今日の自分に、くれたから
郵便局を出ると、広場では成人祝いのパンが切り分けられていた。
エイノさんに叔母が近づき、胸元へ収められた灰白色の保護袋に気づく。
何も、尋ねなかった。おそらく、たくさん言いたいことはあるんだと思う。私が彼女なら、理由を問いただす。
それでも、外套の合わせ目を直し、雪が入らないよう留め具を一つ上まで閉じた。
「この後は、家に戻るのかい」
「うん。父さんの机で」
叔母の手がほんの少しだけ止まる。
「家で」
「うん」
「そう」
広場の子供が、先ほどの歪な木匙をもう一度エイノさんへ渡すために駆け寄ってくる。
「これ! 忘れないで!」
「ありがとな」
「海で使えるかな?」
「もちろん」
子供は満足そうに頷いた。
エイノさんも、笑顔で子供の頭をなでている。
それから、祝いのパンを受け取り、近所の者へ礼を言い、南部へ持っていく道具を確かめる。
暮らしは、そのまま続いていた。自分が、水を差したとは思わない。いや、思いたくはないが。それでも、影を落としかけた、それだけは忘れたくないと思った。
ヨルンさんの家は、村の外れにあった。
小さな木造の家だった。
屋根の雪は半分ほど落とされ、軒先には割った薪が積まれている。戸口の横には白い枝が立てられ、そこにヨルン・カルヴァの木札と、青い布が下がっていた。
エイノさんは枝の前で立ち止まる。何か、気になることでもあったのだろうか。
「春になったら、燃やすんです」
正直、風習だ、文化だと言われれば、納得は出来るし、理解もする。だが、それがどんな意味をもつのか、なんのためなのか。そういうことは、わからない。
青い布へ手を伸ばし、結び目を確かめる。
「俺が帰らなくても」
叔母は、その後ろで黙っていた。
反論はしない。肯定もしない。
ただ、工具袋を持つ手に力を入れている。
中は冷えていた。屋外よりは、風が無くなった分マシだと言えるだろうか。
エイノさんは荷物を床へ置き、手早く薪を組んだ。
火打ち石を打つ音が、部屋の中で小さく響く。
一度目はつかない。
二度目で細い火花が落ち、乾いた繊維へ移った。
小さな炎が、冷えた部屋を照らす。壁には、古い工具が並んでいた。
鋸。
削りかけの木片。
何度も折り畳まれたであろう、折り目が深く刻まれた図面。
その一つには、海船らしい形が描かれている。
何度も何度も書き直されたり、書き足されたりしたのが見て取れる。一体、これを書き上げるのにどれほどの時間をかけたのだろうか。
「……少し見づらいですかね」
「いえ、そんなことは」
「お気遣いなく。自分でも、この船に拘り過ぎたなと、思います」
エイノさんは胸元から灰白色の保護袋を取り出した。
けれど、まだ封は切らない。
作業台の上へ置き、父親が取り寄せた海船の図面を、その隣に広げた。
「開けるところまで、いた方がいいですか」
尋ねてから、違うかもしれないと思った。
「大丈夫です」
「分かりました」
叔母は戸口のそばに立っていた。
中へ入ったのに、作業台までは来ない。
エイノさんの背中と、灰白色の封筒と、まだ火の弱い暖炉を見ている。
「少しだけ、外で待ってて」
少し目を伏せて、彼女は頷いた。
扉の外へ出る前に、床に落ちていた薪を一本だけ拾い、暖炉の横へ置く。
それから、何も言わずに出ていった。
自分たちも外へ出た。重い扉が静かに閉じる。
窓の向こうで、暖炉の光が揺れている。
しばらくして、作業台へ座るエイノさんの影が見えた。
封筒を手に取る。
私たちはそっと踵を返した。その先は、彼だけのものだと思う。気にならないと言えば、嘘にはなるのだが。
北西郵便局へ戻る頃には、空が薄い橙色へ変わり始めていた。
集落の中央広場では、南へ向かう隊商の出発準備が進んでいる。
荷橇へ毛布や食料が積み込まれ、黄褐色の毛を持つ牽引獣が一頭ずつ綱へつながれていた。雪を渡るための幅広い板が車輪の代わりに取り付けられ、御者たちは夜間用の灯火を点検している。
ネルカさんは郵便局の前で、南部行きの郵便袋を隊商の責任者へ渡していた。
「エイノは、まだ?」
「時間までには、来ると思います」
ネルカさんが村の外れへ一度だけ目を向けた。
同じ方を見ると彼らの家の煙突からは、細い煙が上がっていた。
