追跡、追憶
黄角羊の足跡は、まっすぐには続いていなかった。
谷を出たあと、跡は一度北へ向かい、そこから岩場を避けるように西へ折れていた。砂の上に残る蹄の跡は、風に削られて浅くなっている。自分一人なら、途中で見失っていたかもしれない。
けれどアデルは、足跡だけを追っていないように感じる。
岩にこすれた羊毛。
砂へ半分埋もれた灰。
風下へ倒れた草の束。
荷車の車輪が一度だけ深く沈んだ場所。
隊が通ったあとには、ひとつひとつ、小さな癖が残っていた。
「ここで少し止まった?」
アデルは砂へ膝をついた。
周囲は低い岩に囲まれている。風は上を抜けていくが、地面近くにはあまり入ってこない。砂の表面に、羊の蹄と人の足跡が重なっていた。
「休憩?」
「たぶん、荷を直したんだと思う。車輪がここで沈んでる。引き上げるために羊を二頭だけ横へ回した跡がある」
リンは、アデルの指す先を見た。
最初はただの荒れた砂にしか見えなかった。
だが、言われてみれば、他の蹄跡より深いものが二列だけ横へ伸びている。岩陰には、革紐の切れ端が落ちていた。
「よく分かるね」
「合ってるかは、わからないんだけど」
アデルは革紐を拾い上げ、すぐに戻した。
「まだ新しい。けど、急いで捨てた感じじゃない。直せない部分だけ切って、残りは持っていった」
その言い方が、自分には妙に残った。急いでいる。けれど、崩れてはいない。
砂嵐で予定を変え、二つの井戸を失い、移動の道を選び直している。それでも、隊はばらばらにはなっていなかった。
誰かが、ちゃんと決めている。
どこで止まり、どこで荷を直し、どの羊を前へ出し、どの子どもを車へ乗せるか。
その誰かへ、声を届けに来ている。
「次は?」
リンが尋ねる。
アデルは北西へ伸びる浅い尾根を見た。
「上に出たい。高すぎない場所」
「飛ぶ?」
「少しだけ。地上からだと、全体が見えない」
二人は箒を浮かせた。
低く、ゆっくり。
砂海の上を、足元の痕跡を失わない高さで進む。
日差しは強くなり始めていた。朝の青さはもう消え、砂の表面が白く反射している。風は熱を含み、リンの頬を乾かした。
尾根を越えたところで、アデルが手を上げた。
「止まって」
リンは箒を止め、同じ方向を見る。
遠くに、黒い点がいくつもあった。
岩の影。
それだけなら、ここでは珍しくない。
けれど、点の周囲で、何かが動いている。
「羊じゃない?」
「たぶん」
アデルは目を細めた。
風を読む。
熱を含んだ砂の匂いの中に、少しだけ獣の匂いが混じっていた。羊毛と、革と、煮立てた乳の甘い匂い。
「いる!」
私が言うと、アデルは短くうなずいた。
「高く上がらないで。警戒される」
「分かった」
「近づきすぎてもだめ。先に向こうがこっちを見つける距離で降りよう」
リンはアデルの言葉に従った。
郵便魔女が空から来る土地は多い。
けれど、空から来る者を歓迎する土地ばかりではない。
砂海では、遠くから見えること自体が礼儀になるのだと、ハサンは言っていた。突然天幕の上へ降りれば、それは配達ではなく襲来に近い。
二人は岩場から少し離れた砂地へ降りた。
箒を下げると、すぐに犬の吠える声が聞こえた。
低く、短い。
続いて、羊の群れがざわめく。
黄色く曲がった角を持つ羊たちが、岩陰の奥で身を寄せていた。白い毛は砂をかぶり、遠目には岩の色とほとんど変わらない。
天幕も同じだった。
布は砂色で、低く張られている。上から見下ろせば影にしか見えない形だ。数張りの天幕の間に、荷車と水袋と薪束が並び、子どもが一人、犬の首紐をつかんでこちらを見ていた。
大人たちは、すでに動き始めている。
男が二人、羊の前へ立つ。
女が水袋を抱えた子どもを天幕の奥へ下げる。
老人が椅子代わりの箱から立ち上がり、杖を手に取る。
その中心で、一人の女性がこちらへ歩いてきた。
背は高くない。
けれど、周囲の視線が自然にその人へ集まっていた。
砂色の外套を肩にかけ、腰には青い紐が巻かれている。紐は古びていた。何度も砂を払い、何度も結び直した跡がある。端には、骨で作った小さな札が揺れていた。
