どうせなら、二人で
国境灯台へ向かう午後便は、低い雲の下を西へ進んだ。
冬の風は硬い。
箒の穂先へ当たるたび、細かな氷がぱちぱちと弾ける。頬よりも、指先のほうが先に冷えていく。
外套の内側へ手を入れ、郵便鞄を引き寄せた。冷却布はずれていない。留め具もそのまま。
触れて確かめてから、もう一度押さえる。
少し前を、アデルが飛んでいる。
さっきから速度が変わらない。
風が強くなっても、弱くなっても、同じくらいの距離が空いたまま。追おうと思えば追える。けれど、追わなくても置いていかれない。
正直助かるのだが、少し不安もある。
「これ、間に合いそう? もっと急いだほうがいい?」
「大丈夫!」
それだけで話は終わった。
空の下に目を移すと、雪に覆われた森がどこまでも広がっている。
針葉樹の黒い枝が、白い地面へ細い影を落としていた。
遠くの村では、煙突から薄い煙が上がっている。
誰かが暖炉に薪を足しているのか。
誰かが夕食の支度をしているのか。
リンは郵便鞄へ手を添えた。
中にある一通は、まだ何も言わない。
それでも確かに、誰かの明日へ向かっている。そう、信じている。
国境灯台へ着いた頃には、空の色が暗くなり始めていた。
灯台と呼ばれてはいるが、建物は石造りの中継所に近い。冬のあいだだけ使われる小さな郵便宿舎が併設されており、発着場の端には、凍りついた風見旗が何本も並んでいた。
アデルは到着するとすぐ、灯台職員と一緒に翌朝の予定経路にあたる風標を確認しに行った。
自分は荷物を宿舎の部屋へ運び、郵便鞄の冷却布を点検し、報告用の仮記録を書いた。
それが終わっても、アデルは戻ってこなかった。
……何も、することがない。
食堂の窓の外は、もうほとんど夜だった。窓の外に移る建物は、皆、背が高く、屋根の傾斜が強い。少し、見慣れない形をしている。
随分、遠くに来たものだ。
細かな雪が、灯台の光を受けて白く浮かんでいる。
自分の前には、湯気の立つスープが二つ置かれていた。
豆と干し肉を煮た、少し塩気の強いものだった。器の横には、固い黒パンが添えられている。
スプーンを持ったまま、ただ、手持ち無沙汰に座っていた。
「食べないのかい?」
そんな自分をずっと見ていたのだろうか。食堂係の老女に厨房の奥から声をかけられた。
「連れが戻ってから」
「冷めるよ」
「温め直せますか」
「まぁ、できなくはないがね」
「じゃあ、待ちます」
老女は妙な顔をしたあと、笑った。
「変な子だね」
「よく言われます」
「そうだろうね」
いやいや。私たちは初対面じゃないか。
自覚はある。あるんだけれども。私が言いたいのは、そういうことではない。
扉が開いたのは、それからしばらくしてだった。
冷たい風と一緒に、アデルが入ってくる。
外套の肩には雪が積もり、髪の端も少し濡れていた。手には、灯台職員から借りたらしい古い風標図を持っている。
「遅くなっちゃった」
「大丈夫そう?」
「うん、ここ最近は気温が高い方で、着氷はしないみたい」
少し、安心する。氷が付着することで、知らず知らずのうちに重心が偏ってしまう。
気づいて落とせればよいのだが、それを怠って事故に遭うものも毎年必ず出る。
それから食堂係の方へスープを二つ、持っていく。
「すみません。温め直してもらえますか」
「あいよ」
老女は鼻で笑い、二つの器を持って奥へ下がった。
アデルは椅子へ腰を下ろし、手袋を外した。
指先が赤くなっている。
「食べてなかったの?」
ええ、ごもっともで。
「どうせなら、二人で食べたかったから」
「そっか」
てっきり、からかわれると思った。でも、意外なほど素直に、アデルは少しだけ黙った。
外で雪を受けてきた耳の先が、灯りの下でより赤く見えた。
「嫌だった?」
「嫌じゃない、よ」
返事は早かった。それから、アデルは目をそらし、風標図を机の端へ置いた。
「明日の道、少し変える。北側の尾根は凍結で使えない。灯台の人が、古い巡回路を教えてくれた」
「そんな急に変えて平気? 変えなくとも時間はあるんだし」
「着氷は出てないんだけどね。風が強いみたい。吹雪の中、飛びたい?」
「絶対に嫌!」
好き好んで飛びたい、と言う奴が居れのであれば、顔が見てみたい。
「だから、何とかならないかって話してたんだよね」
なるほど、と腑に落ちた。同時に少し、自分が小さくなったように感じる。
スープが戻ってくる。器に触れて確かめる。温かい。
席に戻って、アデルに渡す。短く
「ありがと」
とだけ。それで十分だと思う。
黒パンを小さく割り、スープへ浸して、 パンが柔らかくなるのを待った。
アデルも同じように黒パンを割り、スープへ沈める。
しばらく、二人は黙って食べた。
食堂の窓の外では、灯台の光が雪を照らしている。
郵便鞄はリンの足元に置かれていた。
その中に、成人登録日までに届けるよう指定された一通がある。
急がなければならない。
けれど、今ここで急いでも、夜の雪道は開かない。
スープを一口。少し塩辛い。
温め直したせいか、豆は少し崩れていた。
「次も、待つ」
アデルが顔を上げる。
「何の話?」
「ご飯」
「……毎回?」
「たぶん」
「先に食べてもいいよ」
「知ってる」
「知ってて待つの?」
「うん」
アデルはスプーンを見つめた。
何か言おうとして、やめる。
その代わり、スープへ浸した黒パンを口へ運んだ。
「しょっぱいな」
「うん」
「でも、悪くない」
「うん……!」
少しだけ笑った。その夜、二人は早めに眠った。
明日の朝には、アルネリアの冬道へ入る。
風待ちから流れ着いた一通を、誰がどう受け取るのか。
まだ、何もわからない。
それでも、ここの食堂でアデルと飲んだ温いスープの味は、私の中に。




