午後三時十二分②
次の瞬間、空が動いた。
巨大な風路を満たしていた魔力が消え、その空白を埋めようと、周囲の魔力が一斉に押し寄せた。
東から吹いていた自然風が、横殴りに向きを変える。
箒の穂先が大きく持ち上がり、リンの身体が後ろへ投げ出されかけた。
「っ……!」
柄へしがみつき、反射的に魔力を送り込む。
箒の術式が青白く輝いた。
姿勢を戻そうとしている間にも、残存魔力を示す計器の針が、目に見える速さで下がっていく。
風路の外で乱流に逆らい、高度を保つために必要な魔力は、普段の比ではなかった。
「エルナさん!」
「私は大丈夫! 塔へ信号を――」
エルナが信号杖を振り上げる。
赤い光が一本、空へ伸びた。
二本目を送ろうとした、そのときだった。
消えた北方第六風路の下から、別の流れが噴き上がった。
細い。
けれど、周囲から押し寄せる乱れた魔力とは明らかに違う。一本の方向を持ち、北西へ向かって走る、古く鋭い魔力の筋だった。
その出現を捉えられたのは、リンだけだった。
「下から来ます!」
叫んだときには、もう遅かった。
古い流れは、リンよりも風路に近い位置にいたエルナの箒を、横から強く攫った。
「エルナさん!」
箒が大きく回転する。
エルナは姿勢を戻そうと柄を引いたが、流れへ横向きに入った箒は、激しく弾かれた。
身体が宙へ投げ出される。
振り回された柄が、エルナの側頭部へぶつかった。
鈍い音がした。
エルナの手から信号杖が離れ、その身体から力が抜ける。
「エルナさん!」
返事はなかった。
箒から離れた身体が、空中へ落ちていく。
リンは迷わなかった。
箒の穂先を下へ向け、急降下する。
古い風路へ入ったのではない。
魔力の流れがほとんど存在しない空白へ、自分から飛び出した。
箒を支えるものがなくなった瞬間、身体が鉛のように重くなる。高度を保つための魔力が一気に吸い上げられ、計器の針が大きく落ちた。
エルナとの距離が、なかなか縮まらない。
落下する人間は速い。
箒で下降するのとは違い、何も支えを持たない身体は、重力へ引かれるまま速度を増していく。
「浮揚出力、最大!」
リンは柄へ魔力を叩き込んだ。
術式の光が白く弾け、箒が悲鳴のような音を立てる。
視界の端で、計器の針がさらに落ちた。
数字を見ている余裕はなかった。
エルナの上着が、もうすぐ手の届く位置へ来る。
リンは箒の柄から片手を離し、身体を横へ乗り出した。
「届いて……!」
指先が、エルナの袖を掠める。
一度、滑った。
心臓が凍りつく。
もう一度腕を伸ばし、今度は手首を掴んだ。
その瞬間、二人分の体重がリンの肩へかかった。
「う、あ……っ!」
腕が抜けるかと思った。
箒の穂先が真下を向き、二人の身体が一緒に落下する。
リンは歯を食いしばり、エルナの手首を離さなかった。
郵便魔女は、預かったものを途中で落とさない。
それが手紙でも、薬でも、誰かが一生をかけて作った品でも。
今日は、それが人だっただけだ。
「絶対に、落としませんから……!」
意識のないエルナへ向けて叫び、リンは自分の身体ごと箒へ引き戻した。
片腕だけでは支えきれない。
郵便鞄の側面から、荷崩れを防ぐための固定帯を引き抜く。飛行中に鞄の留め具が壊れた場合、積荷を箒や身体へ括りつけるための丈夫な帯だった。
リンは落下しながら、その帯をエルナの身体へ回した。
一度目は肩を外れた。
「もう……ちゃんとして!」
誰へ言っているのか、自分でも分からなかった。
手の震えを無理やり押さえ、二度目でエルナの胸元と自分の腰を固定する。
留め具を引いた瞬間、身体が密着し、二人分の重みが箒へ集中した。
森の梢が、急速に近づいてくる。
このまま風路の外で二人を支え続ければ、地面へ着くより先に魔力が尽きる。
リンは周囲へ意識を広げた。
自然の風。
消えた現行風路へ流れ込む、荒れ狂う魔力。
その中に一本だけ、形を失わず流れているものがある。
先ほどエルナを攫った旧風路。
北西へ走る細い流れ。
普通の郵便魔女には見えない。
地図にも、観測器にも映らない。
けれどリンには、その幅も、速さも、どの角度で入れば箒を弾かれずに済むのかも分かった。
これは、リンにしかできない。
「エルナさん、少し揺れます」
返事はない。
それでも、黙ったまま飛ぶのは怖かった。
「でも、絶対に連れていきますから」