女性は私たちから十歩ほどの距離で足を止めた。
「……何か?」
組合章を見せ、名乗った。
「リューデン王国、国際郵便組合所属の郵便魔女、リネット・ファルンです。こちらはアデル・グランツ。カルファ交換所から、マリヤ・セファさん宛ての郵便物をお預かりしています」
女性の目が、保全箱へ落ちた。
それだけで、周囲の空気が少し変わった。
犬が吠えるのをやめる。
水袋を抱えた子どもが、天幕の陰から顔を出す。
マリヤ・セファは、すぐには答えなかった。
ただ、腰の青い紐へ一度だけ手を触れた。
「……誰から」
「ナディア・セファさん」
その名が砂の上へ落ちた瞬間、隊の何人かが顔を見合わせた。
「ナハル式の口述筒です。再生は一度限りと推定されています」
彼女は、深く息を吸った。
「口述筒はハサンが来るはず。彼は?」
「風路事故により負傷のためカルファ交換所で治療を受けています」
「そうですか」
短い返事だった。
「ハサンさんから、伝言があります。申し訳ない、と」
マリヤさんの眉が、わずかに動く。そこに含まれていた思いは、何だろうか。
責めているのか、知っているのか、呆れているのか。
あるいは、その全部なのか。
「筒は、無事ですか」
マリヤが尋ねた。
「封は開いていません。内部の音声保存も残っています。ただし、事故転送時の衝撃を受けています」
「聞けない可能性は?」
「現時点では低い……。ただ、一度再生すれば戻せません」
リンは保全箱を開けないまま、両手で抱えた。
「今、受け取りますか」
マリヤさんは、視線だけを天幕の方へ向けた。
羊が鳴いている。
子どもが水袋を落とし、年長の女がそれを拾っている。
老人が何か言い、若い男が荷車の車輪を確かめに行く。
彼女が黙ると、皆が待ってしまう。彼女が崩れれば、彼らの明日も崩れてしまう。
「今は、やめておきます」
「昼までに、羊を北の岩陰へ移します。水袋も詰め替える。午後には、病人を乗せた車を先へ出さなければならない」
リンは保全箱を閉じたまま、うなずいた。
「では、いつ」
「夜営が終わってから」
マリヤは青い紐を握った。
「少しだけ、時間を」
誰も何も言わなかった。それでも、なんとなく、彼女の心が見えたような気がした。
待っていたのだろう。それでも、来てほしくなかったとも、思っていたのではないだろうか。
「分かりました。再生まで、こちらで保全します」
「いえ」
マリヤは一歩近づいた。
「受け取るだけ。聞くのは、後で」
その言葉に、周囲の何人かが目を伏せた。
リンは箱を差し出す。
だが、マリヤはすぐには手を伸ばさなかった。
「隊長の紐を結ぶとき、最後だけ少し曲げる。ほどけにくいけど、急いでいるときは指を傷めるから、私は嫌いでした」
マリヤさんは自分の腰の紐を見る。
「何度言っても、直さなかった」
思い出話にしてしまえば楽だったかもしれない。
彼女は隊の年長者を呼び、低い声で指示を出す。
北側の小天幕を空けること。
中の火鉢を外へ出すこと。
子どもを近づけないこと。
見張りを一人つけること。
指示は早く、無駄がない。二年という月日は、短くない。
「では、手筈通りに」
その一言で、隊が動き出す。羊を追う声。水袋を運ぶ足音。革帯を締める音。畳まれる天幕の布が風をはらむ音。
郵便が届いても、生活は止まらない。
むしろ、止めないために彼女は。天幕の外では、夜営の音が続いていく。
リンは入口から少し離れた岩のそばに座っていた。アデルはその隣で、木板に残した印を指でなぞっている。
一度きりの声は、マリヤ・セファだけに届く。
それでも、天幕の布がほんのわずかに震えるたび、リンは顔を上げてしまった。
「気になる?」
アデルが小さく尋ねる。
「気になるよ」
「聞きたい?」
「それは、違うと思う」
アデルは木板から目を離し、夜の砂海を見た。
「うん」
それ以上は言わなかった。
天幕の中で何が起きているのかは、マリヤさんのものだった。
ただ、郵便を届けた者として、その声が最後まで途切れないことを願って。




