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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter7 声の手紙
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追跡、追憶

黄角羊の足跡は、まっすぐには続いていなかった。


 谷を出たあと、跡は一度北へ向かい、そこから岩場を避けるように西へ折れていた。砂の上に残る蹄の跡は、風に削られて浅くなっている。自分一人なら、途中で見失っていたかもしれない。


 けれどアデルは、足跡だけを追っていないように感じる。


 岩にこすれた羊毛。


 砂へ半分埋もれた灰。


 風下へ倒れた草の束。


 荷車の車輪が一度だけ深く沈んだ場所。


 隊が通ったあとには、ひとつひとつ、小さな癖が残っていた。


「ここで少し止まった?」


 アデルは砂へ膝をついた。


 周囲は低い岩に囲まれている。風は上を抜けていくが、地面近くにはあまり入ってこない。砂の表面に、羊の蹄と人の足跡が重なっていた。


「休憩?」


「たぶん、荷を直したんだと思う。車輪がここで沈んでる。引き上げるために羊を二頭だけ横へ回した跡がある」


 リンは、アデルの指す先を見た。


 最初はただの荒れた砂にしか見えなかった。


 だが、言われてみれば、他の蹄跡より深いものが二列だけ横へ伸びている。岩陰には、革紐の切れ端が落ちていた。


「よく分かるね」


「合ってるかは、わからないんだけど」


 アデルは革紐を拾い上げ、すぐに戻した。


「まだ新しい。けど、急いで捨てた感じじゃない。直せない部分だけ切って、残りは持っていった」


 その言い方が、自分には妙に残った。急いでいる。けれど、崩れてはいない。


 砂嵐で予定を変え、二つの井戸を失い、移動の道を選び直している。それでも、隊はばらばらにはなっていなかった。


 誰かが、ちゃんと決めている。


 どこで止まり、どこで荷を直し、どの羊を前へ出し、どの子どもを車へ乗せるか。


 その誰かへ、声を届けに来ている。


「次は?」


 リンが尋ねる。


 アデルは北西へ伸びる浅い尾根を見た。


「上に出たい。高すぎない場所」


「飛ぶ?」


「少しだけ。地上からだと、全体が見えない」


 二人は箒を浮かせた。


 低く、ゆっくり。


 砂海の上を、足元の痕跡を失わない高さで進む。


 日差しは強くなり始めていた。朝の青さはもう消え、砂の表面が白く反射している。風は熱を含み、リンの頬を乾かした。


 尾根を越えたところで、アデルが手を上げた。


「止まって」


 リンは箒を止め、同じ方向を見る。


 遠くに、黒い点がいくつもあった。


 岩の影。


 それだけなら、ここでは珍しくない。


 けれど、点の周囲で、何かが動いている。


「羊じゃない?」


「たぶん」


 アデルは目を細めた。


 風を読む。


 熱を含んだ砂の匂いの中に、少しだけ獣の匂いが混じっていた。羊毛と、革と、煮立てた乳の甘い匂い。


「いる!」


 私が言うと、アデルは短くうなずいた。


「高く上がらないで。警戒される」


「分かった」


「近づきすぎてもだめ。先に向こうがこっちを見つける距離で降りよう」


 リンはアデルの言葉に従った。


 郵便魔女が空から来る土地は多い。


 けれど、空から来る者を歓迎する土地ばかりではない。


 砂海では、遠くから見えること自体が礼儀になるのだと、ハサンは言っていた。突然天幕の上へ降りれば、それは配達ではなく襲来に近い。


 二人は岩場から少し離れた砂地へ降りた。


 箒を下げると、すぐに犬の吠える声が聞こえた。


 低く、短い。


 続いて、羊の群れがざわめく。


 黄色く曲がった角を持つ羊たちが、岩陰の奥で身を寄せていた。白い毛は砂をかぶり、遠目には岩の色とほとんど変わらない。


 天幕も同じだった。


 布は砂色で、低く張られている。上から見下ろせば影にしか見えない形だ。数張りの天幕の間に、荷車と水袋と薪束が並び、子どもが一人、犬の首紐をつかんでこちらを見ていた。


