父として
北西郵便局の中は、薪の匂いがした。
受付の奥には小さな暖炉があり、その前に濡れた手袋がいくつも吊るされている。壁には、冬道用の地図と、春まで閉じる支線の札が並んでいた。
それとは別に、少し離れた場所にもう一つ、棚があった。
暖炉から一番遠い、窓際の棚。
そこには、白い枝の紋が押された封筒が、いくつも立てて保管されている。
どの封筒にも、開封を防ぐための細い紐がかけられていた。
「ああ、気になりますか? 春待ちの棚、我々はそう呼びます」
私の視線に気づいたらしい。その名前を聞いただけで、その棚にある手紙がどんな意味を持つのか理解できた。
「冬の間に亡くなった人が残した言葉は、春の最初の鐘まで、ここで預かります」
「……差出人へ届くのは」
わかっている。理解している。知っている。それでも、聞かずにはいられなかった。
「雪が溶けたころに」
ネルカさんは、静かに、穏やかに答えた。それだけなのに。なんだか、私と彼女の間に薄く壁が有るように感じた。
「冷たい決まりに、聞こえるのでしょうか」
……少し、態度に出ていただろうか。
「わかりません」
正直に言う。
「雪の有無で、何が変わるのか。それがどんな意味を持つのか。」
そうですね、と短く言って、ネルカさんは頭を悩ませているようだった。
「この村では、冬が長いんです」
ネルカは手袋を外し、受付帳を開いた。
「亡くなった人の最後の言葉を、すぐに届けてしまうと、残された人が冬を越せなくなることがあります。何度も読み返して……。暖炉の前から動けなくなる。畑も、家畜も、子供たちすら残っているのに、春まで生きている人の手が止まってしまう」
暖炉の薪が、小さく爆ぜた。
「だから、春まで預かります。雪が緩んで、最初の鐘が鳴って、白枝を燃やす日に渡す。忘れるためでも、無かったことにするためでも、ありません」
ネルカさんは春待ちの棚を見た。
「生きている人が、この厳しい季節を乗り越えられるように」
何も、答えられない。 正しいかどうかが、問題ではない。
その決まりで、実際に越えてきた冬が、ある。実際に守られた人たちが、いる。
暖炉から一番遠い机に郵便鞄を置いた。急な温度の変化を嫌ってのことだ。
ネルカさんもそれに気づいたらしく、近くの窓を少しだけ開けてくれる。
冷たい空気が入ってくる。やはり、寒いのは好きになれない。
「随分、丁寧に」
「万が一があっては、困るかと」
アデルが答えた。
「助かります」
ネルカさんは恭しく深く一礼する。
それから、管理票を机に置き、受付帳を開いた。
受付印と同じ日付の欄に、ヨルン・カルヴァの名がある。
「受付のときに確認したんですよ?」
いったい、何のことだろうか。
「冬の間に亡くなった者の言葉は、春まで預かるのがこの土地の決まりです。病状を考えれば、成人登録日指定にしても、その日を迎える前に扱いが変わるかもしれない、と」
奇麗な言葉に包んであるが、その言葉の指す意味は……。
「ヨルンさんは、何と?」
ネルカさんは受付帳の端へ指を置いた。
そこに書かれた日付を、少しだけなぞる。
「結構、短気な人なんですけどね。珍しく、怒りませんでした。困ったように俯いて」
橇から降りるのもやっとで、受付台に手をついて、しばらく息を整えていたのだという。
こちらで代筆もできます、とネルカさんは言ったのだと言う。
それでもヨルンさんは拒んだ。
「『これで、最後になるかもしれんから』って」
……最後の言葉くらい、自分の言葉で。文字で。
郵便鞄を見た。灰白色の保護袋は、まだ鞄の中で静かにしている。
「ヨルンは少し笑っていました。笑うのも苦しそうでしたけど」
ネルカの声が、ほんの少し低くなる。
「『春まで待ったら、あいつはもうここにいない』とも」
窓の外で、橇の鈴が鳴った。
「『だから、成人の日にしてくれ。俺の名前じゃなく、代理人の名前でもなく、エイノ自身の名前で受け取れる日に』」
「それから?」
「少し黙っていましたかね」
ネルカさんは受付帳を閉じた。
「最後に、『そこまで生きられるかは分からない。でも、そこまでは父親でいたい』なんて。そんな殊勝なことがいえる人だとは思いませんでしたよ」
