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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter6 春を待たない手紙
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自分の名で

 三日目の朝。


 成人登録所は、北西郵便局よりも小さな建物だった。


 リンドホルム村の中央広場に面し、石壁には雪を払うための長い刷毛が立てかけられている。入口の前には十五人ほどの人が集まり、湯気の立つ木杯を手に、登録を終える二人の若者を待っている。


 祝いの席というには、あまりにも静かだった。


 けれど、誰も急いで仕事へ戻ろうとはしない。


 パン屋の女主人は、まだ温かい黒パンを布に包んでいる。子供たちは雪の上へ二人分の足跡を並べ、村を離れるエイノさんのために、橇へ荷物を積んできた者もいた。


 アルネリアでは、成人登録を終えた者へ、家ごとに小さな品を一つ渡すのだという。


 旅先でなくしても暮らしに困るほどではなく、けれど、あると少しだけ助かるもの。


「大きな贈り物はしないんですね」


 小声で尋ねると、隣にいたネルカさんが頷いてくれた。


「成人した者は、これから自分で必要なものを選べますから。私たちが渡すのは、最初の一日を少しだけ楽にする、そういうものが多いですかね」


 登録所の扉が開いた。


 先に出てきた少女へ、広場から控えめな拍手が送られる。


 その後ろから、背の高い青年が姿を見せた。


 エイノ・カルヴァ。


 毛皮の襟がついた濃紺の外套を着て、片手には工具をまとめた革袋を持っている。髪には、まだ細かな木屑が残っていた。


 登録官から渡されたばかりの木札を、何度か裏返して眺めている。


「おめでとう」


 ネルカさんが言った。


 木札には、エイノさんの名前と成人登録日が刻まれている。


 これまでは父親の署名を必要とした書類へ、今日からは自分一人で名を書ける。


 エイノさんは集まった者たちへ頭を下げた。


 パンや靴紐を受け取り、子供から差し出された歪な木匙には、少しだけ笑った。


 その笑い方を見たとき、初めて、エイノさんが自分たちとそれほど年の変わらない人間なのだと実感した。


 受取人。


 成人登録者。


 南部の造船所へ向かう徒弟。


 記録に書かれていた名前の向こうで、誰かと話し、照れ、両腕へ収まりきらない贈り物を抱えている人だった。


 エイノさんが女性へ荷物を預けたところで、ネルカさんが近づいた。


「エイノ」


「えっと、ネルカさん! 何でしょうか」


「少し、お話がありまして」


 彼は、ネルカさんの後ろに立つ私たちを見た。


 二人の組合章と、リンが持つ郵便鞄へ視線を移す。


「南から……ですかね? なにか旅程に変更でも?」


「いいえ」


 ネルカさんは少しだけ首を横に振った。


「ヨルンからです」


 広場の音が、その一言だけ少し遠くなった。


 彼は目を閉じなかった。


 驚いた様子も見せず、ただ一度、短く息を吐いた。


「父さんから」


「ええ。六日前、あなたの成人登録後に本人限定で渡すよう、北西郵便局へ差し出されました」


「待って」


 先ほど、荷物を受け取っていた女性が口を挟んだ。


 ネルカさんは、すぐには続きを言わなかった。


 エイノさんに靴紐を渡そうとしていた男の手が、途中で止まっている。


 アデルが一歩だけ視線を巡らせた。


 村人たちは騒がない。


 けれど、誰も聞いていないふりはできていないように思う。


「それは、春まで預かるものでしょう」


 女性の声は、そこまで大きくなかった。


 それでも、雪の広場ではよく通った。


 ネルカさんは唇を結んだ。


「本来は、そうです」


 彼女はエイノさんの前へ立つように、半歩だけ移動した。


「冬に亡くなった人の最後の言葉は、春の鐘が鳴るまで家に入れない。この村の決まりです。あなたが一番知っているはずです」


「それは、そうなのですが」


「迷うことなんてありません」


 エイノさんが少し顔を上げる。


「叔母さん」


「冬の間はだめ。ろくなことにならないから」


 短い言葉だった。


「今日、この子は自分の名を持ったばかりです。その日に、父親の最後の言葉まで背負わせるんですか」


 それは、違うんじゃないだろうか。今日だからこそ……。


 叔母の声が、エイノさんを縛ろうとしているのであれば、すぐに口を挟んだかもしれない。


 だが、彼女なりに彼を守ろうと、必死なのだろう。それも、痛いくらいに分かった。


 でも。それでも。


「受け取るかどうかは、エイノさんが決めることでは」


 私が言うと、叔母がこちらを向いた。


「分かってます!」


 声が跳ねた。


 広場が止まった。


 叔母自身も、自分の声に驚いたように息を詰めた。


 それでも、すぐには退かなかった。


