四十二年前の手紙①
四十二年前の消印を持つ手紙は、翌朝には三重の袋へ封じられていた。
外側からの魔力干渉を遮断する銀糸入りの保護袋。その上を覆う、開封の有無を記録するための封緘袋。最後に、国際郵便組合の紋章が印刷された、厚手の移送用封筒。
それぞれに異なる管理番号が振られ、封をした者と、それを確認した者の署名まで添えられている。
今、それは東部第四支局の会議室、その長机の中央に、誰も素手では触れようとしない異常郵便物として置かれている。
リンは机の端に腰掛けたまま、三重の封の向こうにある便箋を見つめていた。
昨日、中継塔から支局へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。自力で飛んで帰れると申し出たものの、風路管理官はまるで取り合わず、定時巡回に来た小型艇へ、リンと箒をまとめて押し込んだ。
中継塔へ戻った時点で残っていた魔力は、二十八パーセント。
通常の風路へ乗るだけなら、支局へ辿り着けない数字ではなかった。けれど、昨日まで存在していた道が突然消えるような状況で、再び空へ出ようとするのは無謀だと叱られれば、さすがのリンにも反論の余地はない。
身体は休めたはずなのに、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに思い浮かんだのは、十六年遅れの手紙を胸へ抱いたミラの姿と、その帰り道で、空だったはずの鞄から見つかった白い封筒だった。
郵便鞄の封印は破られていなかった。
誰かが手紙を入れたところも見ていない。
古い風路を辿ったあとに、四十二年前の郵便局からの手紙が現れた。
分かっているのは、それだけだった。
「紙とインクは、四十二年前に製造されたものと見て間違いありません」
灰色の髪を短く切り揃えた女性が、鑑定課から届いた報告書を読み上げた。
エルナ・ヴァイス。
東部第四支局に所属する一等郵便魔女で、風路事故が起きた際には、現場での調査や運航判断を任されることも多い。
制服の襟元から袖口まで乱れはなく、机の上へ並べた書類の角まで、きれいに揃っている。けれど右手の人差し指には、消えきらない古い火傷の跡があった。
その傷だけが、彼女も机の上で報告書を読むだけの人間ではなく、空の上で何度も危険を経験してきた郵便魔女なのだと物語っている。
「消印と受付印も、当時使用されていた正式なものです。押印後に封筒へ細工が施された痕跡はありません。宛名だけが後年に書き加えられた可能性についても、鑑定課は否定しています」
「つまり、本当に四十二年前の郵便局が、まだ生まれてもいない郵便魔女へ手紙を出したと」
東部第四支局長、オスカー・レーヴェンが、冷めた珈琲の表面を眺めながら唸った。
五十を過ぎた大柄な男で、かつては長距離便の郵便魔法士だったという。今では箒へ跨がることはほとんどないらしいが、椅子に座っていても肩幅の広さは隠れず、机の向こう側が少し狭そうに見えた。
「そこまでは断定できません」
エルナは報告書から目を上げた。
「確認できたのは、この封筒と消印が四十二年前のものであることです。いつ、どのような方法でファルンさんの鞄へ入ったのかは不明です」
「常識的な説明は?」
「今のところありません」
「少しは上司を安心させようと思わないのか」
「報告書に書かれていないことを付け足すほうが、よほど不安ではありませんか」
「朝から容赦がないな、ヴァイス」
オスカーは珈琲を口へ運び、その冷たさに顔をしかめてから、机の端に座るリンへ視線を向けた。
「ファルン。昨夜の報告と重なるが、もう一度確認する。その手紙が鞄へ入ったところは見ていないんだな?」
「見ていません」
「フォルク村で書留を取り出したあとは?」
「その場で鞄の封を閉じました。帰路では一度も開けていません」
「誰かに預けたか?」
「いいえ。村で休んでいる間も、手の届くところに置いていました」
「居眠りは?」
「飛行中に眠れるほど器用ではありません」
オスカーが眉を上げた。
「冗談も言えるのか」
「事実を申し上げただけです」
「そういうことにしておこう」
昨夜から何度も繰り返した質問だった。
どれだけ記憶を辿っても、答えは変わらない。
フォルク村で十六年前の書留を取り出したあと、鞄は確かに空だった。留め具を閉じ、封印が正常に作動したことも確認した。帰路では旧風路の痕跡を見失わないよう、ほとんど前方から目を離していない。
それでも中継塔へ戻ったときには、存在するはずのない手紙が、鞄の底に収まっていた。
「何が関係していると思う?」
オスカーが尋ねた。
「旧風路です」
リンは迷わず答えた。
「手紙が鞄へ現れた仕組みは分かりません。でも、フォルク村への往復で、私は廃止された風路の痕跡を辿りました。消印の風待ち郵便局も、旧風路上にあった。無関係とは考えにくいです」
「古い道を通ったら、古い手紙が現れた」
「今、言えるのはそこまでです」
「珍しく慎重だな」
「いつも慎重です」
「昨日、魔力を二十八まで減らした人間の台詞とは思えんな」
リンはむっとして、膝の上で組んでいた指へ少し力を込めた。
「それと、これとは別です」
「別か?」
「……たぶん」