リンは箒の穂先を北西へ向けた。
旧風路へ正面から入れば、急激な流れの変化に箒を押し戻される。横から入れば、エルナのように弾き飛ばされる。
必要なのは、その中間。
流れの縁へ沿い、箒の速度を風と揃えながら、少しずつ中心へ滑り込ませる。
狭い山間路や、嵐で歪んだ風路へ入るときに使う飛び方だった。
けれど、目に見えない風路へ、意識のない人間を抱えたまま入った経験などない。
「大丈夫」
リンは自分へ言い聞かせた。
「私なら、できます」
古い流れの脈を数える。
一度。
二度。
三度目に、魔力が強まる。
その瞬間へ合わせ、リンは箒を傾けた。
突風が身体へ叩きつけられる。
エルナを固定した帯が軋み、リンの肩へ深く食い込んだ。
それでも、箒は弾かれなかった。
穂先が旧風路の縁を捉え、細い流れの中へ滑り込む。
途端に、二人の身体を押し下げていた重さが、わずかに軽くなった。
箒が持ち上がる。
落下が止まった。
「入った……!」
息と一緒に、声が漏れた。
余裕があるとは言えない。
それでも、風路の外で二人を支えるよりは、魔力の消費が遥かに少ない。
リンは速度を落とさないまま、片手でエルナの首元へ触れた。
脈はある。
呼吸もしている。
そのことを確認した途端、張り詰めていたものが少しだけ緩み、目の奥が熱くなった。
「よかった……」
震えた声が漏れる。
泣いている場合ではない。
袖で乱暴に目元を拭い、前を見る。
旧風路は、北西へ続いていた。
背後では、今しがた入った流れが、少しずつ細くなっている。現行の空へ戻ろうとしても、意識のないエルナを抱えたまま風路外を飛び切れるだけの魔力は、もう残っていなかった。
前へ進むしかない。
「エルナさん」
リンは、意識のない先輩へもう一度呼びかけた。
声に返事はない。
「必ず、届けて見せます」
そう言わなければ怖さに押し潰されそうだった。
旧風路の両側に、薄い霧が立ち始める。
その奥に、琥珀色の光が一つ浮かんだ。
さらに先にも、同じ光がある。
古びた鉄の枠に灯された、旧式の風路灯だった。現在のように管理塔から進路信号を送れなかった時代、夜間の郵便路の位置を示すために使われていた灯りである。
リンは養成課程の資料でしか見たことがなかった。
四十二年前、この道を飛んでいた郵便魔女たちも、同じ灯りを頼りにしていたのだろう。
誰かが待つ町へ、手紙を運びながら。
けれど今、リンが運んでいるのは手紙ではない。
腕の中で意識を失っている、一人の郵便魔女だった。
風路灯が一つずつ背後へ流れていく。
リンは前だけを見た。
怖くないわけではない。
腕も肩も痛み、魔力は減り続けている。エルナが目を覚まさなければ、この先で何が待っていても、すべて一人で判断しなければならない。
それでも、箒の柄を握る手には力があった。
道が見える。
運ぶべき人がいる。
それならば、自分が飛ばなければならない。
リンにとって、それ以上に明確なことはなかった。
霧が少しずつ薄くなっていく。
その向こうに、黒い屋根の輪郭が浮かび上がった。
小さな時計塔。
石造りの煙突。
風に揺れる、古びた看板。
窓には橙色の灯りがともり、煙突からは細い煙が上がっている。
四十二年前に閉じられた場所とは思えないほど穏やかで、まるで今日届く郵便物を、いつもの夕方と変わらず待ち続けていたかのようだった。
霧の向こうで、看板の白い文字がゆっくりと輪郭を結んでいく。
風待ち郵便局。
リンは安堵するより先に、高度を確かめた。
建物の前には、小さな発着場がある。
着陸できる。
「エルナさん、着きます」
返事はない。
それでもリンは、ほんの少しだけ笑った。
「ちゃんと、二人で」
旧風路を抜け、箒が発着場へ滑り込む。
着地の瞬間、二人分の重みに耐えきれず、リンの膝が崩れた。
それでも最後までエルナを抱え、地面へ投げ出さないよう身体をひねる。
石畳へ肩を打ちつけ、息が詰まった。
視界が白く滲む。
けれど、腕の中にいるエルナの身体は、無事だった。
リンは痛みに顔を歪めながら、それでも郵便鞄の固定帯を離さなかった。
今日、彼女が届けたのは手紙ではない。
受領印をもらうことも、配達完了の記録を残すこともできない。
それでも、途中で落とさず、辿り着ける場所まで運び切った。
郵便魔女は、絶対に届けるべきものを途中で落とさないのだ。