 大人たちは、すでに動き始めている。


 男が二人、羊の前へ立つ。


 女が水袋を抱えた子どもを天幕の奥へ下げる。


 老人が椅子代わりの箱から立ち上がり、杖を手に取る。


 その中心で、一人の女性がこちらへ歩いてきた。


 背は高くない。


 けれど、周囲の視線が自然にその人へ集まっていた。


 砂色の外套を肩にかけ、腰には青い紐が巻かれている。紐は古びていた。何度も砂を払い、何度も結び直した跡がある。端には、骨で作った小さな札が揺れていた。


 女性は私たちから十歩ほどの距離で足を止めた。


「……何か?」


 組合章を見せ、名乗った。


「リューデン王国、国際郵便組合所属の郵便魔女、リネット・ファルンです。こちらはアデル・グランツ。カルファ交換所から、マリヤ・セファさん宛ての郵便物をお預かりしています」


 女性の目が、保全箱へ落ちた。


 それだけで、周囲の空気が少し変わった。


 犬が吠えるのをやめる。


 水袋を抱えた子どもが、天幕の陰から顔を出す。


 マリヤ・セファは、すぐには答えなかった。


 ただ、腰の青い紐へ一度だけ手を触れた。


「……誰から」


「ナディア・セファさん」


 その名が砂の上へ落ちた瞬間、隊の何人かが顔を見合わせた。


「ナハル式の口述筒です。再生は一度限りと推定されています」


 彼女は、深く息を吸った。


「口述筒はハサンが来るはず。彼は?」


「風路事故により負傷のためカルファ交換所で治療を受けています」


「そうですか」


 短い返事だった。


「ハサンさんから、伝言があります。申し訳ない、と」


 マリヤさんの眉が、わずかに動く。そこに含まれていた思いは、何だろうか。


 責めているのか、知っているのか、呆れているのか。


 あるいは、その全部なのか。


「筒は、無事ですか」


 マリヤが尋ねた。


「封は開いていません。内部の音声保存も残っています。ただし、事故転送時の衝撃を受けています」


「聞けない可能性は?」


「現時点では低い……。ただ、一度再生すれば戻せません」


 リンは保全箱を開けないまま、両手で抱えた。


「今、受け取りますか」


 マリヤさんは、視線だけを天幕の方へ向けた。


 羊が鳴いている。


 子どもが水袋を落とし、年長の女がそれを拾っている。


 老人が何か言い、若い男が荷車の車輪を確かめに行く。


 彼女が黙ると、皆が待ってしまう。彼女が崩れれば、彼らの明日も崩れてしまう。


「今は、やめておきます」


「昼までに、羊を北の岩陰へ移します。水袋も詰め替える。午後には、病人を乗せた車を先へ出さなければならない」


 リンは保全箱を閉じたまま、うなずいた。


「では、いつ」


「夜営が終わってから」


 マリヤは青い紐を握った。


「少しだけ、時間を」


 誰も何も言わなかった。それでも、なんとなく、彼女の心が見えたような気がした。


 待っていたのだろう。それでも、来てほしくなかったとも、思っていたのではないだろうか。


「分かりました。再生まで、こちらで保全します」


「いえ」


 マリヤは一歩近づいた。


「受け取るだけ。聞くのは、後で」


 その言葉に、周囲の何人かが目を伏せた。


 リンは箱を差し出す。


 だが、マリヤはすぐには手を伸ばさなかった。


「隊長の紐を結ぶとき、最後だけ少し曲げる。ほどけにくいけど、急いでいるときは指を傷めるから、私は嫌いでした」


 マリヤさんは自分の腰の紐を見る。


「何度言っても、直さなかった」


 思い出話にしてしまえば楽だったかもしれない。


 彼女は隊の年長者を呼び、低い声で指示を出す。


 北側の小天幕を空けること。


 中の火鉢を外へ出すこと。


 子どもを近づけないこと。


 見張りを一人つけること。


 指示は早く、無駄がない。二年という月日は、短くない。


「では、手筈通りに」


 その一言で、隊が動き出す。羊を追う声。水袋を運ぶ足音。革帯を締める音。畳まれる天幕の布が風をはらむ音。


 郵便が届いても、生活は止まらない。


 むしろ、止めないために彼女は。天幕の外では、夜営の音が続いていく。


 リンは入口から少し離れた岩のそばに座っていた。アデルはその隣で、木板に残した印を指でなぞっている。


 一度きりの声は、マリヤ・セファだけに届く。


 それでも、天幕の布がほんのわずかに震えるたび、リンは顔を上げてしまった。


「気になる?」


 アデルが小さく尋ねる。


「気になるよ」


「聞きたい?」


「それは、違うと思う」


 アデルは木板から目を離し、夜の砂海を見た。


「うん」


 それ以上は言わなかった。


 天幕の中で何が起きているのかは、マリヤさんのものだった。


 ただ、郵便を届けた者として、その声が最後まで途切れないことを願って。

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