受け取り期限①
さらに二日が過ぎた。
風待ち郵便局からの手紙を受け取ってから、三日後の朝。
北方第六風路には、普段と変わらない風が流れていた。
高い空には薄い雲が幾筋か浮かび、その下を旅客船や貨物船が一定の間隔を保ちながら行き交っている。船体の側面に掲げられた旗が朝日に揺れ、行き先を告げる信号笛が、時折遠くの山へ反響した。
午後二時四十分から該当区間を閉鎖することは、各管理塔へ通達されている。それまでは通常運航であり、リンとエルナも午前中は、北方第六風路沿いの町へ郵便物を届ける任務についていた。
リードという、川沿いの小さな町だった。
なだらかな斜面に石造りの家々が並び、町の中央を流れる川では、水車がゆっくりと回っている。川辺には洗濯物が長い紐へ干され、石鹸の匂いと、製材所から流れてくる木の香りが、朝の風の中で混じり合っていた。
着陸場のそばには赤い屋根の郵便取扱所があり、丸眼鏡をかけた老局員が、二人の姿を見つけるなり大きく手を振った。
「いやあ、来てくださって助かりました。今日は一等郵便魔女さんまでご一緒ですか」
「通常の配達ですから、お気になさらないでください」
人前に戻ったエルナは、リンに対しても公的な距離を保った口調を使っている。
老局員は何度も頷きながら、窓口の奥から一通の封筒を取り出した。
「こちらが、受取人確認の必要な書留です。例のハルマン兄弟の」
「例の?」
リンが尋ねると、老局員は待っていましたとばかりに眼鏡を押し上げた。
「オルト・ハルマンさんと、弟のレオン・ハルマンさんです。昔は二人で家具工房をやっていましてね。兄さんが削って、弟さんが組み立てる。町の教会の長椅子も、宿屋の食卓も、ほとんどあの兄弟の作だったんですよ」
封筒は新しい。
けれど、その紐へ括りつけられた細長い配達記録票には、過去十二通分の赤い返送印が並んでいた。古い印は薄く褪せ、新しいものほど濃い。十二個の四角い枠が、一年ずつ積み重なっている。
受取人はオルト・ハルマン。
差出人はレオン・ハルマン。
「十二年前に大喧嘩をして、弟さんが町を出ました。それから毎年、一通ずつ手紙が届く。けれどオルトさんは、その日のうちに送り返してしまうんです」
老局員は記録票の端を指で撫で、困ったように笑った。
「押すほうだって、気分のいい印じゃありませんよ。毎年、同じ名前の横へ受取拒否と残すんですから」
リンは封筒を受け取った。
十二年前なら、リンはまだ八歳だった。
箒にも乗れず、郵便魔女になることさえ決めていなかった頃から、毎年一通の手紙がこの町へ届き、同じ坂を上り、同じ扉の前で拒まれ、来た道を戻っていた。
封筒は毎年違っていても、そこに書かれた言葉は、前年の続きだったのかもしれない。
一年分ずつ増えていく、届かなかった時間。
十二個の返送印は、その時間を小さな赤い枠へ閉じ込めているように見えた。
「今回は、公証人からですね」
差出欄を確認したリンが言うと、老局員は笑みを消した。
「レオンさんが、二か月前に亡くなったそうです。遺品の中から、この手紙が見つかったと」
「内容はご存じですか」
「まさか。たとえ知っていたとしても、こちらからは言えませんよ」
「そうですね」
「ただまあ、最後くらいは受け取ってほしいというのが、人情じゃありませんか。死んでしまっては、もう次の手紙も来ないでしょうし」
リンは返事をせず、封筒を郵便鞄へ収めた。
最後の手紙だから受け取るべきだと、郵便魔女が決めることはできない。
亡くなった人間の言葉が、生きている人間の拒絶より重いとも限らなかった。
ただ、この封筒が十二年間の往復を終えられるかどうかは、今日、坂の上にいる一人の老人が決める。
「ファルンさん、お願いします」
エルナが言った。
「はい」
オルト・ハルマンの家は、町の北側にある坂の上へ建っていた。
母屋の隣には古い作業場があり、開け放たれた窓から、鉋が木の表面を滑る乾いた音が聞こえてくる。その音は規則正しく、玄関扉を三度叩くまで、一度も途切れなかった。
しばらくして扉を開けたのは、背の高い老人だった。
白い髭は短く整えられていたが、捲り上げたシャツの袖や髪には細かな木屑がついている。扉は半分ほどしか開かれず、老人の身体が、家の中を守るように隙間を塞いでいた。
オルトはリンの顔より先に、肩から下げた郵便鞄を見た。
「いらん」
