一度きりの声
それは、とてもじゃないが手紙には思えなかった。
掌より少し長い、黒い陶器の筒。
焼き物の表面には細かな砂が混じり、両端を乳白色の封蝋が塞いでいる。胴には赤、黄、青の細い紐が巻かれていた。紙の荷札はない。文字もない。
ただ、筒の内側に、声が残っているのだという。
東部第四支局の包装室で、筒を保全布の上へ置いた。
その下には、風待ち郵便局に残っているフィオナが作成した状態確認票が敷かれている。
外装に亀裂なし。
封印に剥離なし。
内部に音声保存系統の魔力反応あり。
開封、加熱、強い振動を避けること。
再生は一度限りと推定。
最後に、少し大きな字が添えられていた。
――絶対に、試さないこと。
「もう、お節介め」
紙へ小さく答えると、机の反対側にいたアデルが顔を上げた。
「フィオナの気持ちがよくわかる」
アデルは腕を組んで、何度も頷いた。
「うっざ!」
つい、口から漏れたが、アデルは、それ以上取り合ってはくれなかった。
「ナハル式の口述筒かな」
筒へは触れず、巻かれた紐を目で追った。
「赤、黄、青。親族内の口述、移動隊宛て、急ぎ扱い……に見えるけど」
「骨札が付いてるね」
アデルが黄色い紐を指さした。
黄色い紐には、小さな骨の玉が四つ通されている。玉の片側には、針で突いたような穴がいくつも開いていた。青い紐はほかの二本より細く、筒の端へ複雑な結び目を作っている。
「現行規格と少し違う……よね?」
「うん。同じものは見たことない。でも、紐を荷札に使う地域なら」
アデルは資料棚から南西方面の規格集を取り出した。
「砂海では、紙の札が長く保たない。色と結び目で、中継先や受取人の一族を示す郵便がある」
ページをめくる指が、止まる。
「ナハル遊牧連合。カルファ交換所扱いの口述郵便」
そこへ、支局長とエルナさんも入ってきた。
エルナさんは状態確認票と三号の転送記録を並べて読む。
「事故転送の直前、強い衝撃が発生している恐れ……。」
少し、困ったように見える。何か気になる点でも、あっただろうか。
「郵便袋は同時には回収されていない。運搬者の記録も途切れている……。」
筒を見る。封印は割れていない。声は残っているはずだ。けれど、それが入っていたはずの袋も、運んでいた人も、わからない。風路事故は、本当に厄介だ。
エルナさんが票の端を指で押さえた。
「受取人以外の再生は不可。照合は外装と紐で行います」
「隊名と現在地印は、アデルに見せた方がいいね」
「うーん、うん」
アデルは筒の周囲をゆっくり回った。少し、自信がないのだろうか。
自分は風路とその魔力の残り方を見るのに対して、アデルは文化や特例措置何かに強い。たとえ文字がなくても、誰かが誰かへ届けるために残したのであれば、そこには順番があるのだと言う。
「差出人までは無理。でも受取先は移動隊。四つの骨玉は、今季に巡る井戸かもしれない」
「……決まった土地に根差さないが、届け先はある」
支局長が言う。
「隊が動くんです。家というか、テントごと、羊ごと」
状態確認票の裏にも続きがある。
――どんな声だったかは、聞かなくていいです。誰に届いたかだけ、帰ったら教えてね。
二人でその一文を読む。
「フィオナも、気になるんだね」
「……少し、ミーハーなところあるよな」
アデルは確認票を丁寧に折り直した。
「でも、聞いていいかはわからない、よね?」
「そうだね」
黒い筒は、保全箱の中で静かに潜んでいる。
誰の声が入っているのか。
何を伝えたくて、そこへ封じられたのだろうか。
二日目の午後、眼下から緑が消えた。
草原は赤茶けた岩場へ変わり、その先には、砂の波が地平線まで続いている。高空を飛んでいても、風には日に焼けた石の匂いが混じっていた。
カルファ交換所は、砂海へ突き出した岩山の麓に建っている。
強風を避けるため、発着場は高い外壁の内側へ深く入り込んでいた。箒を降りると、足元を薄い砂が川のように流れていく。
棚に並ぶのは、封筒よりも木札や布包みの方が多かった。
色紐を巻いた陶器の筒。
獣の角を削って作った小箱。
結び目を並べ、言葉の代わりにした帯。
受付の記録簿さえ、薄い木板を紐でつないだものだった。
保全箱を受付台へ載せる。
交換所の職員が管理票を読んでいると、奥の長椅子に座っていた白髪の目立つ男が立ち上がった。
片腕を布で吊り、額には包帯を巻いている。日に焼けた頬にも、新しい擦り傷が残っていた。
男は私たちの組合章より先に、保全箱を見た。
「何か、御用でしょうか」
「ナハル式の口述筒を保護しました。赤と黄と青の紐が巻かれています」
男は吊っていない方の手を、受付台へついた。
「……無事だったか」
「封は開いていません。筒にも破損はなく、保存魔力も確認されています」
男は目を閉じた。
張り詰めていた息を、ゆっくり吐く。
「よかった」
それから、胸元の組合証を取り出した。
「ハサン・ラウ。ナハル遊牧連合の口述郵便官だ。それは、私の担当物で相違ない」
「東部第四支局所属、リネット・ファルンです」
「同じく。アデル・グランツです」
形式だけの敬礼を取る。それから、受付台へ白い布が広げられた。
筒を取り出して、ハサンさんは両端の封蝋を確かめ、三本の紐を一つずつ目で追った。
「差出人は、ナディア・セファ」
