水門の風
第二水門は、ラッセの市街から少し下った、運河の曲がりに据えられていた。日が落ちる前の水面は鉛色に鈍く光り、両岸の倉庫にはもう貨物灯がともっている。
細長い連絡艇が灯りの帯を裂いて滑り、岸壁に積まれた樽や木箱のあいだを、作業員たちが足早に行き交っていた。
フィオナと管理棟へ着いたとき、ノアさんはもう外套を脱いでいた。白い検査服の袖を肘までまくり、片手に水位板、もう片手に古い真鍮の測針。昼間、封筒の前でうつむいていた男とは、動きの速さがまるで違った。
配達物は、管理棟の奥に置かれていた。火鉢からも窓からも離した棚の上、下にはフィオナが渡した防湿敷きが敷いてある。言われたとおりの場所だった。
「大丈夫そう?」
「えっと、これは、大丈夫といえるん、ですかね……?」
フィオナは包み布に触れず、湿度札の確認するためにしゃがみ込む。
「少し、乾きが早いかも。でも、そこまで心配するほどじゃないかな」
門の向こうでは、上流から来た小型貨物艇が一隻、水位の変わるのを待っている。船頭が、落ち着かない目でこちらを窺っていた。
石造りの門の上部には、目を凝らしても見ることはできないが、細い風の道が、幾本も渡されているように感じる。水位が動くあいだ、船が揺れすぎないよう門の内で風を引き、流れを均すためのもので。ラッセの人たちはそれを風牽きと呼ぶんだそう。見上げても、あるのは薄暗い石の稜線だけ。それでも耳には届く。細い弦を指で弾いたような音が、水面の上で低く、絶えず唸りをあげている。
「風牽きの不調って、具体的には」
水位板を門の脇へ差し込みながら、ノアさんが答える。
「本来なら、上流の水を落とす前に、門内の風が三回、こう、なんていうんでしょう引くんです。一回目で船体を中央へ寄せて、二回目で間を合わせて、三回目で下流側の風と合わせる」
「いまは」
「二回目までは何とか。三回目がどうもうまくいかなくて」
目盛を読み、記録帳へ数字を落とす。
「風が合わなくて、どうしても門を超えられない」
「うーん、多少ずれても強引に」
「朝の便は鉱石を積んでることがおおいから、横に触れるとそのまま制御を失いやすい」
ノアさんが門の上へ向かい、あとに続く。石段は濡れて、手すりには水草が薄く絡み、踏み面には古い藻が黒く固まっていた。管理棟に箱を置いてきたフィオナが、それでも足元の水気に眉を寄せる。
「嫌な階段」
その道具箱を、代わりに少し持ち上げて運んでやった。歩きづらいが、仕方がない。
門の上に出ると、運河がひと続きに見渡せた。上流側には倉庫街の灯り、下流側には、ヴェルナへ向かう夜間河川便の発着場。水面へ細長く伸びた光が、風のたびに割れては、また繋がる。
彼が門の中央で膝をつき、石の隙間へ測針を差し入れる。耳を澄ますその横で、こちらも風を探った。
一度目。門の上部を細い風が滑り、低い音が水面へ落ちる。待機していた貨物艇が、ゆっくりと中央へ引き寄せられた。
二度目。今度は少し深い音。荷台にかけられた布が一度揺れて、すぐに収まる。
三度目が、来るはずだった。息を止めて、その風を待つ。彼の、測針を握る手にも力がこもる。――けれど音は、門の中央まで来て途切れた。鳴りかけた弦を、そのまま水へ沈めたように。船体がわずかに横へ滑り、船頭が舌打ちして綱を引く。
「やっぱ、だめか」
「風標は」
「三番と四番を、点検しましたが異常はなし、これでは、どうにも」
門の端へ歩いた彼が、低い柱の小さな羽根板を示す。風標はどれもきちんと動いていた。上流の羽根も下流の羽根も同じ方向を向き、壊れても、水飛沫で重くなってもいない。
「石組みに亀裂は」
「ありません。昨日の昼、潜って確かめました」
なんでもないことのように言うじゃん。昼間、封筒を外套へしまい込んだ男と同じ人とは思えない。
門の中央へ寄り、水面の上へ手をかざした。この風牽きは、いつもの風路よりずっと細い。それでも、私なら。
一度目と二度目の通り道は、門の上にまだ薄く残っていそうだ。問題の下流は、途中まではある。門の右から中央へ入り、船体を撫でる直前で、ふっと薄くなって――消える。
顔を上げると、砂海と似てる、と口をついて出ていた。言ってから、自分で少し驚く。
「砂海?」
「最近、別の場所で似た消え方を見たんです。規模は違うんですけど。でも――」
そこで、少し言葉に迷う。
「風が曲がったなら、まわりにずれが……残るんです。詰まったなら、押し返しがあって。でも、これは、途中から先だけが、ない」
「続けてください」
彼の検査帳へ走らせる手は速い。数字と略号が、迷いなく紙の上へ並んでいく。
フィオナは少し離れて、道具箱を濡れない段へ移していた。
「なんとか、なりそうですか」
「どうでしょう。仮復旧までできれば、御の字でしょうか」
門の下を覗き込みながら、彼が言う。
「二度目のタイミングを合わせるのを省略すれば、あるいは、くらいですね」
「……危険じゃない?」
「それでも、やるしかなさそうなので」
門の横に掛かっていた作業縄を取り、腰へ結ぶ。半分まで降ります、と言い添えて、手すりに縄を固定した。




