雪枝の村
翌朝、国境灯台の風見旗は、昨日よりも低い位置で揺れていた。
夜のうちに雪は止んだみたいだ。
ただ、空は白く曇り、遠くの山並みは半分ほど雪煙に隠れていた。
アデルは発着場へ出ると、借りた風標図と自分の地図を並べ、しばらく見比べていた。
私はその横で、郵便鞄の冷却布を確かめる。
布はまだ冷たい。
中の保護袋も、昨日の状態を保っている。
「どう? 行けそう?」
「行ける」
アデルは地図を畳んだ。
「ただし、灯台を出てすぐ高度を落とす予定、上へ行くと西風が強そうかな。北西郵便局の手前で一度、川筋へ降りる」
「了解」
「途中で雪が巻いたら、私の右後ろ。離れすぎないで」
「うん」
アデルはそこまで言ってから、リンの郵便鞄を見た。
「手紙、大丈夫?」
「フィオナの保全だから、大丈夫だと思う」
「リンは?」
「私も、大丈夫!」
アデルはすぐには返事をしなかった。
その代わり、リンの外套の留め具を一つ指で示した。
「……そこ、開いてる」
「あ」
本当によく気が付く。留め具を慌てて閉じた。
冷たい金具が指先へ当たる。
「ありがと」
「ほんと、気を付けてよね」
私たちは箒へ跨がった。灯台の職員が、薄く氷の張った鐘を一度だけ鳴らす。
低い音が雪の上を滑っていく。それを合図に白い空へ飛び出した。
アルネリア公国の冬道は、リューデンの風路とはまた違う引かれ方をされているようだった。
空を真っ直ぐ切る道ではない。雪の積もった尾根を避け、凍った川筋へ沿い、時々、針葉樹の森の上を低く抜ける。
高く飛べば早いんだろう。けれど高く飛びすぎれば、白い雲と雪煙の境目が分からなくなる。
気温も今より低くなるのだから、体にかかる負荷も大きくなり、着氷が出る危険性も上がる。
アデルは速度を出さなかった。
その代わり、地形の折れ目ごとに、小さく進路を変えていく。
後ろから、その線を追った。既存風路がすべて、頭に入っているのだろうか。
昨日、灯台で飲んだスープの温かさは、もう身体から抜けていた。
指先は冷たい。頬も痛い。
それでも、郵便鞄へ手を添えると、中にある一通が、私を奮い立たせてくれる。
誰にとって、どんな意味を持つものなのか、私は確かに知らない。
分からないまま、飛んでいる。それが郵便の仕事なのだと、分かっている。
けれど今日は、分からないことが少し苦しいように思えた。
昼前、森が途切れた。
雪に覆われた低い谷の奥に、リンドホルム村が見えた。
黒い屋根。
煙突から上がる白い煙。
広場の中央に立てられた、枝のない白い木。
その枝には、いくつもの木札と白い布が結ばれている。
それだけではなかった。
村の外れにある何軒かの戸口にも、細い白枝が掛けられている。
枝の先には、名前を書いた木札。
白い布。雪を払った跡。
村人たちはそこを通るときだけ、声を少し落としているようだった。
「あれが北西郵便局のある村」
アデルが着陸準備に移る信号弾を打ち上げる。大きな音と共に、頭上に黄色の花が咲く。
「発着場は?」
「広場の東。煙が二本上がってる建物」
視線を向けた。石造りの、背の高い建物。
屋根の上には、雪を払ったばかりの発着台がある。細い旗が立ち、白地に青い枝の紋が描かれていた。
二人が降りると、発着台の入口から一人の女性が出てきた。
厚手の外套を着た、三十代後半ほどの郵便官だった。髪は後ろでまとめられ、手袋の上からさらに毛皮の指当てをつけている。
「郵便組合の方ですね」
「はい。リューデン王国、東部第四支局所属のリネット・ファルンです」
「同じく、アデル・クロイツです」
「ネルカ・オルセン。アルネリア北西郵便局の郵便官です」
探していた当人が出てくれたのは、正直助かる。
ネルカは二人の組合章を確認し、リンの郵便鞄へ視線を落とした。
「この時期に、国境灯台から来る便は珍しいですね」
「おそらく、風路事故に遭った手紙を届けに来ました」
郵便鞄から保全袋を出さず、管理票だけを差し出した。
「宛名は、エイノ・カルヴァさん。差出人は、ヨルン・カルヴァさん。本人限定、成人登録日までの期限指定です」
ネルカは手袋を外し、素手で管理票を受け取った。
冬の空気の中で、指先が赤くなる。
それでも、文字を読む手つきは丁寧だった。
差出人名の上で、指が止まった。
「……ヨルンの手紙ですね」
声が、ほんの少し小さくなった。
「こちらで受け付けた郵便ですか」
「ええ」
ネルカは管理票の受付印を見た。
「私が、受け付けたんです」
発着台の下で、誰かが雪を払う音がした。
木の柄が石に当たり、乾いた音を立てる。
「ヨルンが、自分で持ってきました。歩ける状態ではなかったので、近所の人に橇を引いてもらって」
ネルカの指が、管理票の端を押さえる。
「その日の冬季便に載せました。本来なら、国境側の中継所へ一時保管のため輸送される手はずでした」
「でも、事故に」
「ええ。ほかの輸送袋は確認できたのに、この一通だけが見つからなかった」
手に少し、力が入る。郵便鞄の紐を握った。
届くはずだった場所へ届かず、誰にも開かれず、誰にも返されず、風待ち郵便局まで流れ着いた一通。
管理票に書かれた名前が、雪の中を橇で北西郵便局まで来た一人の人間になる。
「そのとき、ヨルンはもう、長くないと分かっていました」
ネルカは管理票を閉じた。
「中で話しましょう」
そこで一度、言葉を切った。
広場の中央で、白い枝に結ばれた布が揺れている。
「外で長々とできる話では、ありませんから」