誰も、すぐには口を開かなかった。
北西郵便局の外では、雪を踏む音が増えている。
リンドホルム村の昼は、そのまま続いていく。
煙突からは煙が上がり、広場の向こうでは誰かが橇へ荷物を積んでいる。
「ヨルンは、一昨日の明け方に亡くなりました」
その言葉だけは、受付帳を見ずに言った。
聞きたかったことの答えは、もう出ている。
けれど、それを受け止めるのに、少し、時間が欲しい。
「エイノさんは、この手紙のことを知っているんですか」
アデルがついに口を開いた。
「知りません」
「ヨルンが、成人登録が済むまで伏せておいてほしいと言いました。子供として受け取るのではなく、大人として受け取らせたいから、と」
アデルが時計を見る。
「成人登録は」
「三日後です」
「登録が済んだその日の夕方に、エイノは南部の造船所へ発つ予定です」
頷きかけて、止めた。間に合っている。
だからこそ、急いで渡せば済む話ではなかった。
この村では、冬に亡くなった人の言葉を春まで家に入れない。
けれど、ヨルンは生きている間にこの手紙を出した。
エイノが成人した日に、自分の名前で受け取るよう、わざわざ指定した。
どちらも、この土地にある本当のことだった。
「手紙が戻ってきたことを、エイノに知らせるべきかどうか」
窓の外で、橇の鈴がまた鳴る。
「知らせなければ、春まで預かれます」
ネルカさんは続けた。
「この村の決まりどおりに」
「知らせれば、エイノさんに選ばせることになる、ということですね」
アデルはため息をつきながらも、確認をとる。
「ええ、選ばせること自体が、冬の決まりを破るのかもしれない」
ネルカさんの声は静かだった。
規則だけを守る人の声ではなかった。
この村で、人が冬を越すのを見てきた人の声だった。
自分は答えを持っていない。ここでの暮らしを、知らないから
「郵便官としては、あなた方がどう思うのか、なんとなく分かります。本人限定で、成人登録後。差出人の指定も、受取人の期限も明確です」
ネルカさんは受付帳の上に置いた手を、少しだけ握った。
「でも、この村の者としては、まだ分かりません」
リンは黙って聞いた。
「伝えることも怖いんですし」
一度そこで言葉を切る。ネルカさんは項垂れているようにも、見える。
「伝えないことも、怖い」
暖炉の火が、小さく揺れた。
アデルは何も言わずに、窓の外を見ていた。
広場では、村人が白い枝の根元の雪を払っている。
何年も、何度も、同じ冬を越してきたのだろう。
「知らないまま春まで待たせることを、私たちだけで決めていいとは思えません」
正しさではなく、願いが混ざっている。
エイノさんに、知ってほしい。ヨルンさんが手紙を出したことだけでも。
そう思っている自分がいる。
一度、息を吸った。
「でも、受け取るようには言いません。春まで待つこともできます。受け取らないこともできます」
ネルカさんが私を見る。
「ただ、手紙があることを知らないまま待つかどうかを、こちらで決めることはできません」
ネルカさんは返事をしなかった。長い沈黙だった。
風が窓の隙間を鳴らす。
それから、ネルカは受付帳を閉じた。
「私たちがここで伏せると決めることでもないのでしょうね」
困ったようにな笑顔で続ける。
「成人登録の日に、私から時間を取ります。あなたたちも同席してください」
「はい」
「滞在先を用意します。三日後まで、北西郵便局で手紙を保管します」
「私たちもここに?」
アデルが尋ねた。
「できれば。冬道は毎日開くわけではありません。登録当日に国境灯台から来ようとすると、間に合わない可能性があります」
アデルは窓の外を見た。
雪雲は低い。
風は安定しているが、明日もそうとは限らない。
「分かりました」
アデルは頷いた。
「三日間、こちらで待機します」
届けたいという気持ちは、まだそこにある。
待つために、ここにいる。その方が、少し難しいと思える。
「エイノが、自分の名を書き終えてから話しましょう」
ネルカさんが言って、私たちは頷いた。
郵便鞄は、暖炉から遠い机の上で静かに置かれている。
その中で、一通の手紙が、まだ誰にも読まれずに待っていた。