風に崩れながら、それでも途切れず空へ伸びている。
出発を知らせる鐘が、一度鳴った。
広場にいた者たちが荷物を持ち直す。
二度目の鐘が鳴る前に、雪道の向こうからエイノさんが歩いてきた。
叔母と並び、工具袋を肩へ掛けている。
昼間より荷物が一つ増えていた。
細長い革筒が、工具袋の脇へ結びつけられている。
ヨルンさんが取り寄せ、書き込みを残していた海船の図面だった。
灰白色の封筒は見えない。
外套の内側へ収めているのだろう。
エイノさんは荷橇へ向かう前に、私たちのところへ来た。
「読みました」
「そう、ですか」
「ほとんど、船の話でした」
エイノの口元が、僅かに緩んだ。
「私が家に置いていた図面を、父さんも見ていたみたいです。材木の選び方が一つ。帆柱の太さが一つ。金具の位置が一つ。三か所、間違っていると書いてありました」
「……最後まで船大工だったんですね」
「はい。それ以外は、何も。……本当に。」
ただ、昔話でもするかのようだ。それでも、少し声が震えているように聞こえた。
「それでも、何故今日だったのか、それは理解できた気がします」
エイノさんは革筒へ手を置いた。
「父さんが書き込んだ図面も、持っていきます。間違いを直すかどうかは、向こうで自分で決めますけど」
「その方がいいと思います」
アデルが声をかける。少し安堵したようにも見えた。
エイノさんは頷く。
「まぁ、それでも、応援はしてくれるんだなって」
白い息が、夕方の空気へ溶けていく。
「戻ってくるなら、自分で造った船で戻れって」
アデルが小さく息を吐いた。
「随分、難しい帰り方ですね」
「父さんらしいです」
エイノさんは今度こそ、はっきり笑った。
隊商から二度目の鐘が鳴る。
「もう行かないと」
叔母は、工具袋の紐を確かめていた。
革筒の結び目。
外套の前合わせ。
手袋の紐。
一つずつ、まだ直すところを探すように触れていく。
「春まで待てなかったんだね」
叔母が言うと、 エイノさんは少しだけ目を伏せた。
「待たなかったんです」
叔母の手が止まる。
「父さんが、今日の自分に出したから」
広場の向こうで、牽引獣が鼻を鳴らす。
木杯を持っていた子供が、母親の外套の陰からこちらを見ている。
「南は風が違うよ」
「うん」
「海の仕事は、たいへんだよ」
「知ってる」
「知らないよ。まだ」
エイノさんは少し笑った。
「じゃあ、覚える」
叔母はそこでようやく、エイノの顔を見た。
「手紙は」
「持っていく」
「そう」
ただ、叔母の手は最後までエイノさんの外套から離れなかった。
三度目の鐘が鳴る前に、彼は隊商とは反対の方向へ数歩戻った。
広場の端からでも、ヨルンさんの家の前に立つ白い枝が見える。
父親の名札。
国を離れる者を示す青い布。
雪の中で、二つが同じ風に揺れていた。
枝へ向かって、声を張るでもなく言った。
「受け取ったよ」
誰からも返事はない。それでよかったのだろう。
踵を返し、荷橇へ乗り込んだ。
三度目の鐘が鳴った。
牽引獣が歩き出し、橇の底が雪を擦る。
村の者たちは大声で呼び止めたりはしなかった。手袋をはめた手を上げ、それぞれの場所から、南へ伸びる隊商を見送った。
エイノさんも橇の上から手を上げた。
工具袋の脇で、海船の図面を入れた革筒が揺れている。
手紙を読んだからといって、父親との間にあったものが、すべて消えたわけではない。
エイノさんは予定どおり国を離れる。
父親の仕事を継ぐのではなく、自分が造りたい船を造りに行く。
ただ、その旅へ持っていくものが一つ増えた。
隊商が雪原の向こうへ小さくなるまで、自分たちは広場に残っていた。
隣に立つネルカさんが、長く息を吐く。
「春まで、待たせるべきだったのでしょうか」
「私にも、分かりません」
白い枝に囲まれた村を見る。
「でも、今日受け取るかどうかは、エイノさんが決めました」
ネルカさんは何も言わず。隊商の後ろ姿を、最後まで見送っている。
雲の切れ間から、夕暮れの星が一つ見えていた。
その下を、南へ向かう隊商の灯火が遠ざかっていく。
ヨルンさんは、手紙が届く日まで生きることはできなかった。
それでも、手紙は間に合った。
成人した息子が自分の名で受け取り、自分の道へ持っていく。その日のうちに。




