受け取り期限②
坂を下り始めてから、エルナがリンの隣へ並んだ。
「確認票、引っ込めたわね」
周囲に人がいないため、口調はすでに普段のものへ戻っている。
「署名する気がないように見えましたからねえ」
「受け取りを拒否してたのに?」
「言葉では。でも、内容を何度も聞いたし、返送される日ばかり気にしていましたし……」
「それで?」
リンは少し考えてから、坂道の先を見た。
「本当に返したい人は、あんなに期限を気にしないと思ったんです」
「なるほど」
「素直になれない人の背中を、ほんの少しだけ押すのも……配達魔女の仕事かなって」
「ずいぶん立派なことを言うのね」
「駄目ですか?」
「最初から保管制度を教えなかったのは?」
リンは一瞬黙り、それから気まずそうに目を逸らした。
「本当に返したいなら、署名できると思ったので……、えへ」
「やっぱり意地が悪いじゃない」
「意地悪じゃありません!」
リンは少しだけ唇を尖らせた。
「ちゃんと、意思を確認しただけです!」
「はいはい。そういうことにしておく」
「本当ですよ?」
「分かってる。あなたが思ってるのとは違うところで」
「それ、どういう意味ですか」
「自分で考えなさい」
「エルナさん、時々そうやって逃げますよね?」
「便利なのよ、先輩という立場は」
エルナは楽しそうに少し先を歩いていく。
リンは納得していなかったが、その背中を追う足取りは、家へ向かっていたときよりもわずかに軽かった。
郵便取扱所へ戻ると、リンは書留を保管棚へ収めた。
棚の内側には、一通ごとに小さな区画が設けられている。封筒の端へ受取期限を記した札を結び、記録簿へ保管開始の時刻を書き込む。
格子戸を閉める前に、リンは封筒へ結ばれた配達記録票をもう一度見た。
十二年間、手紙はここへ着くたび、日が暮れるよりも早く帰路へついた。
今回の封筒は、十三度目の帰り道へ向かわず、赤い屋根の下で初めて足を止めている。
七日後にどちらへ向かうのかは、まだ誰にも分からない。
けれど、待つこともまた、手紙の旅の一部なのかもしれなかった。
「そろそろ行くわよ」
エルナが懐中時計を見せる。
「はい」
リンが格子戸を閉めようとしたとき、取扱所の扉が勢いよく開いた。
振り返る。
入口に立っていたのは、オルトだった。
坂を下りてきたはずなのに、急いだ様子を見せまいとしている。ただ、いつの間にか額へ浮かんでいた汗と、肩や髪に残った木屑だけが、作業を投げ出して家を出たことを隠しきれずにいた。
「まだあるか」
息を整えるより先に、オルトが尋ねてきた。
「何がでしょうか」
「分かってるだろう」
「保管中の書留であれば、こちらにあります」
リンが答えると、オルトは不機嫌そうに眉を寄せた。
「七日も置かれたら邪魔だ」
その光景を老局員が目を丸くしながら眺めていた。同時に、ついにこの日が来てくれたか、と言わんばかりの、暖かい光が、その瞳から感じられた。
「棚には余裕がありますが」
リンが答えると、オルトの眉間の皺がさらに深くなった。
「そういう話じゃない」
「では、どういう話でしょうか」
「……本当に面倒な娘だな、あんたは」
オルトは窓口まで歩き、差し出された受取票を引き寄せた。
署名欄の前で、一度だけ手が止まる。
それでも今度は、紙から目を逸らさなかった。
ペン先が古い木の机を擦る。
オルト・ハルマン。
十二年間、書かれることのなかった受取人の署名だった。
リンは保管棚を開け、封筒を取り出した。
「ご本人の署名を確認しました。こちらをお渡しします」
オルトは、すぐには手を伸ばさなかった。
封筒の表面にある弟の名前を見つめ、それから覚悟を決めたように受け取る。
「受け取るだけだ」
「はい」
「読むとは言ってない」
「受け取ったあとのことは、オルトさんが決めることです」
その答えが気に入ったのかどうか、老人の顔からは分からなかった。
オルトは封筒を二つに折ろうとして、途中で手を止めた。
結局、折らずに作業着の胸ポケットへ入れる。
封筒は少し大きく、白い角がポケットから覗いた。
「世話をかけたな」
誰へ向けた言葉なのか分からないほど、小さな声だった。
「いいえ」
リンは、今度こそ素直に笑った。
「これで、配達は完了です」
オルトはそれ以上何も言わず、取扱所を出ていった。
窓の外を、背の高い後ろ姿がゆっくりと坂へ向かっていく。
十二年間、手紙はあの坂を下って帰っていた。
今日初めて、受取人と一緒に坂を上っていく。
リンは、その姿が家々の向こうへ消えるまで見送った。
胸の奥に、温かなものが広がっている。
手紙を受け取ったことで、オルトが救われるかどうかは分からない。封を切り、書かれている言葉を読んで、かえって傷つくかもしれない。
それでも、送り返すことしかできなかった十二年間が、今、ほんの少しだけ別の方向へ動いた。
その瞬間へ立ち会えたことが、リンには嬉しかった。
「よかったわね」
隣でエルナが言った。
リンは、すぐには頷かなかった。
「まだ、読むかは分かりませんし」
「そうね」
「読んで、後悔するかもしれないし」
「そうね」
「だったら、よかったって決めるのは早いです」
エルナは少しだけ笑った。
「それでも、嬉しいんでしょう?」
リンは窓の外へ顔を向けたまま、胸の前で郵便鞄の紐を握った。
「……はい」
誤魔化しても仕方がない気がした。
「かなり、嬉しいです」
「素直でよろしい」
「子供扱いしてません?」
「今日はしてないわよ」
リンは疑わしそうにエルナを見たものの、口元に浮かんだ笑みまでは隠せなかった。
郵便鞄を肩へ掛け直す。
先ほどまでよりも、少しだけ軽くなったように感じた。
この仕事が好きだ。
誰かの代わりに答えを決めることはできない。手紙に書かれた言葉が、必ず誰かを幸せにするとも限らない。
それでも、選べる場所まで運ぶことはできる。
閉じられた扉の前へ、一度だけ、別の道を置くことができる。
リンが郵便魔女であることに誇りを感じるのは、きっと、こういう瞬間だった。




