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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter8 贈る手紙
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彼の仕事

 ノアさんは短くうなずいて、門の側面を降りていった。途中の足場で止まり、片手で縄を握ったまま、もう片方の手だけで石組みの隙間へ測針を差し込む。


 頬に水飛沫がかかっても、拭わない。門の内で船頭が貨物艇を押さえ、作業員が下流側の綱を取り直す。その全部を目の端に入れながら、彼は数字だけを読んでいた。


「二番補助弁、半分閉じてください」


 声が上がると、下の作業員が返事をして、鉄の弁を回す。風牽きの音が変わる。

 一度目、二度目――そして三度目は、やはり途中で薄くなる。


「もう一段」


 弁が回る。今度は二度目の風が強すぎた。貨物艇の布がばたつき、船頭が怒鳴る。


「戻して。強すぎます」


 ノアさんの指示が、すぐに切り替わる。


「三番の風標、角度を一つ寝かせて。四番は触らないで」


 作業員が走った。


 フィオナは濡れた石段の上で、ノアさんの上着を抱えて立っていた。水飛沫が飛ぶたび、上着だけをそっと後ろへ引く。


「それ、下がって持ってていいよ」


「濡らしたくないので、ここで」


 言ってから、フィオナはこちらを見た。


「リンこそ下がって。さっきから、縁に寄りすぎ」


 足元を見ると、たしかに爪先が、濡れた石の縁ギリギリだ。半歩だけ、下がる。落ちたら、一溜まりもないないよね。さすがに。


 その間も、ノアさんは門の側面で手を動かしつづけている。濡れるのを気にしていないのではなくて、濡れてでも、見なければならないものから目を離さないだけなんだろう。


 水位板の目盛、風標の角度、弁の回る音、船体の揺れ――自分の仕事に関わるものなら、この人はこんなにも細かく拾う。


 だから、なおさら分からなくなる。それだけ見える目を持った人が、箱の底の戻り結びも、欠けた貝殻も見なかった事が。


 鈍かったわけじゃないんだよね、たぶん。見たくなかったんだ。返された、と思い込んだその一瞬から先を覗けば、そこに別の意味が浮かんでしまう。首飾りが戻ってきた、それだけにしておいたほうが、まだ楽だったから。


 そのとき、三度目の風牽きが鳴った。細く、頼りない音。けれど今度は、途中で消えなかった。門の中央を越え、船体の上を撫でて、下流側へ抜けていく。貨物艇がわずかに揺れて――それきり、横へは流れなかった。綱を握ったまま、船頭がノアさんを見上げる。


「いけるか」


「軽い荷なら」


 ノアさんが答える。


「朝の鉱石船は、積み荷を一割落としてください。直りきるまでは、それで」


「一割もか」


「船腹を擦るより、安い」


 船頭は何か言いかけ、結局、口をつぐんだ。


 ノアさんが門の側面から上がってくる。袖は濡れ、髪にも水滴が光っている。それでも検査帳だけは濡れていなかった。革の覆いをかけ、胸元へしっかりしまってある。


 フィオナが上着を差し出した。


「先に、袖を拭いて」


「それより、帳面を」


「帳面は無事です。濡れた袖のまま着たら、内側の書類まで湿る」


 ノアさんが、少し目を瞬かせた。それから素直に布を受け取って、袖を拭く。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 フィオナは上着の縫い目をひととおり確かめてから、渡した。


 羽織りながら、ノアさんは袖口の徽章へ目を落とした。水位標をかたどった銀糸が、少し曇っている。親指の腹で、軽く拭う。それから、管理棟のほうへ視線を向けた。乾かない包みを置いてきた、あの棚のほうへ。


「僕は」


 小さな声だった。


「未熟者でした」


 どうして、そこまで。思いはすれど、声にはならなかった。


 借りた布を畳みながら、ノアさんが続ける。


「もう少し、勇気を持てさえすれば」


 水門の上で、風牽きがもう一度鳴った。仮復旧した細い風が、門の中央を越えていく。ノアさんはその音を聞いていた。自分の仕事の音として――そして、何かを決める手前の音として。


「検査を終えたら、家へ戻ります」


 棚のほうへ目を向けたまま、言う。


「箱も、持って帰る?」


「はい。……こういうのは、水門の上で決めるものじゃなさそうなので」


「それは、本当にそう!」


 フィオナがすぐに引き取った。


「水飛沫があるから?」


「リン、さすがにぶん殴るよ?」


 ノアさんが、少しだけ笑う。私は少し肩を小さくする。むぅ。


「大事な、理由があるんです」


 水門の下で、貨物艇がゆっくりと動き出す。門は、完全には直っていない。風の消える場所も、その理由も、まだ分からないままだ。それでも、今夜どうしても通したい船は、ひとまず通せる。


 ノアさんは検査帳へ仮復旧の時刻を書き入れ、最後に小さな印を押した。その印だけが、ほかの文字より少し深く、紙へ沈んでいた。


 検査がすべて終わったのは、夜がすっかり更けてからだった。第二水門の貨物灯はまだ点いていて、仮復旧した風牽きが細い音を立てるたび、水面の灯りがわずかに揺れる。最後の貨物艇を通し終えると、ノアさんは検査帳を閉じた。


「朝までは持ちます」


「本当に直るのは」


「原因が分かるまでは、無理です」


 門の中央へ目をやる。


「一度、風牽きの石組みを開けないと。……たぶん、開けても、壊れた部品なんて出てきませんけど」


 言ってから、少し顔をしかめた。自分の言ったことに、自分で納得していない顔だった。壊れていないのに、動かない。詰まっていないのに、届かない。そういう不調が、この人にはいちばん薄気味が悪いのかもしれない。


 管理棟へ戻ると、フィオナが真っ先に包みへ寄った。棚の木箱は、湿度札の色をわずかに変えていたものの、包み布は保っている。水草糸はまだ淡く光り、底の戻り結びも緩んでいない。


「ぎりぎり、大丈夫」


「ぎりぎり」


 ノアさんが繰り返す。


「水門の風が強かったから。これ以上ここに置くなら、覆いを足します」


「持ち帰ります」


 迷いは、まだ残っていた。それでも今度は、箱から目を逸らしてはいなかった。


「家、近いの?」


「歩いて十分ほど。検査員宿舎の、二階で」


「箱、運ぶの手伝う?」


「いえ、自分で――」


 言いかけて、ノアさんがフィオナを見た。フィオナは黙って、保全箱の持ち手を確かめている。


「……自分で持ちます。傾けないように」


「はい。底をぶつけない。布は押さえない。火のそばに置かない。階段は、片手で手すり、片手で箱」


「なかなか難しい要求をしますね!?」


「だから、急がないでください」


 ノアさんが、少しだけ笑った。


「分かりました」

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