どうか、おきをつけて
検査員宿舎は、水門脇の細い路地にあった。一階は道具置き場で、壁ぎわに水位板、交換用の風標、錆びた鎖、油壺が並び、石床には乾ききらない足跡がいくつも残っている。二階への階段は狭かった。ノアさんはフィオナの指示どおり、一段ずつ、箱を傾けないように上がっていく。濡れた外套と検査帳を抱えて、そのあとに続いた。
部屋は広くない。寝台と机、壁に掛かった古い検査服。窓辺には乾かしかけの靴下と、細い金属棒が何本も立てかけてある。水門の音が近かった。窓を閉めていても、下から絶えず水の動く気配が上がってくる。街の家というより、水門の上に暮らしている部屋だった。
「ここへ」
フィオナが机へ目をやる。
「先に、書類をどけて。インク瓶も。水草糸にこぼすと、もう取れません」
「はい」
ノアさんが慌てて机を片づける。検査済みの札、未処理の水位記録、折れた測針、乾いた藻の欠片――どれも仕事のものばかりだった。
彼は件の小さな貝殻を改めて手に取る。白く、片側が欠けて、割れ口は指で何度も撫でたように丸い。窓辺の灯りを受けると、内側だけが薄く虹色に光った。
それを見て、ノアさんの手が少し止まった。
貝殻を握ったまま、ノアさんはしばらく箱を見ていた。それから外套の内側へ手を入れ、封筒を取り出す。支局から持ち帰った、発送印のない手紙。封はまだ閉じたままだ。それを机の端へ、木箱から少しだけ離して置いた。破りも、開きもしない。
フィオナが包み布の端を確かめる。
「念のため、私が。底の戻り結びだけは、残しますけど。中身は、お願いできますか」
「はい」
針先で、水草糸が少しずつ緩められていく。乾きすぎていないから、糸は折れずに動いた。布に残っていた湿りが、フィオナの手元で淡く光る。包みが開くと、銀の首飾りが現れた。細い鎖に、小さな水位標をかたどった飾り。ノアさんがセレナさんへ送り、セレナさんが戻り結びで送り返したものだ。その横には、貝殻がちょうど収まる浅い窪みが残っていた。
ノアさんが、貝殻をその窪みへ戻す。それだけで、箱の中が少し落ち着いて見えた。
「確かに、送ったときとは別のものと言うか。きちんと変化はあったんですよね」
ノアさんが言う。
「返ってきたとき、その横に、これが」
指先で、貝殻の欠けた縁に触れる。
「セレナが、前に話してくれたんです。ヴェルナの子どもは、初めて一人で水路を渡った日に、貝を拾うことがあるって」
いまは、何もいうべきではないんだろう。
その話を、今こうして、よどみなく話せるくらいには覚えていたのに。
それなのに、箱が戻ってきたあの日には、思い出せなかった。いや、たぶん、思い出すより先に、傷のほうが早かったのか。
ノアさんは首飾りを見て、それから部屋を見回した。机の上にあるのは、仕事の道具ばかり。水位記録、検査札、測針、古い風標の羽根。何を探しているのかは、こちらには分からなかったし、ノアさん自身も、はじめは分かっていないようだった。
引き出しを開けて、何かを取り出しては戻す。小さな銀貨、古い航路切符、折れた測針の先、濡れて読めなくなった検査票。どれも違うらしい。きれいなものを探しているのではなかった。箱へ入れても嘘にならないものを、探している。
やがて、ノアさんの手が止まった。引き出しの奥から出てきたのは、薄い真鍮の札。端が削れ、穴のまわりが黒ずんでいる。表には番号と、第二水門の古い印。裏は、細い傷でいっぱいだった。
「それは」
フィオナが訊く。
「この仕事を始めて最初にもらった、検査札です」
机へ置く。
「見習いのころ、これを提げて水門を回りました。規格が変わって、今はもう使っていません」
「捨てなかったんですね」
「なんか、こう捨てられなくて」
言ってから、少しだけ笑った。
「……違うかな。捨てたくなかったんです」
指で拭っても、黒ずみは落ちない。水門の水に濡れ、油に汚れ、胸元の紐に何度も擦れた跡だ。きれいな贈り物ではない。けれど、いまのノアさんが毎日触れている仕事の、いちばん古い入口だった。
「セレナは、僕の仕事を見たことがないんです」
ノアさんが言う。
「僕も、セレナの窓も、水路も、ちゃんと見ていない」
セレナさんのことは、何も知らない。ノアさんが何通手紙を書いたのかも、二人がどこで出会ったのかも、聞いていない。それでも、いまノアさんが選ぼうとしているものだけは分かった。銀の首飾りに、もっと高価なものを返そうとしているのではない。欠けた貝殻に、同じだけ生活で傷ついたものを――自分のいちばん古い仕事の跡を、並べて返そうとしている。
真鍮札を、箱の横へ置く。まだ、入れない。