赤い紐の中央を示す。
「城壁都市サリマの染色工房で働いています」
「受取人は?」
アデルが尋ねる。
「妹のマリヤ・セファ。黄角羊の隊を率いている」
そこで一度、言葉を切った。
「彼女の苦悩を、知っていたからな」
「……えっと」
「ナハル式の口述筒は、一度声を入れてしまえば、差出人でも簡単には消せん。彼女はずっとそれを考えていた」
その声は、低かった。何か特別な事情でもあるのだろうか。
「声にしたら、それが本当になる。それが怖かったのかもしれない」
アデルは、筒の青い紐を見た。
「何を伝えようと?」
「若いな」
郵便官としての線を越えない。当たり前のことではあるが、なかなか難しい。ちらり、と隣を見ると俯いているアデルが見えた。私も、気にならないと言えば、嘘になる。
「ただ、必ず届けて欲しいと、頼まれた。声にしたものを、声のまま届けるのが、俺たちの仕事……だった」
吊った腕の布が、わずかに揺れた。
「慢心があったわけじゃない」
「事故だったと伺いましたが」
風路事故。自分も直近で二度、経験している。自分が無事でいられたのは、ただ、運が良かったの一言に尽きる。一等郵便官である、エルナさんでさえ、急な風路の消失に対応が後手に回っているのを、覚えている。
「……確かに、砂嵐で視界は悪かった。」
彼は交換所の職員に目を向ける。職員は少し迷ってから、砂海の地図を広げた。
井戸は単なる点ではなく、季節ごとの移動路が交わる場所として描かれているらしい。その上に、細い青線で郵便用の風路が重ねられていた。
「第三風路だ」
ハサンは黒塩丘の印を指した。
「ここから先で、無くなった」
「無くなった?」
「……足場が消えたんだ。確かにあった支えが」
彼のの指が、地図の上で止まる。
「確かに、風標は点灯していた。危険を知らせる信号弾を見逃してもいない。」
改めて地図に視線を落とす。黒塩丘の先。砂海の中では小さな一点に過ぎない場所。
風評の異常ではない。使われなくなった道でもない。
途中から先を、誰かが薄く抜き取ったような空白。
「同じ便の郵便袋は?」
アデルが尋ねた。
「……捜索中だ」
今、白い布の上にあるのは、その中の一つだけ。
「マリヤさんの現在地は分かりますか」
「決まった住所がないが、ある程度の候補から探していくことになる」
ハサンさんは黄色い紐に通された骨玉を見た。
「四つの玉は、隊が今季に巡る井戸を示してる。南の井戸を中心に回っているはずだ」
「最後の井戸で合流する予定だった、ということですか」
アデルが確認する。
「ああ」
「今もそこに留まっている可能性は?」
彼は首を横へ振った。
「そこまで悠長にできるほど、この土地は優しくない」
交換所の職員が、別の薄い木板を地図の横へ並べた。
「変更先の候補は七つ。」
アデルは位置と距離を目で追った。
「全部回るだけなら、一日もあれば、事足りるが。」
少し、困ったような顔で、こちらに向き直る。
「井戸だけを回っても、届けられない」
「……隊も動き続けるから?」
「それだけじゃない」
ハサンさんは地図の上へ指を置いた。
「水が残っていても、羊が飲めるとは限らない。子供や老人を連れて越えられない砂丘もある。天幕は上空から砂へ紛れるよう作られ、足跡は風が消してしまう」
アデルが地図から顔を上げる。
「じゃあ、空から探しても……」
「速く飛ぶほど、痕跡は見落としやすくなる」
「では、どうすれば」
思わず、口を挟んでしまった。少し、声が大きかっただろうか。
「それを聞いて、何になる」
「……届けます。《《私たちで》》」
アデルが、こちらに視線を向ける。その視線が痛い。だけど、言ってしまったものは、しょうがない。
「……」
喜んでくれると思ったが、そうではないようだ。彼の怪我の容体を見るに、とても配達が可能な状況には思えない。だからこそ、力になりたい。ただ、それだけなのに。
「頼めるか」
何かを、言いたかった言葉を、思いを、飲み込んだように見えた。それでも、答えなんて決まっている。静かに私は頷いた。
アデルは絶対にわざと、私に聞こえるように深いため息をついてから、椅子を引き、ハサンさんが座れる場所を空けた。
「教えてください」
ハサンさんは七つの井戸のうち、最も西側にある印を指す。
「井戸を見るんじゃない」
「……はい?」
「鳥が導いてくれる」
人や羊が井戸にいる間、小さな砂鳥は水辺へ降りてこない。隊が去れば戻る。ただし鳥が多すぎる井戸は、水が浅くなっている可能性がある。
井戸の縁についた水位の跡。
天幕を畳んだあとに残る杭の穴。
燃やした獣糞の灰。
岩へ引っかかった羊毛。
先に道を調べた者が、杖を砂へ刺した間隔。
一つずつが、移動する受取人の住所の手掛かりになるのだと言う。
アデルは地図の余白へ書き込んでいく。
一度だけ再生される、姉の声。
それを待つ妹には、番地も、決まった家もない。
けれど、居場所がないわけでも、ない。
暮らしている限り、その人が通った道は砂海のどこかに残る。
だから、追える。
声を届ける相手は、まだこの砂の上で生きている。わからないことばかりが積み重なっている。それでも。
待っている人が、届けたいと願った人がいるのであれば、届けてあげたい。この気持ちだけは嘘じゃない。




