砂に残る道
出発は、夜明け前になった。
カルファ交換所の外壁の上に、まだ星が残っている。砂海は夜の冷たさを抱えたまま、薄い青色に沈んでいた。
箒の固定具へ保全箱を取りつけ、革帯を二重に締めた。
箱の内側には、フィオナの保全布が敷かれている。強い振動を避けるため、いつもの郵便鞄ではなく、発着用の小型箱を使うことになった。
ハサンさんは吊った腕の上から厚い外套を羽織り、発着場まで見送りに来ていた。
「ここまで覚えが早いとは、な」
アデルは何も言わなかったが、どこか得意気なようにも見えた。自分は全く付いていけず、結局すべて任せてしまった。
「本来なら、俺が」
「その腕で無理をさせたら、後が怖いので」
その先は、言わせたくない。ハサンさんは、わずかに眉を下げた。
安堵したようには見えない。どこか、悔しさが滲んで見えた。その気持ちは痛いほど、よくわかる。それなのに、どんな言葉を掛けたらよかったのか。それが、わからない。
「西の井戸から。砂鳥を追うんだ」
ハサンさんはアデルへ、薄い木板を渡した。
昨夜、地図の余白に書き込んだものを、交換所の職員が板へ写してくれたのだ。七つの井戸、それぞれに見方が添えられている。
文字にすれば、簡単だった。けれど、それが示すものを読み違えれば、砂海では半日どころか一日を失う。
「ありがたく頂戴します」
アデルは木板を胸の内側へしまった。
「……マリヤに、届けてやってくれ」
「もちろんです」
ハサンさんは保全箱へ目を向けた。
「マリヤに会ったら、伝えてもらえるか。遅れた原因は、俺だ」
なんと、答えたらいいのだろうか。
事故だった。第三風路の異常だった。砂嵐もあった。そう言うことはできる。
けれど、彼が求めているのは、慰めではないんだと思える。
「……伝えます」
短く答えると、彼はようやく、少し微笑んだ。
夜明けの風が、外壁の上を撫でる。
私たちは箒に乗って、飛び立った。
いつもなら、自分が先に高度を取り、風路の流れに乗る。けれど今日は、アデルが少し前に出た。
「低く」
「うん」
私が笑うと、アデルは小さくうなずいた。
二本の箒が、発着場を離れる。
朝日が昇る前の砂海は、想像していたより静かだった。
風がないわけではない。細い砂粒が低く流れ、遠くの砂丘の稜線を少しずつ削っている。けれど、草原や山間の風とは違った。ここでは風が道を作ると同時に、道を消していく。
保全箱の重みを背中側に感じながら、いつもよりずっと低い高度を保った。
高く飛べば、井戸の位置は早く分かる。
けれど、今日探しているのは井戸だけではない。
井戸を通った人の痕跡や手掛かり。砂に残った後はそう長くは残らないのだから、より、気を引き締めなくては。
一つ目の井戸は、岩の窪地にあった。
地上へ降りる前から、水場の周囲に小さな鳥が見えた。灰色の羽をした砂鳥が十数羽、井戸の縁と岩陰を行き来している。
アデルは箒を降りるなり、鳥を数え始めた。
「多い」
「隊はもういない?」
「それはそう。でも、たぶん昨日今日の話じゃない」
アデルは井戸の縁へ近づき、石についた薄い水跡を見た。腰の革袋から短い金具を取り出し、縁の内側へそっと当てる。
「水位が低い。鳥が多いのは、人がいないからだけじゃなくて、羊が飲めるほど残っていないからかも」
なんとなく、周囲の風に感覚を研ぎ澄ませる。
砂丘の上を滑る風は細く、淡い。人や家畜が最近まで滞在していた場所なら、火や布や獣の匂いが風へ残る。けれど、この井戸の周囲にあるのは、乾いた石と古い水の匂いだけだった。
「ここには、いなさそう?」
「うん。」
アデルは砂へ膝をつき、井戸から南へ伸びる浅い溝を指した。
「でも、誰かは一度、見に来たんだと思う」
「足跡?」
「うーん、杖跡。ほら、同じ深さで三つ」
最初はただの窪みにしか見えなかった。
アデルが指で周囲の砂を払うと、確かに細い穴が等間隔に並んでいる。風で半分埋もれているが、自然にできたものではない。
「井戸を見て、使えないと判断したのかな。たぶん斥候の人たち」
「だと、次、かな?」
「おそらく。自信はないけどね」
アデルは立ち上がり、木板を取り出した。
「東じゃなくて、北西へ行こう」
「候補表だと、次は東の井戸……じゃなかった?」
「そうなんだけど。でも砂鳥がこれだけ戻っているなら、斥候はかなり早くここを諦めたはず。隊が子供と羊を連れているだろうし、浅い水を二つ続けて引くより、少し遠くても岩陰の多い北西へ出る……と、思う」
朝日がようやく砂丘の端へかかり始めている。斜めの光が砂の起伏を浮かび上がらせ、遠くの岩場だけを黒く見せていた。
「やるじゃん」
アデルは少しだけ、口元を緩めた。
「外れないように、祈ってね」
二人で、その場を後にする。
飛びながら、ふと黒塩丘の方角を振り返った。
第三風路が消えたという場所は、ここからは見えない。砂の波と低い岩山が重なり、地図上の一点は、実際の景色の中へ溶けている。
それでも、そこだけ風が薄いように感じられた。
