欲しかった答え
黒い筒の封蝋に、細い亀裂が入る。
ただ、乳白色の表面に薄い光が走り、青い紐の結び目が緩む。ほどけた紐は床へ落ちず、筒の周りへ円を描くように浮かんだ。
膝の上で指を組む。強く握りすぎて、爪が皮膚に食い込んでいる。
それでも、背筋は曲げなかった。
筒の中から、最初に聞こえたのは砂を払うような小さな音だった。
それから、長い沈黙。
声は、すぐには来ない。この沈黙を、私は知っている。
……姉は。大事なことを言う前に、よく黙る。昔から、そうだった。
隊を西の井戸へ向けると決めたときも。
病気の羊を群れから外すと決めたときも。
父のあとを継いで、青い紐を結んだときも。
沈黙のあとに来る言葉は、たいてい変わらなかった。
『マリヤ』
息が一瞬止まった。忘れられるはずがない。未だに、夢に見るのだから。
それでも、三年ぶりに耳へ届いた姉の声は、記憶の中より少し低く、少し遠くなったように感じる。
『この声が無事届いていることを、願っています』
小さな間。
『すごく悩んだけど、戻らないことにしたの』
分かっていたさ。たぶん、ずっと分かっていた。
それでも、その言葉が声になって届くまでは、どこかに余白があった。
戻るかもしれない。戻れないだけかもしれない。いつか、きっと。
誰かが止めているのかもしれない。他にもいろんな理由を考えた。それでも、いつか。
声が来れば、その日々は終わる。
姉さんは生きていて、自分の足で別の場所にいる。そして、戻らない。
『そう、決めちゃった。ごめんね?』
本当に、この人は。悪びれている様には聞こえない。
『朝になると同じ窓を開けるの。布を染めてから、井戸まで歩いて。夕方には手の色が真っ青で。』
少しだけ腹が立つ。それでも、不思議と心は落ち着いていた。泣きながら謝られた方が、まだ、怒りをぶつけられたと思う。
『任せちゃって……。いや、押し付けちゃったね』
言いたいことは、たくさんあったはずだった。
『あれを預けたら、びっくりするくらい気持ちが軽くなったの』
自分の腰の青い紐。何度も砂を払い、何度も締め直し、それでも最後の結び目だけは姉の結んだ癖を覚えていた紐。
『だから、ごめん』
喉の奥が熱くなる。それを涙に変えれたのなら、どれだけ楽だろうか。
『大分、長かったよね』
ええ、本当に。
『ごめんなさい』
許してほしいと言われたかっただろうか。分かってほしいと言われたかっただろうか。それとも、帰ってくると……。
自分の無力さが、幼さが。とても悔しい。
許してほしいと言われれば、許さないと言えたのに。
分かってほしいと言われれば、分かりたくないと言えたのに。
そんな事ばかり考える私がほんとうにみっともなくて。
『わかる。わかるよ。お姉ちゃんだもの』
筒の周りを漂っていた青い紐が、ゆっくり下がる。。
違う、と言いたかった。今さら、と言いたかった。
そんなこと、三年前に言えただろう、と。
何度も思った言葉が、胸の内側で砂のように崩れていく。
だが、それでも、全部は消えなかった。
怒りは残っているし。待っていた自分も残っている。
姉の紐を返せる日が来るかもしれないと思いながら、毎朝それを腰へ巻いていた三年は、声を聞いただけでなくなるものではない。
『次に声を送る時は』
長い間。
『妹に、ではなくて、隊を連れて歩くあなたへ』
『返事は欲しいけれど、少し、難しいかな。けれど、もし次も受けけ取ってくれるなら、窓の話をがしたい。サリマの朝の窓から見える、夕日の話』
最後の方は、少しだけ息が乱れていた。
『マリヤ』
もう一度、名前を呼ばれる。返事をしても、届かないのに。
分かっているのに、喉が勝手に動きかけた。
『また、ね?』
それで、声は途切れて、封蝋の光が消える。
再生を終えた青い紐だけが、筒の横へ静かに落ちている。
外から、羊の鈴が聞こえて、それから子どもたちの笑い声が続いた。
誰かが火に薪を足し、乳の煮える匂いが天幕へ入り込んできた。
世界は止まっていない。
自分の腰の青い紐をほどいた。古い結び目は固かった。
砂と汗と三年分の手癖で締まり、簡単には解けない。指先が痛む。それでも、刃物を使わなかった。いや、使いたくなんかない。
一本ずつ、結びをほどく。
ナディアの癖で曲げられた最後の輪に爪をかけたとき、指先に小さな傷ができた。
血がにじむ。その指を見て、少しだけ笑った。
「だから、この結び方は嫌いなんだ」
声に出すと、天幕の中でそれだけが残った。
古い青い紐を膝の上へ置き、筒の横に落ちていた新しい青い紐を手に取った。
しばらく考えてから、二本を一緒に腰へ回す。自分の手で、青い紐を結び直した。
天幕の外で、私は立ち上がる。どうやら、アデルも気づいたようだ。
入口の布が上がる。
出てきた彼女はただ、どこか疲れているように見える。長い距離を一人で歩いてきたかのように。
声の中身を聞く権利は、私にはない。彼女が何を受け取ったのかを、言葉で確かめる権利も。
「再生は、最後まで終わりましたか」
「ええ」
短い返事ではあった。欲しい言葉は、その中にあったのだろうか。
「欠けはありませんでしたよ」
「……それは、良かったです」
彼女は腰の青い紐へ手を置いた。それは、昼に見た時より少し、短くなっているように見える。気のせいだろうか。
それから、彼女は夜営地を見渡した。
羊は眠り始めている。見張りの男が岩の上で空を見ている。
火のそばでは、子どもが器を抱えたままうとうとしていた。
「明日の朝、カルファへ?」
「その予定です。交換所へ報告します」
「では、ハサン・ラウへ」
「口述筒の配達で?」
「いいえ」
マリヤは少しだけ考えた。
「伝言で構いません。彼なら、それで十分でしょうから」
「伝えます」
彼女は腰の青い紐を一度握ってから、少し表情を崩して、夜の砂海を見つめている。
暗い地平線の向こうに、サリマの城壁があるのかもしれない。私には方角も距離も分からない。
マリヤはしばらく黙ってから、続けた。
「次に送るなら、窓の話をして」
その言葉を胸の内側で繰り返した。
間違えないように。余計な言葉を足さないように。
「必ず伝えます」
彼女は静かにうなずいて、それから、火のそばで眠りかけている子どもへ歩いていく。
器を取り上げ、毛布をかけ、見張りの交代時間を確かめる。
姉の声を聞いたあとでも、隊長の仕事は残っていた。
迷いなく彼女はそれを、ひとつずつ続けていく。その背中をただ、アデルと二人で眺めていた。
郵便が届いたから、すべてが変わるわけではない。
怒りも、待っていた時間も、置いていかれた痛みも、そのまま残るのだろうか。
砂海の夜風が吹く。
天幕の布が揺れ、羊の鈴が小さく鳴った。
その音の中で、マリヤ・セファはもう一度、隊の中へ戻っていく。