「これを入れて、いいのか……」
「汚れを落とすなら、乾いた布で」
フィオナが言う。
「ぴかぴかにしすぎても、良くはなさそうですし」
ノアさんが、フィオナを見た。
「そう、そう、ですね」
「落としたいなら落としても構いませんよ? でも、私なら、そのままが嬉しい」
少し考えて、フィオナは道具箱から柔らかい布を出した。
真鍮札を受け取ったフィオナが、机の隅で丁寧に拭きはじめる。水草糸に触れないよう、布の繊維が落ちないよう、何度も向きを変えながら。
その間、ノアさんは封筒を見ていた。あの手紙は、と訊きかけて、やめる。こちらが訊くことではない。けれど、ノアさんは自分から封筒を手に取った。
「これは、持って帰ります」
「送らないんですか」
「今は」
封筒の角を、親指で押さえる。
「これを書いたとき、僕は何も知らなかった。何も、考えていなかった」
厚い紙は、よく乾いている。湿った水門の部屋で、その封筒だけが少し場違いに見えた。
「だから、このまま送るのは、違う気がして」
封筒を机の引き出しへ入れようとして、ノアさんは一度手を止めた。そこは、濡れた検査票の入った引き出しだった。別の引き出しを開け、乾いた布を敷いて、その上へ封筒を置く。捨てるのでも、破るのでもない。ただ、箱とは別の場所へしまった。フィオナはそれを見ていたが、何も言わなかった。
「できました」
フィオナが真鍮札を返す。黒ずみは残っている。それでも表面の油と砂は落ちて、古い番号がはっきり読めるようになっていた。
ノアさんは札を受け取り、小さく息を吐いて、銀の首飾りと欠けた貝殻の横へ置いた。水位標の首飾り、欠けた貝殻、古い検査札。三つが並ぶと、箱の中は贈り物というより、小さな水辺の棚のように見えた。
フィオナは現物の糸に触れる前に、もう一度、練習布で手順をなぞった。元の輪は締めない。その輪へ新しい細い水草糸を通し、箱の上部へ戻す。上書きではなく、足すだけ。水路へ新しい支流を一本つなぐような結びだった。
終わるまで、ノアさんは黙って見ていた。箱の底も、輪の戻りも、フィオナの指先も、目を逸らさずに。見れば別の意味が浮かんでくる――そのことを、もう避けなかった。
夜明け前、第二水門の第一便が動いた。積み荷を一割落とした鉱石船が、仮復旧した風牽きを受けて門を通る。船腹は石壁に触れず、そのまま下流へ抜けていった。ノアさんは通過時刻を検査帳へ書き込み、船頭から受け取った確認札を腰の革具へ収める。それから、管理棟の棚の木箱へ目をやった。フィオナの保全札は、まだ正常の色を保っている。
「朝のヴェルナ便に載せられます」
アデルからの経路確認が、支局経由で届いていた。夜のうちに変更照会が入り、第二水門の仮復旧を受けて、ヴェルナ方面の第一便は一時間遅れで出ることになったらしい。追記は、短かった。
――一時間ある。落ち着いて包んで。
「アデルさんって、こういう人なんですね」
ノアさんが言う。
「勘違いされやすい、そういう人だよ」
小声でそう、呟いた。フィオナがニヤニヤしながらこちらを見ている。だから、嫌なんだ。特別何も言わず、それでも表情はムカつく笑みを浮かべたまま、包みを最後にもう一度確かめている。
「これで大丈夫。あとは、濡らさない、乾かしすぎない、落とさない」
「難しいものですね」
「大事なものは、だいたい難しいです」
箱を、ノアさんへ渡す。両手で受け取るその持ち方が、昨日とは少し変わっていた。重さを量るのではなく、中のものがずれないように。水門検査員が、測針を扱うときの手つきに似ていた。
「セレナさんへの手紙は」
ノアさんは、首を横に振った。
「入れていません」
それから、少しだけ足す。
「すこし、時間が欲しくて」
箱へ目を落とす。
「首飾りと、貝殻と、検査札を」
それ以上は、言わなかった。それで、十分だよ。
連絡艇の汽笛が鳴った。ヴェルナへ向かう第一便が、水門下の桟橋へ入ってくる。ノアさんと並んで、桟橋へ下りた。空はまだ薄暗く、水面だけが朝の光を先に拾っている。
受付の前で、ノアさんが木箱を差し出す。今度は、途中で手が止まらなかった。係員が返礼便の札を確かめ、発送印を押す。乾いた音が、桟橋に短く響いた。ノアさんは、その音を最後まで聞いていた。
木箱は係員の手へ渡り、ヴェルナ便の湿度管理棚へ収められる。扉が閉まり、ノアさんの手から箱が離れた。
水門の上から、仮復旧した風牽きが鳴っている。細く、頼りない。連絡艇がゆっくりと桟橋を離れる。ノアさんは、その船が水門を抜けていくまで、ずっと見送っていた。どうか、お気をつけて。