「まだ何も申し上げていません」
「言わなくても分かる。毎年、同じ鞄で来る」
リンは身分証を示した。
「国際郵便組合、東部第四支局のリネット・ファルンです。オルト・ハルマンさんでお間違いありませんか」
「そうだ」
「レオン・ハルマンさんからの書留郵便です」
「いらんと言った」
「受取拒否でよろしいですか」
リンが確認票を取り出すと、老人は露骨に顔をしかめた。
「また署名か」
「ご本人の意思を確認するために必要です」
「十二年も断ってる。今さら何を確認する」
「今回の郵便物については、まだ確認していません」
「同じだ」
「差出手続きが異なります」
オルトの視線が、確認票からリンの顔へ動いた。
「何が違う」
「今回は、レオンさんの遺言を管理する公証人から差し出されています」
扉へかけられた老人の手が、わずかに強く握られた。
「レオンさんは、二か月前に亡くなっています」
「ああ」
驚いた様子はなかった。
視線だけが郵便鞄へ戻り、革の留め具をじっと見つめている。
「ご存じでしたか」
「町を出ても、噂くらいは来る」
「では、受取拒否として処理しますか」
「死んだなら、なおさらいらん。返事をしたって、あいつには届かない」
「返信の有無は、受け取りの条件ではありません」
「そういう話をしてるんじゃない」
「では、どういう話でしょうか」
老人はリンの顔を見つめた。
腹を立てたというより、思いがけない場所で足を止められたような顔だった。
「……あんた、面倒な娘だな」
「必要な確認です」
後ろでエルナが小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれないが、リンは振り返らなかった。
確認票を差し出す。
「受け取りを拒否される場合は、こちらへ署名をお願いします」
オルトは紙を見たまま、手を伸ばさなかった。
リンも急かさず、差し出した姿勢のまま待った。
風が坂を上り、玄関脇へ積まれた薄い木片を揺らす。作業場の窓辺には作りかけの椅子の背が並び、そのうちの一本だけ、古い木材を継ぎ足した跡があった。
「中に何が書いてある」
やがてオルトが尋ねた。
「確認していません」
「見てないのか」
「オルトさん宛ての郵便物です」
「公証人は何も言わなかったのか」
「郵便物の内容は、差出人と受取人のものです」
「融通が利かん仕事だな」
「秘密を守るためです」
「死んだ人間の秘密までか」
リンは封筒の収められた鞄へ手を添えた。
「受け取る方は、生きています」
オルトは何も言わなかった。
そのまま確認票へ署名をするのかと思ったが、指は扉から離れない。拒むと言いながら、郵便物を送り返すために必要な最後の一動作だけを、これまでのようには行えずにいる。
リンは差し出していた確認票を、ゆっくりと手元へ戻した。
「今日、返してしまっても構いません」
オルトの眉が動く。
「でも、今日決めなくても構いません」
「どういう意味だ」
「町の郵便取扱所で、七日間保管できます。その間であれば、ご本人の署名によっていつでも受け取れます。期限を過ぎた場合は、差出人の代理人へ返送します」
「七日」
「はい」
「八日目には戻るのか」
「返送手続きに入ります」
「読まなくても?」
「はい」
「取りに行かなければ、それで終わりか」
「受取期限を過ぎたという記録が残ります」
オルトは坂の下を見た。
家々の屋根の間に、赤い郵便取扱所の屋根が小さく覗いている。
「家に置いていけ」
「できません」
「俺宛てなんだろう」
「まだ受領されていません」
「本人がここにいる」
「受け取るという意思を、まだ確認できていません」
老人は苛立ったように舌を鳴らしたが、その視線は坂の下の赤い屋根から離れなかった。
「あいつも、最後まで面倒なものを残しやがる」
その言葉が弟へ向けられたものなのか、自分へ向けられたものなのか、リンには分からなかった。
「七日だったな」
「はい。七日後の日没までです」
「そこへ置いておけ」
「保管扱いでよろしいですか」
「受け取るとは言ってない」
「承知しています」
「返せとも言ってない」
「それも承知しています」
オルトは何かを言いかけ、結局口を閉じた。
扉がゆっくりと閉まり、内側から鍵のかかる音がする。その直後、作業場から鉋の音が再び聞こえてきたが、先ほどまでのような一定の間隔には戻らなかった。