「……分かっています」


 言い直す声は、さっきよりも低かった。


「だから怖いんです。この子はきっと受け取る。父親の名を聞かされて、春まで待てるわけがない」


 エイノさんは何も言わず。木札を握る手に、少しだけ力が入っている。


「私は、今日その手紙を開けてくださいとは、言えません」


 白い息が、短く出た。


「受け取ってくださいとも言えません」


 一度、郵便鞄の紐を握った。まだ、手紙は出さない。


「春まで待つこともできます。受け取らないこともできます。けれど、手紙があることを知らないまま待つかどうかを、決めるのは違う、そう思ったんです」


 叔母の眉が、少しだけ歪んだ。


 もう一度息を吸う。今度は、短く。


「伝えるために、私は来たんです」


 風が吹いて、白枝の布が、かすかに鳴る。


 エイノさんが、ゆっくりと叔母を見た。


「叔母さん」


「エイノ」


「春まで待ったらたぶん、後悔しそうだ」


 叔母の口元が、わずかに動いた。


「そんなことで」


「うん……。でも。そんなことだから、大切にしたいんだ」


 ……私は、正しかっただろうか。


「造船所が合わなければ戻る。合えば、三年後も向こうにいるかもしれない。春の鐘が鳴る日に、俺はこの村にいない」


「だからって」


 叔母は言いかけて、止まった。


 言葉の先が、見つからなかったようだった。


 エイノさんは手の中の成人札を見た。


 親指で、名前の彫りをなぞる。


「父さんは、それを知って出したんだと思う」


 誰も、何も言わなかった。


「父さんは、俺が出ていくのを止めなかった。許可も、貰えなかったけど。それでも、今日の俺に用事があるんだ」


 エイノさんは真っ直ぐに、ネルカさんに向き直る。


「手紙は、ここにあるんですか」


「北西郵便局で保管しています」


「では、向かいましょうか」


 叔母が息を呑んだ。


 エイノさんはそちらを見た。


「今日、受け取ります」


 ネルカさんはしばらく、エイノさんを見ていた。


 それから、頷いた。


「分かりました。北西郵便局へ来てください。本人限定郵便です。受領票には、あなた自身の署名が必要です」


 エイノさんは手の中の成人札をもう一度見た。


「今からなら、書けるんだから」


 叔母は何も言わなかった。


 ただ、エイノさんの荷物を抱え直した。


 その手が、少しだけ震えていた。


 北西郵便局へ戻ると、ネルカさんはまず手を洗った。


 冷たい水で指先を濡らし、布で丁寧に拭う。


 それから、暖炉から一番遠い棚へ向かい、灰白色の保護袋を保全板ごと受付台へ運んだ。


 フィオナが包んだ布は、まだ崩れていない。


 雪枝印の面は上を向き、管理票も挟んだ位置からずれていなかった。


 叔母は入口の近くに立っていた。


 中へ入らないわけではない。


 けれど、受付台には近づかなかった。


「本人限定郵便です」


 ネルカの声は、いつもの郵便官のものへ戻っていた。


「受取人、エイノ・カルヴァ。本人確認をします」


 エイノさんは、登録所で受け取ったばかりの木札を机の上に置いた。


 ネルカが刻印を確かめる。


 エイノ・カルヴァ。


 その刻印は、まだ新しい。


「受領票へ署名してください」


 冬の郵便局の空気の中で、指先が少し赤くなる。


 筆を取り、署名欄へ自分の名前を書いた。


 エイノ・カルヴァ。


 最初の線だけ、少し力が入りすぎている。


 それでも、誰の添え書きも必要なかった。


 書類のための言葉なのに、今は少し違って見えた。


 この手紙を、今日、エイノさんが自分の名前で受け取った。


 ただそれだけのことが、何行もの記録になっている。


 風待ち郵便局の仮管理番号。


 東部第四支局の再送印。


 リューデン王国側で発行された事故郵便取扱票。


 アルネリア北西郵便局の受領印。


 いくつもの場所を通ってきた証が、外装へ並んでいる。


「本人限定郵便。エイノ・カルヴァ様」


「……はい」


 エイノさんは泣かなかった。


 封蝋を撫でることも、すぐに開けようとすることもしなかった。


 ただ、手袋を外したまま、手紙の重さを素手で確かめた。


「軽いですね」


「一通ですから」


「いえ、そういうことではなく。もっとこう、感慨深いというか、重いものだと思ってました」


 ……どうやら、言葉を間違えたらしい。隣でアデルが呆れたように深いため息をついた。私が悪いわけじゃないだろうに。


 エイノさんは、手紙を胸元へ入れた。


 外套の上から、一度だけ位置を確かめる。


「ありがとうございます」


「まだ、読んでいませんよ?」


「持ってきてくれたのは、あなた達でしょう」


 エイノさんは私たちを交互に見る。


「それでなければ、今日ここには、無かったでしょうから」

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