欠けた貝殻
ノア・ベルグは第四支局へ現れた。夕方の河川便が入る少し前に。呼び出し記録にある「河港都市ラッセの水門検査員」という肩書きにしては、若く見える。おそらく、私とそんな変わらなそうだ。
支給品らしい濃紺の外套の袖口に、水位標を模した銀の徽章が縫いつけられている。その裾には泥がこびりつき、髪はまだ湿っている。道具を置く間もなく駆けてきたのかな。
「ノア・ベルグです」
名乗った声はしっかりしていた。けれど受付で名を告げたその目が、保全室の木箱を見つけた瞬間に揺れる。驚きと言うよりは。見たくないものをみてしまった、そんな風に見える。
「これ、どこで」
「うちで偶々保護することになってな。」
支局長が答える。
「登録手続きが終わる前に転送経路へ引き込まれたようだが、正式な郵便物としては、まだ受付前になる」
「……送られていない」
ノアの視線が、木箱の上に固定された封筒へ移る。自分で封をしたはずの手紙に、発送印はまだ押されていない。届いていない。その事実が、ほっとしたような、それでいて逃げ場をなくしたような色を、彼の顔に同時に浮かべさせた。
「……返してください」
「その前に、確認を少し」
エルナさんが割って入る。
「この木箱は、ヴェルナ側の申告では返礼品となっていたみたいですが」
「返礼?」
ノアさんの声が、ほんのわずかに上ずる。
「中身は、僕が送った首飾りのはず。それがなぜ、礼になるんです」
言葉そのものは落ち着いていた。落ち着かせようとしている、とわかるだけ、よけいに危うい。少し、後味が悪いように思える。
フィオナが木箱を保全板へ移し、底を映すための鏡を横に置いた。
「ノアさん。受け取ったとき、箱の底は確かめました? 持ち上げて、こう、裏側を」
「……いえ」
うつむいているからか、少しくぐもって聞こえる。もう少し、シャンとしてほしいものである。
「水気があったので、急いで上だけ開けました。首飾りが戻ってきたと分かって、それで」
「では、一緒に見てみませんか」
フィオナが静かに言い直す。その音は優しい。凍てついた心を溶かしてくれるだろうか。少し、期待してしまう。
「布の中に水草糸が織り込んであるんです。乾かないように作ってある。中身を守る梱包でもありますが、底の結び目を見るかぎり、それだけではないんです」
ノアさんが鏡を覗き込む。底の中央で締め切られずに戻る、水草糸の輪。眉が寄った。
「これは……」
「ご存じですか」
「いえ」
首を振る。
「最初は、ヴェルナの水路用の梱包なのかなって。でも、結び目の意味まではわからなくて」
そこへアデルが、年配の女を一人連れて保全室へ入ってきた。濡れた麻の外套、手には河川便の荷札束。
「ヴェルナ南水路の交換官、リオラさんです。結び目の一般的な意味だけ、確かめに来てもらいました」
リオラさんは木箱を一目見るなり、表情を引き締めた。
「底を、見せて」
フィオナが鏡の角度を変える。それを確認して、彼女は身をかがめ、輪を覗き込んで、すぐに言った。
「戻り結び、ですね」
「戻り、結び」
「ええ。」
リオラさんは手袋のまま、輪には触れず、指先で宙にその形をなぞってみせた。
「水路の家が古くから使う、返礼の結びです。受け取ったものに自分の品を添えて返す。けれどそこで終わりにするのではなく――もう一度こちらへ戻してほしい」
「え、ええと?」
「輪を締め切らないのは、そのため。水は出て、また戻る。船も出て、また戻る。だから品物も、一度きりでは終わらせない」
「その、意味が良く」
リオラさんは彼を見た。
「この結びをした方は、突き返したわけじゃなくて。丁寧に、礼を尽くされたんだと、思います」
ノアさんの手が、外套の裾をつかんだ。泥の乾いた布が、指の中でくしゃりと皺になる。
「でも、首飾りは! 俺が送ったのは、俺の手に戻ってきたんだ」
「それで、さっき話した底の仕掛けです!」
フィオナが丁寧に少しずつ、包みをほどいていく。優しく、やわらかく。
「……ありました」
やがて、絞り出すように言う。
「欠けた貝殻、でしょうか?」
リオラさんは少し驚いたように口元を両手で抑える。何か、特別な意味でも……。
「あら」
「えっと、これはどうすれば」
「うふふ、随分、大切な人なんですね」
「……わかるように、答えてくださいよ!」
わお、そんな声も出るんだ。
「手紙も、なくて! 折角準備した首飾りが戻ってきて! 突き返されたようにしか見えなくても、仕方ないだろ……!」
「……ごめんなさい、浮ついてしまったわ」
「わからないんだ。だから、教えてくれよ。何か、俺にもわかる方法で……!」
その言葉は、とても痛い。たぶんその言葉の矛先は、差出人に向いていないと思うから。
「俺は、返されたんだと思って」
封筒へ落とした視線が、動かなくなる。
「もう、書いちゃったじゃないか。『返してくれてありがとう。これきりにするよ』って」
保全室の空気が、冷えきっていくのが分かる。封筒の白い面が、折り目を美しくそろえられている。怒りに任せたわけじゃ、ない。むしろ丁寧すぎるほど、角まできっちりと。傷ついた人間が、傷ついていないふりのまま話を終わらせようとして書いた手紙は、いつもこういう顔をしている。
