届けない思い
ヴェルナ便を見送ったあとも、ノアさんはすぐには水門へ戻らなかった。桟橋の端に立って、連絡艇が運河の曲がり角を越えていくまで、ずっと見ている。朝の水面は、夜よりずっと薄い色をしていた。船の引いた波が岸壁に触れ、濡れた石段を、一段だけ濃くする。
水門の上では、仮復旧した風牽きがまだ細く鳴っている。一度、二度、そして三度目も、今度は途中で切れない。完全ではないけれど――下流へ抜ける手前で少し頼りなく揺れる――それでも、船を通すには足りていた。
ノアさんは検査帳を開き、連絡艇の通過時刻を書き込んだ。ヴェルナ便、返礼箱一件、湿度管理棚へ収容済み。仕事の記録としては、それで足りる。けれど彼は、しばらく筆を止めたまま、濡れた桟橋を見ていた。
「戻らないんですか」
「……すみません」
検査帳を閉じる。
「朝の便が終わったら、仮復旧のところをもう一度見て。昼までに、修繕の申請も出さないと」
「忙しいね」
「昨日も今日も、だいたい同じです」
言ってから、少し考えて、
「……いえ。今日は、少し違いますね」
外套の内側へ手を入れて、彼が取り出したのは、発送印のない封筒だった。昨日、支局から持ち帰った手紙。返してくれてありがとう、もう手紙は送りません――そう書いたと言っていた、あれだ。封はまだ閉じたまま、角も折れていない。水門の湿気から守るためだろう、薄い防湿紙に挟んである。
ノアさんは、その封筒を見下ろした。
「これは、どう扱えばいいですか」
答えかけて、フィオナを見た。フィオナは少し眉を寄せる。
「濡れてはいませんね?」
「……そういう意味じゃなくて」
フィオナは封筒の端へ目をやった。
「組合の郵便物じゃない以上、どう持つかはノアさんの自由です。ただ、置くなら乾いた場所に。水門の部屋は、湿るので」
「やっぱり、そこなんですね」
「そこです!」
真顔だった。
「《《紙は、湿ると戻らない》》ので」
ノアさんは封筒を外套へは戻さなかった。検査帳の革覆いを開き、その内側の乾いたポケットへ差し込む。水位記録や確認札とは一緒にしない、胸元の、いちばん濡れにくい場所。昨日は傷ついた勢いのまま封をした手紙を、今日は、仕事の邪魔にならないように、そっとしまう。ただそれだけの動作が、昨日とは違っていた。
「送るの?」
「今は、まだ」
検査帳を閉じ、革紐をかける。
「次に書くとき、同じことを書くかもしれない。まるで違うことを書くかもしれない。でも、これはこのまま、なんというか、残しておきたくて」
水門へ向き直った。
「昨日の僕がそう思ったことまで、なかったことにするのは、ちょっと」
うなずいて、それ以上は訊かなかった。
ノアさんが検査帳を脇に抱え、濡れた石段を上がっていく。その背中へ、フィオナが声をかけた。
「袖口、また濡れてますね?」
足を止めて、袖を見る。水位標の徽章の下が、細く濡れていた。
「すみません」
差し出された布を受け取って、ノアさんは徽章のまわりを丁寧に拭いた。昨日より、少しだけ手つきが慎重だった。
第四支局へ戻ったのは、昼前だった。アデルは経路室の机いっぱいに運航表を広げ、何枚もの照会票と格闘している。南西便が三本、ヴェルナ方面の第一便の遅延、第二水門の仮復旧、貨物艇の積載制限――机の端には、砂海の経路板の写しもまだ置いてあった。カルファ交換所へ戻したものとは別に、第四支局用に書き写したものだ。
「戻った」
アデルは、顔を上げるより先に言った。
「ただいま」
「箱は」
「ヴェルナ便に載った」
「手紙は」
「載ってない」
「うん」
それだけ聞くと、アデルは照会票の一枚へ線を引いた。
「そいで、アデルは何してんの?」
フィオナが横から覗く。
「うーん、仕分け」
アデルが机の右の票を指した。
「こっちは第二水門の保守記録。風標も弁も、積載制限も、仮復旧も。こっちは、風牽き異常のほう」
短く言う。
「手を入れたところと、原因がまだ分からないところは、分けないと。混ぜたら、次に同じことが起きても、また部品を換える話で片付いちゃうからね」
砂海の経路板の写しへ、目が向いた。黒塩丘の先、風だけが抜けていたあの場所。第二水門の風牽きは、それに比べればずっと小さいし、郵便風路でもない。それでも、記録の線を分けておくべきなのは、同じだった。
アデルは新しい照会票に、第二水門、三度目の風牽き、途中で消失、と書き、その下へ、こちらから伝えた見立てを書き足していく。乱れなし、押し返しなし、風標は反応あり。門の中央から先で、流れが欠落。
「リーンー、これで合ってる?」
向けられた票へ目を通す。
「うん。……欠落、でいいと思う」
「じゃあ、欠落」
アデルは、一語だけ直した。
フィオナが、保全記録を机の端へ置いた。
少し考えて、アデルは別紙へ短く書いた。返礼梱包、受取人側で内容物追加、原結び保持。
「中身は」
「首飾り。貝殻。検査札」
「検査札?」
「ノアさんが、見習いのころ使ってたもの」
そこで初めて、アデルの手が止まった。
「……それ、いいね」
「うん、なかなかわかってるよね」
うなずいた。
「首飾りより、ノアさんらしいというか!」
フィオナも、小さくうなずく。
「でも、ピカピカにして送ろうとしてたのは減点だよね」
「あー、なんか、わかる。綺麗だから嬉しいんじゃないよね」
「全部磨かれてたら、まぁ、気遣いは嬉しいけど、なんかねぇ?」
みんな思う所は同じようだ。まぁ、こういうのはちょっと難しいのかもしれない。
アデルの筆が、照会票の上で止まった。
「そいや、手紙は」
「ノアさんが持ってるよ。結局送らなかった」
「おっけ」
「うん」
アデルは、それ以上は訊かなかった。訊かない代わりに、運航表のヴェルナ便の欄へ、返礼箱一件、発送済み、と書き入れる。手紙の欄は、空いたままだった。その空白へ、無理に何かを書き足すことは、しなかった。




