結び直した紐
翌朝、黄角羊の隊は日の出より早く動き始めた。
砂海の朝は冷える。
夜の間に岩へ溜まった冷気が足元へ残り、吐く息が白くなるほどではないのに、指先だけが妙にかじかんだ。羊たちは低く鳴きながら身を寄せ合い、子どもたちは眠そうな顔で毛布を畳んでいる。
火を消す者。
灰を砂へならす者。
水袋を荷車へ積む者。
病人の寝床を揺れにくい位置へ移す者。
隊長はその中心を歩いていた。
声を荒げることはない。けれど、誰が何をすればいいかは、彼女が一番早く見ているんだと思う。ここまでできるようになるのに、どれだけの時間がかかったんだろう。
「その車は後ろへ。砂が深くなったら羊を二頭足して」
「北の尾根は越えません。日影の多い谷を回る予定に」
「水袋を三つ、先頭へ。子どもたちには今のうちに飲ませてください」
指示を出すたび、腰の青い紐が揺れる。
マリヤさんは何も答えてはくれなかった。
いったい何を聞いて、何を思ったのか、それはわからない。それでも。
「リン」
アデルが小声で呼んだ。
「羊、そっち行った」
「ん、うえっ」
私が振り返ると、黄角羊が一頭、のんびりした顔で荷車の脇を抜けようとしていた。
「待って、そっちはだめ、ちょっ……」
リンは慌てて前へ回った。
だが羊は止まらない。むしろ、自分を面倒くさそうに避けて進む。
昨日の子どもが、遠くからため息をついた。
「前に立たないでって言ったのに~!」
仰る通りでして。
私が素直に下がると、子どもは縄を手に駆け寄り、羊の首を軽く叩いた。
羊はようやく進路を変える。アデルが横で笑いをこらえている。
「陸上だと本当に頼りないよね」
「……うっさい!」
ニヤニヤしながら纏わりつくアデルを振り払う。もう、誰しも得手不得手はあるだろうに。
周囲を見渡すと、マリヤさんがこちらを見ている。少しだけ、口元が動いた気がした。
隊が出発する前、マリヤさんは私たちを岩陰の端にくるように、と呼びだした。
そこからは、今日向かう谷筋が見える。砂丘の稜線が朝日に照らされ、薄い金色の道のように伸びている。綺麗だな、と思った。
「ここからなら、迷いづらいかと」
マリヤさんは細い杖で砂の上に線を引いた。
「恐らく、この様に戻られれば、よろしいかと」
アデルがその線を覗き込む。
「西へ回る?」
「はい。岩の影を三つ越えてから南へ」
「……分かりました。」
アデルは木板の空いたところに書き込んだ。ハサンさんに貰った板に、マリヤさんの道が足されていく。配達のために作られた一枚の薄い地図が、少しずつこの土地の生活を含んでいく。
「……その板、ハサンが?」
「はい。昨日、私たちに渡してくれました」
「なら、持って帰ってください」
「あ、そうじゃん、渡すように言われてたんだった」
アデルも私とさほど変わらないじゃないか。どうやら、視線で伝わったようだ。
「リンよりはまし」
マリヤさんはアデルの持つ木板を見ながら、
「私たちは空を飛びませんから」
とだけ言った。空を飛ばないのに、風路に詳しいのは、何故だろうか。聞いてみたいとも思ったが、今ではない。なんか、そう思う。
アデルは少し迷ったようにもみえてけど、それらを飲み込んだのか、うなずいた。
「分かりました。ハサンさんに返します」
「お願いします」
マリヤさんは私へ向き直る。その瞳に宿る揺れ。うまく、言葉にならない。
「昨日の言葉も」
「次に送るなら、窓の話をして」
「はい」
短いやり取りだった。けれど、マリヤさんはそれ以上を求めていなかったんだと思う。何か、追加があったのだとしたら、申し訳ないけれど。
私は背筋を伸ばした。
「必ず、届けます」
マリヤさんはうなずき、腰の青い紐に手を置いた。
結び目を確かめるように、指で一度だけ触れる。
「ハサンには、もう一つ」
「はい」
「腕を治してから、砂海へ戻れと。申し訳ないと思うなら、尚更、ね」
