四十二年前の手紙②
会議室を出たあと、エルナは人の出入りが途切れた廊下まで歩いてから、急に足を止めた。
「二十八まで使ったの?」
先ほどまでの公的な敬語は、もう消えている。
「戻るために必要だったので」
「それは数字を見れば分かる。どうして、そこまで減るかもしれない飛び方をしたのかって聞いてるの」
「往路を打ち切る基準は五十にしてましたよ、村に着いたときは五十六もあったし、むしろ余力を残したくらいです」
「その確認が甘いの。帰りも同じ痕跡が残ってる保証なんてなかったでしょう。天気が崩れるかもしれない。現行風路を消した異常が、旧風路にまで広がる可能性だってあった」
「でも、残ってました!」
「今回はね」
リンは唇を尖らせた。
自分でも子供っぽいとは思う。けれど、何も考えずに飛び込んだように扱われるのは面白くなかった。旧風路の流れ方を見れば、まだ戻れると判断できた。それを他人に納得できる形で説明できないだけで、自分なりの根拠はあった。
「じゃあ、どうすればよかったんですか」
「一人で行かない」
「一緒に来られる魔女なんて、あの塔にはいませんでした」
「支局へ連絡して、救援を待つ」
「それこそ、旧風路の痕跡が消えたかもしれないじゃないですか」
「そうね」
あまりにもあっさり認められ、リンは勢いを削がれた。
「だったら、あの手紙は届けられなかったかもしれない」
「その可能性はある」
「じゃあ――」
「でも、あなたが落ちたら、次は誰が消えた風路を追うの?」
リンは口を閉じた。
エルナは窓の外を示した。
支局の中庭では、行き先ごとに分けられた郵便鞄が、次々と箒へ取り付けられている。一つの鞄を固定するだけでも、必ず二人以上の係員が封印と留め具を確かめていた。
「消えた風路の痕跡を拾えるのは、あなた一人。そこに箒が通れるだけの流れが残っているか分かるのも、あなたしかいない」
エルナは、まっすぐリンへ向き直った。
「その一人が、救援も待たずに飛んでどうするの」
「知らせなかったわけじゃありません。中継塔の記録簿には、行き先も帰投限界もちゃんと――」
「記録簿は、落ちたあなたを拾いに来てくれない」
リンは言葉に詰まり、ますます唇を尖らせた。
「私にしか見えないんだから、私が行くしかないじゃないですか」
「行くなとは言ってないでしょう」
「でも、待てって言ったじゃないですか」
「一人なら待てと言ったの。二人になったら行けばいい」
「待ってる間に消えたら?」
「そのときは、あなたと一緒に悔しがる」
「悔しがったって、手紙は届きません」
「あなたが死んでも届かないわよ」
強い言葉だった。
けれどエルナの声は静かで、叱りつけるというより、どうにか分かってほしいと願っているように聞こえた。
リンは鞄の留め具を弄りかけ、やめた。
「あの人は、十六年も待ってたんです」
「分かってる」
「これ以上待たせたら、次にいつ届けられるかも分からなかった。道は目の前にあって、私には見えてて……だったら、行くしかないって思ったんです!」
「それも分かってる」
「じゃあ、どうしてそんなに怒るんですか!?」
思っていたよりも、幼い声が出た。
リン自身が少し驚いたが、もう引っ込めることはできなかった。
エルナも一瞬だけ目を丸くし、それから困ったように息を吐いた。
「あなたが、自分にしかできないことばかり考えて、自分にしかできないからこそ、帰らなきゃいけないことを、全然考えないんだもの」
その言葉は、声の強さよりも深く、胸へ落ちた。
自分にしか見えない道だから、自分が行かなければならない。
昨日は、それだけを考えていた。
けれど、自分が道を見つける役なら、周囲を警戒する役も、帰り道を確かめる役も、別にいてよかった。
風を読み、魔力計を見て、天候を警戒しながら、消えかけた痕跡まで一人で追っていたせいで、何度か旧風路を見失いかけたことも思い出す。
「私が道を見つけて、私が先を飛ぶ。それは、間違ってないですよね」
「そこは間違ってない」
エルナは即答した。
「あなたが先を飛ばなきゃ、誰も旧風路へは入れない。でも、後ろまで一人で飛ぼうとしないで」
「後ろまで?」
「あなたが痕跡を見失ったら止める人。魔力が尽きたら引っ張る人。あなたが前ばかり見てる間、残量と帰り道を見る人」
エルナは指を一本ずつ立てた。
「あなたにしか道が見えないなら、あなたには道を見ることへ集中してもらわないと困るの。全部一人で抱え込まれたら、かえって仕事にならない」
リンは少し黙った。
納得した、と素直に言うのは悔しい。
けれど、反論を探し続けるのはもっと悔しかった。
「……次は、ちゃんとやります」
「ちゃんと、って?」
「一人で決める前に、エルナさんに相談します」
「よろしい」
「でも、来てくれなかったら一人で行きます」
「行かせないわよ」
「ほら。やっぱり怒るじゃないですか」
「今さら気付いたの?」
「エルナさん、私が何を言っても怒る気がします」
「何を言っても怒られるようなことをしなければいいの」
「それが難しいんです」
「自覚はあるのね」
エルナは先に歩き始めた。
リンはその背中を追いながら、ほんの少しだけ頬を緩めた。