断言しようとして、やめた。
オスカーが喉の奥で笑う。
エルナは表情を変えなかったが、報告書をめくる指が、ほんの少しだけ止まった。
「風待ち郵便局は実在していました」
彼女が次の書類を開く。
「旧北方風路に置かれていた小規模な中継局です。四十二年前、北方風路の付け替えに伴って廃止されたことになっています」
エルナは長机の上へ、一枚の古い地図を広げた。
紙は薄く褐色へ変わり、折り目の部分が今にも裂けそうになっている。現在の風路図とは異なり、山や町の輪郭は大まかで、その上を何本もの細い線が縫うように走っていた。
「こちらが廃止前の旧北方風路です。現在の北方第六風路よりも低い位置を通り、この地点で北西へ分岐しています」
エルナの指が、山脈の手前で曲がる細い線を辿る。
その先に、小さな丸印とともに記された名前があった。
風待ち郵便局。
「所属局員は六名。ただし、廃局後の転属記録は、一人分も確認できていません。また、廃局前後一か月分の運航記録だけが欠落しています」
「六人まとめて、記録まで消えたか」
オスカーの指が机を二度叩いた。
「必要なところだけ、ずいぶん都合よく風に飛ばされたものだな」
「北方中央局にも照会をかけていますが、回答には時間がかかります」
「こちらには二日しかない」
三重の袋に収められた便箋には、わずか一行しか記されていない。
――三日後、北方第六風路は午後三時十二分に消失する。
手紙を受け取ったのは昨日の夕方。
予告された日まで、あと二日だった。
「北方第六風路を止められるか?」
オスカーが尋ねると、エルナは一度だけ封筒へ目を向けた。
「この手紙を根拠にはできません。正規の郵便物であることと、内容が真実であることは別です。差出人不明の手紙一通で主要風路を閉鎖した前例を作れば、同じような手紙が届くたびに運航停止を検討しなければなりません」
「手紙一通で空を閉じれば、明日から脅迫状だけで商船を止められる。各国の運輸局が、喜んで俺の首を取りに来るだろうな」
「手紙を理由にする必要はありません」
リンが言うと、オスカーとエルナの視線が同時にこちらへ向いた。
一瞬だけ怯みそうになったが、リンは膝の上で組んでいた手をほどき、背筋を伸ばした。
「北東第三風路の消失は、すでに正式な事故として記録されています。北方第六風路は、同じ幹線から分岐した隣接路線です。運航保全規定に基づく連動点検なら、手紙の内容とは関係なく、一時閉鎖を申請できます」
「寝ないで、それを考えていたのか?」
オスカーに尋ねられ、リンはわずかに目を逸らした。
「少しは寝ました」
「何時間だ」
「……二時間半くらいです」
「それは寝たうちに入らん」
「でも、考えはまとまりました」
「そういう問題じゃない」
オスカーは呆れたように息を吐いたが、その口元には、わずかな笑みがあった。
エルナが地図を見下ろす。
「申請は可能です。予告時刻の前後一時間であれば、隣接路線事故後の臨時保安点検として北方管理局へ要請できます。旅客便と貨物便は西側の迂回路へ回し、私たちは風路の外から状態を確認します」
「よし。それでいこう」
オスカーはすぐに決めた。
「申請は俺が通す。名目はあくまで事故後の点検だ。この手紙については、必要な人間以外へ話すな」
「承知しました」
「観測はヴァイスが指揮しろ。ファルンも連れていけ」
「そのつもりです」
エルナは、上司の前らしい整った敬語のまま答えた。
「ファルンさんは北東第三風路の消失を直接経験しています。また、消えた風路に残る微かな魔力を感知できる者は、組合の記録上、彼女以外に確認されていません」
エルナはそこで一度言葉を切った。
「それだけではありません。仮に同じ痕跡が見えたとしても、あれほど細く不安定な流れを、実際の航路として辿れる者は限られます。低高度での地形追従、乱流下での姿勢制御、魔力消費を抑えた連続飛行。それらをすべて満たせる者となれば、現時点では彼女だけです」
世界で一人。
道が見えるだけではない。
見つけた道を、本当に飛べる者としても、リンには代わりがいなかった。
「本人は?」
「同行します」
リンが即答すると、オスカーは露骨に嫌そうな顔をした。
「返事が早い。体調を聞いてからにしろ」
「通常飛行に支障はありません。今朝の残存魔力は八十一パーセントまで戻っています」
「昨日、中継塔へ着いたときには二十八だったそうだな」
「はい」
「一晩で八十一まで戻ったからといって、消耗がなかったことにはならん」
「涼しい顔はしていません」
「俺にはそう見える」
「疲れた顔をしても、魔力が増えるわけじゃありませんから」
オスカーは眉間を押さえた。
「そういうところだぞ、ファルン」
「どこですか」
「今からヴァイスに教えてもらえ」
リンが何か言い返すより先に、オスカーは手元の書類へ署名を始めた。
「予告当日までは長距離便を禁止する。支局周辺の業務だけにしろ。観測中はヴァイスの指示に従え」
「承知しました」
「ヴァイス。こいつが一人で先へ行こうとしたら止めろ」
「必要に応じて対処いたします」
「もっと嫌そうな顔をしてもいいんだぞ」
「上司の命令に私情を挟むつもりはありません」
「本当に朝から容赦がないな」




