お礼の形
午後、フィオナは包装室で、水草糸の記録見本を作っていた。現物はもうヴェルナへ向かっている。手元に残っているのは、湿度記録と、結び目の写しと、練習用の見本だけだ。
包装室へ入ると、机の上に二種類の布片が並んでいた。一つは元の戻り結び、もう一つは、フィオナがノアさんの箱へ足した追加結び。どちらも乾ききらないよう、浅い皿の上に置かれている。
「まだやってるの」
「乾いたときの変化を見たいから」
「休憩は」
「このあと」
フィオナが布片へ小さな札を添える。乾燥一時間、乾燥二時間、輪の縮み幅、糸の戻り具合――細かい字が、札の余白を埋めていった。
「ノアさん、ちゃんと持ってたね」
「箱?」
「手紙」
「ああ」
筆を止めずに、フィオナが答える。
「持ってたね」
「送らなかった」
「うん」
「でも、捨てなかった」
「うん」
机の端に、腰を預けた。フィオナは測定具を布片へ当てている。
「それで、いいのかな」
「さあ」
素っ気ない。
「私には分からない」
「珍しく、突き放すね」
「突き放してない」
フィオナが顔を上げた。
「紙のことなら分かる。濡れてない、封も破れてない、発送印もない。でも、それをいつまで持つか、いつ開けるか、また書くのか――そういうのは、紙を見ても分からない」
乾いた筆先を整えて、札へ数字を書く。
「だから、そこは記録しない」
机の上の、書かれない余白へ目が行った。保全記録には、箱の湿度も、糸の縮みも、発送の時刻も残る。けれど、ノアさんが持ち帰った封筒のことは、そこには載らない。あれはまだ郵便物ではなくて、誰かのもとへ運ばれるものでもなく、ノアさんの検査帳の内側で、しばらく湿気から守られているだけのものだ。
「フィオナ」
「なに」
「水草糸って、乾くと戻らないの?」
「完全には、戻らない」
布片へ目を落とす。
「でも、少しなら湿りを入れ直せる。元どおりの形にはならないけど、切れる前なら、まだ扱える」
「そっか」
フィオナが、疑わしそうにこちらを見た。笑ってごまかす。たぶん、比喩にしすぎると、怒られる。
糸は糸だ。手紙は手紙だ。人と人のことは、たぶん、そのどちらとも違う。ただ、乾かない包みを守っていたフィオナの手つきだけが、少し頭に残っていた。濡らしすぎない、乾かしすぎない、元の結び目を潰さない、足すなら流れを壊さないところへ一本だけ。――それは梱包の話で、糸の話だ。それでも今は、それでよかった。
夕方、ヴェルナ南水路区から、短い受領照会が届いた。第一便、到着確認。返礼箱一件、湿度管理棚より引き渡し済み。受取人のセレナさん本人が立ち会って開封し、破損なし、内容物も確認済み。添付欄には、リオラ交換官の短い追記が一行――戻り結び、継続。追加結びあり。
それだけだった。セレナさんが何を言ったのかは、どこにも書かれていない。首飾りを見たのか、貝殻が戻されていたことに気づいたのか、古い検査札を手に取ったのか。そういうことは、照会票には載らない。
アデルは受領照会を確かめ、ヴェルナ便の欄へ到着済みの印をつけた。
「届いた」
こちらへ、それだけ言う。
「うん」
「次、向こうから来るかな」
「分からない」
「だよね」
運航表を閉じて、
「でも、ヴェルナ便の湿度棚、しばらく空けておいたほうがいいかも」
「どうして」
「戻り結びって、戻ってきていい印なんでしょ」
言ってから、アデルは少し顔をしかめた。
「……いや、違うな。空けて待つんじゃなくて、空きが出たとき、詰めすぎないようにする。水草糸の箱は湿度がうるさいから、無理に詰めると次で困る」
運航表の隅へ、湿度棚注意、と書き込む。それは、だれかを待つための空欄ではなかった。次にそういう箱が来たとき、潰さずに積むための、ただの実務だった。
その文字を見て、少しだけ笑ってしまった。
「なに」
「なんでもない」
「変なの」
アデルは席を立って、照会票を棚へ戻しに行った。
窓の外へ目をやると、日が沈みかけていた。発着場では、夜間便の支度が始まっている。郵便袋が積まれ、風標が確かめられ、だれかが宛先を読み上げていた。ノアさんの封筒は、ここにはない。けれど、ヴェルナへ向かった箱は、もう届いた。その中には、銀の首飾りと、欠けた貝殻と、古い検査札が入っている。
水門の風は、まだ完全には直っていない。砂海の風路も、行方の知れない郵便袋も、答えは出ないままだ。それでも、今日通すべき船は通り、今日届けるべき箱は、届いた。
翌朝、ノアさんから第四支局へ、小さな封筒が届いた。宛先は組合ではなく、フィオナ。中身は礼状ではなく、水門管理棟で使う小型の湿度札が三枚。端に、ノアさんの字で短く添えてある。
――水門用ですが、乾かない包みにも使えるかもしれません。昨日の、お礼です。
フィオナは、それをしばらく眺めていた。
「お礼って、こういう形で来るんだ」
一枚を、光に透かす。
「おお、すごい」
「嬉しい?」
「もちろん!」
フィオナは湿度札を、包装室の引き出しへしまった。普通の備品棚ではなく、試験運用で集めた特殊保全資材の小箱へ。中には、砂海の口述筒に使った保全布の記録片や、水草糸の見本も入っている。小箱の札へ、湿度札三枚、と書き足し、少し考えて、用途欄にこう記した。
――水門・水草糸・乾湿差の大きい包みに使用可。
ノアさんの名前は、書かなかった。礼の品としてではなく、次に使える資材として棚へ収めたのだ。いかにも、フィオナらしかった。
その小箱を、しばらく見ていた。
「昨日の手紙、ノアさん、まだ持ってるのかな」
「持ってるんじゃない?」
フィオナが引き出しを閉める。
「濡らさない場所は、教えたし」
「……そこなんだ」
「そこは、大事」
フィオナが包装台へ戻り、今日届いた荷を一つ取って、封緘の歪みを確かめはじめる。こちらも、自分の配達票を取りに行った。発着場ではアデルが夜間便の遅延記録を整理し、執務室ではエルナさんが、第二水門の風牽き異常を風路事故照会へ回す支度をしている。支局長は、朝便の受付に追われていた。
昨日の箱は、もうここにはない。ノアさんの手紙も、ここにはない。それでも――包装室の引き出しには水門用の湿度札が三枚増え、ヴェルナ便の湿度棚には次の水草糸の箱に備えた注意書きが足され、アデルの記録には保守と異常が分けて残り、フィオナの見本布には、戻り結びと追加結びが並んでいる。
配達票を握って、外套の襟を直す。今日の便は、北東の街道沿いへ三通。そのうちの一通は、誕生日に合わせて届ける指定郵便だった。特別な事件じゃない。それでも、だれかが今日、受け取るものだ。
発着場へ出ると、朝の風が頬に当たった。箒へ乗り、郵便袋の重みを確かめる。風は、いつもどおりに見える。けれど、いつもどおりに見えるものが本当にそうなのかは、もう少し丁寧に確かめたほうがいい――この数日で、それだけは身についた……ことにさせて。
風標をひとつずつ確認して、発着場を離れる。
下では、フィオナが包装室の窓を、ほんの少しだけ開けていた。乾きすぎないように。湿りすぎないように。朝の空気を、少しだけ入れるために。