《《たいへん、よろしくない》》
「まだ送られていません」
エルナさんが、宥めるように声をかける。そうだ。わからなかったから、間違えちゃっただけなんだ。
「その、まだ、間に合います。」
うまく言えないけど。まだ、間に合うんだ。
ノアさんは、しばらく封筒を見つめていた。そのすぐ横に、木箱がある。乾かない布、底で戻る水草糸、欠けた貝殻――言葉にならなかったものたちが、彼の前に静かに並んでいた。
「少し、よろしいでしょうか」
ばつが悪そうに、リオラさんが申し出る。
「それ、完成させちゃいませんか」
「完成?」
ノアが顔を上げた。
「えっと、戻り結びは、中へ何を入れて返すかで意味がその、変わるんです。首飾りをそのまま戻すのか、貝殻を返すのか、別のものを添えるのか」
リオラさんはなるべく、わかりやすい言葉を選んでいるように思えた。先ほどの剣幕を見たら、そりゃ、そうなる。
「それぞれ、どんな意味があるかは、お話します。でも、中に何を入れるかは……」
その沈黙に、フィオナの手がようやく止まる。道具を置き、結び目から目を上げて――このとき初めて、彼女は箱ではなくノアさん自身を見た。
「ただ、このまま乾けば布は縮みます。今日のうちに決めてほしいんです」
「今日のうち……」
「このまま、無かったことには、したくない」
ノアさんの目が、自分の袖口へ落ちた。水門検査員の徽章。水位標をかたどった銀糸が、傾いた陽に鈍く光る。
「――今夜、第二水門の検査があるんです」
「お仕事、ですか~……」
「風牽きの調子が悪いと報告がありました。水位が下がる前に見ておかないと、朝いちばんの貨物艇を止めてしまう」
「箱は」
ノアは木箱へ目をやったまま、すぐには答えなかった。仕事を放り出してヴェルナへ発つわけにはいかない。かといって、この箱をただ送り直すことも、もう、できはしない。その板挟みが、彼の肩に重たそうに載っていた。
「第二水門は、ヴェルナ方面の河川便も通ったはず」
アデルが運航表を開いた。
「夜の検査のあとなら、明朝の第一便に間に合うかもしれない。箱をどうするかは、それまでに決めれば」
「風牽きが直れば、でしょう」
「そうです」
ノアが、少しだけ苦く笑った。
「郵便まで、水門待ちなんですね」
「まぁ、それがウリですし」
「……分かりました」
ノアが、封筒へ手を伸ばす。破りもせず、開きもせず、ただ外套の内側へそっとしまった。
「この手紙は、いったん持ち帰ります」
「受付は、取り消しになるが、いいのか」
支局長が訊く。
「はい。……まだ、送るものではなかったみたいです」
その言い方には、照れと後悔が、少しずつ混じっていた。
「この箱は、家へ持ち帰れますか」
フィオナが保全板へ目を落とす。
「湿度を保てる箱に移します。持ち帰ったら、火の近くと窓際は避けて。布は外さない。底の結び目にも触らない。――それから、貝殻を入れ直すなら、布の上へ直接は置かないで。水草糸に塩が移ると、縮み方が変わります」
「難しいですね」
彼は、少し困ったように笑う。何をへらへらしとるか、この朴念仁め。
「だから、分からなくなったら呼んでください」
分からなくなったら呼べ、と言うために、これだけの手間を並べるのは、本当にフィオナらしい。おかしくて、少しあたたかい。彼女がこちらへ視線を寄越し、それきり何も言わずに手を戻した。
保全箱へ木箱を移し、湿度札を差し込む。ノアは、それを両手で受け取った。重い箱ではない。それでも、軽々とは持てない箱だった。
ノアが支局を出ていくと、アデルは運航表へ視線を戻したまま言った。
「今夜、第二水門へ行くなら、リンも一緒に」
「私が?」
「風牽きの不調なら、役に立つ」
「同行の確認を取ります」
エルナさんがすぐに支局長をみる。静かに頷いた。どうやら、問題はないらしい。それはそれで、なんか、こう、かなしい。
「フィオナさんも行けますか」
「もちろん」
道具箱を閉じながら、フィオナが付け足す。
「、と言うか、リンだけじゃ万が一が怖いので、そうしてください」
否定は、できない。できないが。不愉快ではある。
「ノアさんへは支局から連絡を入れておく。同行の名目は、風牽き確認と保全補助だ」
「今夜は南西便が三本動く。ヴェルナ方面で変更照会が来たら、第四で経路を組み直す人がいる」
「任せた」
アデルは、運航表から目を上げずに返した。
「そっちも。水に落ちないで」
フィオナが道具箱を肩へ担ぐ。
「箱を落とさないで。それから、リンも」
「順番、最後なんだ」
「リンは自分で浮くけど、濡れた書類は浮かないかんね」
エルナさんが、小さく咳払いをした。
「支度を。第二水門までは、日が落ちる前に着いておきたいので」
その声にうなずいて、窓の外を見る。河川便の汽笛が、暮れかけた水面の上で長く尾を引いていた。
乾かない包みは、いまごろノアの腕の中にある。発送印のない手紙は、その外套の内側にある。それをどう扱うかは、今夜、暗い水門を越えた向こうでようやく決まる。