「伝えます」
マリヤさんはそれで背を向けたまま、手を振った。 羊の群れへ戻り、若い男へ何かを言い、荷車の横を歩く老人へ手を貸す。
その背中を見届けてから、箒へ跨った。
「行こう」
「うん」
高くは飛ばない。
マリヤさんが教えてくれた岩の影を辿り、風に砂を取られない高さで進む。
振り返ると、黄角羊の隊が動き出していた。
砂色の天幕が畳まれ、荷車が軋み、羊たちがゆっくり谷へ入っていく。
空から見れば、小さな列に過ぎない。けれど、私にはもう、それがただの点には見えなかった。
水を選び、影を選び、羊を休ませ、病人を運び、子どもを叱りながら進む人々の道だ。
マリヤさんは、その先頭と後方を行き来しながら、隊を連れて歩いているのだろう。少し、鼻の奥がツンとした。
カルファ交換所へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
砂海の熱はすでに強く、外壁の内側へ降りても、石床から熱が立ち上ってくる。
私たちが発着場へ入ると、受付の職員がすぐに奥へ声をかけた。
ハサンさんは昨日と同じ長椅子に座っていた。
吊った腕は布で固定され、額の包帯もまだ外れていない。だが、顔色は昨日より少し戻っている。
私たちを見るなり、彼は立ち上がろうとした。
「座ったままで」
アデルが先に言った。
ハサンさんは一瞬止まり、それから素直に座り直した。
「……どうだった」
「会えました」
リンは保全箱を受付台へ置いた。
もう中に黒い筒はない。
再生を終えた筒は、マリヤの隊に残された。再生済みの口述筒は、受取人が保管するか、土地の習わしに従って割る。マリヤは、しばらく自分で持つと言った。
「筒は、本人が受領しました。再生も完了しています。声の大きな欠落はありません」
彼は目を閉じて、昨日と同じように息を吐く。
「そう、か」
「ああ、それで。マリヤさんから、言葉を預かっています」
ハサンさんは少し、姿勢を正したように見える。覚悟を決めた男性の顔が、そこにはあった。
「次に送るなら、窓の話をして」
ハサンさんはしばらく黙っていた。
受付台の向こうで、交換所の職員も手を止めている。
その沈黙を、急かすことなど、誰にもできないと思う。だってこれは……。
彼はやがて、吊っていない方の手で胸元の組合証に触れた。
「確かに」
短い返事だった。だが、その声は少し掠れていた。
「サリマへ?」
アデルが尋ねる。
「ああ。通常便ではなく、口述郵便官の口頭報告にとして。彼女に、必ず」
「ええ、お願いします」
ナディアさんへ、返事を強いることはできない。マリヤさんが次の声を拒まなかったとしても、それを送るかどうかはナディアさんのものだ。
けれど、道はつながった。声は、思いは、片道切符にはならない。
「それともう一つ」
私はハサンさんの顔を良く見つめる。
「腕を治してから、砂海へ戻れ。申し訳ないと思うなら、尚更、ね」
彼は一瞬だけ目を丸くして、それから、初めて少し笑った。
「マリヤらしいな」
彼は深くうなずいて、
「そうさせてもらおう」
誰に応えるわけでもなく、そう、呟いた。
アデルは木板を取り出し、受付台へ置いた。
「これ、マリヤさんから返すようにって」
黙って彼は受け取った。自分が刻んだ七つの井戸の印。
そこへ、アデルの書き込みと、マリヤが砂に引いた道が足されている。
水の浅い井戸。
風で崩れた尾根。
岩の影を三つ越える迂回路。
小さな地図は、昨日より少し汚れていた。砂が噛み、角が欠け、アデルの字も揺れている。
「……感謝する」
ハサンさんは木板を両手で持てないことに気づき、少し悔しそうに片手で押さえた。
「風路が一つ、ダメになっちまったからな」
「いえ、そんな、私はただ」
「何度でも言おう。感謝する。」
その声に、アデルは顔を少し赤らめて俯いた。どうやら、もう、言い返す気はなさそうだ。