砂海の風は、どこかへ向かっている。
砂を運び、匂いを運び、鳥の羽音を運ぶ。
なのに、郵便を運ぶはずの風だけが、途中から先へ続いていない。
地上には、斥候の杖跡が残っていた。
二つ目の井戸は、岩陰の奥に。
ここには鳥が少ない。
井戸の縁は湿っていて、水位も一つ目より高い。リンが近づくと、鼻先に青い匂いが触れた。
「水は残ってる」
「でも……羊は嫌うかも?」
アデルは井戸の底を覗き込んだ。
水面の端に、薄緑の藻が膜を作っている。人が飲めないほどではないが、家畜にとっては嫌な匂いなのかもしれない。
「ハサンさんが言ってたね。水があることと、隊が使えることは違うって」
「うん」
アデルは周囲を歩き、岩陰の砂を見た。
ここにも足跡はあった。
ただし、深くない。羊の蹄でも、人の荷車でもない。
「ここも斥候だけ」
「判断が早いね」
「迷っている余裕がないんだと思う」
アデルは水面をもう一度見た。
「南の井戸が二つ埋まった。移動予定を変えた。羊もいる。水が悪い井戸を引いたら、次へ移るしかない」
「隊長は大変だ」
私が言うと、アデルは目を細めた。
「それを、マリヤさんは三年やってるんだよね」
「うん」
言われてみればそうなるのか。いったいどんなことを考えているのだろう。
保全箱の革帯へ指をかけた。聞いてはいけない声。
けれど、その声が届く前から、マリヤ・セファという人の輪郭は少しずつ見え始めていた。
水を選ぶ。
羊を動かす。
子供と老人を砂丘の向こうへ連れていく。
今日の夜営地を決め、明日の風を読む。
「行こう」
アデルが言った。
「二つ続けて外れたなら、予定表どおり動いてないと思う。隊なら、水が悪い井戸から直接大きくは動かない。まず羊を休ませる場所がいる」
アデルは北西の岩場ではなく、少し南へ外れた細い谷を指した。
「風を避けられて、砂が深すぎない場所。夜営跡が残るなら、あのあたり」
箒を浮かせる前に、もう一度水面を見た。
誰かがここまで来た。
水を確かめ、使えないと決め、隊のために次を選んだ。
その判断は、荷札にも住所にも書かれていない。
それでも、確かに郵便の行き先へ続いている。
谷の入口には、風が溜まっていた。
砂丘と岩壁に挟まれた細い場所で、上から見るとただの影に見える。高く飛んでいたら見落としていただろう。
アデルは谷の手前で箒を降りた。
「ここから歩く」
「箱、私が持つよ」
保全箱を抱え直した。黒い筒は、中で静かにしている。けれど、腕の中に置くと、ただの陶器とは違う重みがあった。
谷の奥へ入ると、岩壁の陰に丸い窪みがいくつも見えた。
アデルがしゃがむ。
「杭穴」
指先で砂を払うと、硬く締まった穴の縁が出てきた。いくつも円を描くように並んでいる。
「天幕?」
「うん。大きくない。たぶん斥候じゃなくて、本隊の一部」
「一部?」
「全部の羊を入れるには狭い。病人か子供を休ませたか、荷を置いたか」
さらに奥へ進むと、黒く崩れた灰が岩の下に残っていた。
アデルは灰を指でつまみ、匂いを確かめる。
「獣糞の灰。かな?」
「どれくらい?」
「そこまでは、さすがに」
リンは周囲を見回した。
谷の中に人はいない。羊の声も、天幕もない。
でも、確かに生活の跡があった。
誰かが火を焚き、湯を沸かし、眠った場所。朝になれば天幕を畳み、杭を抜き、灰を踏んで、次の水場へ。
「アデル」
リンは岩の隙間に引っかかった白いものを見つけた。
アデルが近づき、そっと摘まむ。
羊毛だった。
白というより、少し黄みがかっている。根元に赤い砂が絡んでいた。
「黄角羊?」
「たぶん」
アデルは羊毛を木板の上へ置き、谷の出口を見た。
「こっちへ出たなら、次は北の浅い谷。風を避けながら進める」
「井戸は?」
「遠いな。でも途中に岩水がある。地図には出ないけど、ハサンさんが印をつけてくれた」
アデルは木板の端を指した。
小さな傷のような印が一つある。
地図上では、井戸とは呼べないほど小さな水。けれど、動く隊にとっては、その一滴が道を変える。
「追える?」
「追う」
アデルは短く言った。そこに迷いはなさそうだ。
谷の外へ出る前に、もう一度だけ、振り返る。
天幕はない。火も消えている。人の声も残っていない。
けれど、杭穴も灰も羊毛も、そこにいた誰かの時間をまだ抱えている。
砂海では、すべてがすぐ消えるわけではなかった。
消えるものもある。
残るものもある。
だからこそ、郵便を運ぶ風だけが抜け落ちていることの奇妙さが、胸の奥で小さく冷えた。
リンは保全箱を抱え直した。
「行こう。まだ間に合う」
アデルが箒を浮かせる。
「間に合うって?」
「声が、待ってる人の生活に追いつくまで」
アデルは一瞬だけ私を見て、それから前を向いた。
「じゃあ、急ごう。見落とさない速さで」
二人は谷を離れた。
朝の砂海は、もう青くない。
金色の光が砂を焼き始めていた。
その中を、黄角羊の隊が残した細い道だけが、北へ続いていた。




