彼の仕事
ノアさんは短くうなずいて、門の側面を降りていった。途中の足場で止まり、片手で縄を握ったまま、もう片方の手だけで石組みの隙間へ測針を差し込む。
頬に水飛沫がかかっても、拭わない。門の内で船頭が貨物艇を押さえ、作業員が下流側の綱を取り直す。その全部を目の端に入れながら、彼は数字だけを読んでいた。
「二番補助弁、半分閉じてください」
声が上がると、下の作業員が返事をして、鉄の弁を回す。風牽きの音が変わる。
一度目、二度目――そして三度目は、やはり途中で薄くなる。
「もう一段」
弁が回る。今度は二度目の風が強すぎた。貨物艇の布がばたつき、船頭が怒鳴る。
「戻して。強すぎます」
ノアさんの指示が、すぐに切り替わる。
「三番の風標、角度を一つ寝かせて。四番は触らないで」
作業員が走った。
フィオナは濡れた石段の上で、ノアさんの上着を抱えて立っていた。水飛沫が飛ぶたび、上着だけをそっと後ろへ引く。
「それ、下がって持ってていいよ」
「濡らしたくないので、ここで」
言ってから、フィオナはこちらを見た。
「リンこそ下がって。さっきから、縁に寄りすぎ」
足元を見ると、たしかに爪先が、濡れた石の縁ギリギリだ。半歩だけ、下がる。落ちたら、一溜まりもないないよね。さすがに。
その間も、ノアさんは門の側面で手を動かしつづけている。濡れるのを気にしていないのではなくて、濡れてでも、見なければならないものから目を離さないだけなんだろう。
水位板の目盛、風標の角度、弁の回る音、船体の揺れ――自分の仕事に関わるものなら、この人はこんなにも細かく拾う。
だから、なおさら分からなくなる。それだけ見える目を持った人が、箱の底の戻り結びも、欠けた貝殻も見なかった事が。
鈍かったわけじゃないんだよね、たぶん。見たくなかったんだ。返された、と思い込んだその一瞬から先を覗けば、そこに別の意味が浮かんでしまう。首飾りが戻ってきた、それだけにしておいたほうが、まだ楽だったから。
そのとき、三度目の風牽きが鳴った。細く、頼りない音。けれど今度は、途中で消えなかった。門の中央を越え、船体の上を撫でて、下流側へ抜けていく。貨物艇がわずかに揺れて――それきり、横へは流れなかった。綱を握ったまま、船頭がノアさんを見上げる。
「いけるか」
「軽い荷なら」
ノアさんが答える。
「朝の鉱石船は、積み荷を一割落としてください。直りきるまでは、それで」
「一割もか」
「船腹を擦るより、安い」
船頭は何か言いかけ、結局、口をつぐんだ。
ノアさんが門の側面から上がってくる。袖は濡れ、髪にも水滴が光っている。それでも検査帳だけは濡れていなかった。革の覆いをかけ、胸元へしっかりしまってある。
フィオナが上着を差し出した。
「先に、袖を拭いて」
「それより、帳面を」
「帳面は無事です。濡れた袖のまま着たら、内側の書類まで湿る」
ノアさんが、少し目を瞬かせた。それから素直に布を受け取って、袖を拭く。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
フィオナは上着の縫い目をひととおり確かめてから、渡した。
羽織りながら、ノアさんは袖口の徽章へ目を落とした。水位標をかたどった銀糸が、少し曇っている。親指の腹で、軽く拭う。それから、管理棟のほうへ視線を向けた。乾かない包みを置いてきた、あの棚のほうへ。
「僕は」
小さな声だった。
「未熟者でした」
どうして、そこまで。思いはすれど、声にはならなかった。
借りた布を畳みながら、ノアさんが続ける。
「もう少し、勇気を持てさえすれば」
水門の上で、風牽きがもう一度鳴った。仮復旧した細い風が、門の中央を越えていく。ノアさんはその音を聞いていた。自分の仕事の音として――そして、何かを決める手前の音として。
「検査を終えたら、家へ戻ります」
棚のほうへ目を向けたまま、言う。
「箱も、持って帰る?」
「はい。……こういうのは、水門の上で決めるものじゃなさそうなので」
「それは、本当にそう!」
フィオナがすぐに引き取った。
「水飛沫があるから?」
「リン、さすがにぶん殴るよ?」
ノアさんが、少しだけ笑う。私は少し肩を小さくする。むぅ。
「大事な、理由があるんです」
水門の下で、貨物艇がゆっくりと動き出す。門は、完全には直っていない。風の消える場所も、その理由も、まだ分からないままだ。それでも、今夜どうしても通したい船は、ひとまず通せる。
ノアさんは検査帳へ仮復旧の時刻を書き入れ、最後に小さな印を押した。その印だけが、ほかの文字より少し深く、紙へ沈んでいた。
検査がすべて終わったのは、夜がすっかり更けてからだった。第二水門の貨物灯はまだ点いていて、仮復旧した風牽きが細い音を立てるたび、水面の灯りがわずかに揺れる。最後の貨物艇を通し終えると、ノアさんは検査帳を閉じた。
「朝までは持ちます」
「本当に直るのは」
「原因が分かるまでは、無理です」
門の中央へ目をやる。
「一度、風牽きの石組みを開けないと。……たぶん、開けても、壊れた部品なんて出てきませんけど」
言ってから、少し顔をしかめた。自分の言ったことに、自分で納得していない顔だった。壊れていないのに、動かない。詰まっていないのに、届かない。そういう不調が、この人にはいちばん薄気味が悪いのかもしれない。
管理棟へ戻ると、フィオナが真っ先に包みへ寄った。棚の木箱は、湿度札の色をわずかに変えていたものの、包み布は保っている。水草糸はまだ淡く光り、底の戻り結びも緩んでいない。
「ぎりぎり、大丈夫」
「ぎりぎり」
ノアさんが繰り返す。
「水門の風が強かったから。これ以上ここに置くなら、覆いを足します」
「持ち帰ります」
迷いは、まだ残っていた。それでも今度は、箱から目を逸らしてはいなかった。
「家、近いの?」
「歩いて十分ほど。検査員宿舎の、二階で」
「箱、運ぶの手伝う?」
「いえ、自分で――」
言いかけて、ノアさんがフィオナを見た。フィオナは黙って、保全箱の持ち手を確かめている。
「……自分で持ちます。傾けないように」
「はい。底をぶつけない。布は押さえない。火のそばに置かない。階段は、片手で手すり、片手で箱」
「なかなか難しい要求をしますね!?」
「だから、急がないでください」
ノアさんが、少しだけ笑った。
「分かりました」




