布が何枚も干してある。どれも白い。鐘楼から吊るすための布なのだろう、風に揺れるたび、乾いた音を立てていた。発着場の端では、若い職員が木箱を運んでいる。
「セリスさん、こっちの布、鐘楼用でいいですか」
中庭の向こうから声がして、足が止まった。
呼ばれた女性が、礼拝堂の扉から出てくる。四十代半ばほど。薄い灰色の作業服の袖を肘までまくり、手には古い名簿と、白い布を留める真鍮の具を持っていた。
「鐘楼用は右の箱。礼拝堂用は畳まずに掛けてね。折り目が残ると、当日の光で目立つから」
「はい、セリスさん」
別の子どもが、走ってくる。
「セリスさん、食堂の名札、二枚足りない!」
「棚の二段目。昨日洗って乾かした分があるから。濡れた手で触らないでね」
「はーい」
セリスさん、セリスさん、と何度もその名が飛ぶ。呼ばれるたび、彼女はごく自然に振り向いて、考える間もなく返事をした。誰に何を渡すか、どの布をどこへ掛けるか、どの名札が足りないか、全部その手が覚えている。この場所で、その名前はずっと使われてきたのだ。声に馴染み、仕事に馴染み、子どもたちの足音に馴染んで。
鞄の中の保全袋が、急に重たく感じられた。そこに入った封筒には、別の名前が書いてある。取り出す前から、もう重い。
受付の職員が、こちらに気づいた。
「あら、すみません。郵便組合の……」
「はい。東部第四支局のリネット・ファルンです。こちらへ、照会のお便りを出していたと思うんですが」
「ああ、あの。えっと、院長を呼びましょうか」
少し、声を落とした。
「その前に、照会対象の方と話せますか」
受付の職員が、わずかに目を細める。白鐘院では、それだけで用件のおおよそが伝わるらしかった。
「セリスさーん」
職員が中庭へ呼ぶ。
「お客さまですよ」
彼女はこちらへ歩いてくる。
リヴィア・エイル様宛ての――。
いや、絶対に、それだけはいけないんだ。
保全袋を持つ手を、そっと下げた。
「四十二年前の手紙が、いまになって、こちらへ回ってきたんです」
「宛名は」
セリスが訊いた。
すぐには、答えなかった。代わりに、保全袋を受付台の上へ置く。差し出すのではなく、ただ置く。
「その前に、確かめたいことがありまして」
「こちらの記録を、見せていただけますか」
セリスは、受付台の保全袋へ目をやった。中の名前は、まだ見ていない。それでも、分かっているようだった。名簿を抱えた指が、その角を、少しだけ強く押さえる。
「こちらへ」
中庭では、白い布が風に揺れている。子どもがまた一人、セリスを呼ぼうと駆けてきて、受付のあたりの空気に気づいたのか、声を途中で小さくした。セリスはそちらを見て、いつもの調子で言う。
「布は右の箱。名札は二段目。鐘楼には、まだ上がっちゃだめよ」
「はい」
子どもはうなずいて、走っていった。
その声を聞き届けてから、セリスはこちらへ向き直った。
「すみません、何度も。どうぞ、こちらへ」
保全袋を持ち上げる。中の導風符が、また小さく震えた。




