風の途切れた日②
旧風路は、森の上に残された薄い傷痕のようだった。
目を凝らしても見えない。けれどリンには、風路が一度通った場所と、そうでない場所の違いが分かった。
誰かが歩いたあとの草がわずかに傾いているように、空そのものに癖が残っている。
リンはその痕跡を外さないよう、木々の梢すれすれを飛んだ。
痕跡を見つけられることと、それを航路として飛べることは別だった。
旧風路は狭く、ところどころで途切れ、斜面や木々を避けるように細かく蛇行している。高度を上げれば流れを見失い、下げすぎれば枝へ接触する。進路を修正するたびに魔力の消費も増える。
リンは箒の穂先をわずかに傾け、枝の上を滑るように抜けた。上昇と下降、加速と減速をほとんど意識せずに繋ぎ、消えかけた流れから必要な力だけを拾っていく。
その飛び方を見た者がいれば、危ういとは思わなかっただろう。
あまりにも自然で、そこに初めから道があるように見えたはずだ。
現行の風路に乗っていれば、フォルク村まで十分もかからない。今は同じ距離を進むのに、その三倍近い時間が必要だった。
箒へ流し込んだ魔力が、指先から少しずつ失われていく。
魔力残量は六十四パーセント。
まだ余裕がある。
谷が狭くなるにつれ、木々の間から岩肌が見え始めた。斜面には何度か崩れた跡があり、古い道標が半ば土に埋もれている。
リンは速度を落とした。
風路が消えた原因は分からない。それでも、少なくともこの谷に、魔力を奪うような異常は感じられなかった。
単に道がなくなっただけだ。
だからこそ、不自然だった。
風路はただの風ではない。
天候によって弱まることはあっても、何の兆候もなく、広い区間が同時に消失するようなものではなかった。
谷の奥に赤い屋根が見えた頃、魔力残量は五十六パーセントまで落ちていた。
帰投限界まで、あと六パーセント。
リンは箒の柄を握り直し、そのまま村へ入った。
中央広場には小さな着陸標識が立っている。地面へ降りると、近くにいた子供が目を丸くし、家の中へ駆け込んでいった。
間もなく、何人もの村人が広場へ集まってきた。
「郵便魔女だ」
「風路は止まったんじゃなかったのか」
「箒で来たぞ」
口々に声が上がる。
リンは箒を降り、上着の襟を整えた。疲労を顔に出さないよう意識してから、郵便鞄を身体の前へ回す。
「ミラ・ベルクさんはいらっしゃいますか」
人垣の奥で、白髪の老女が顔を上げた。
「私だよ」
腰は曲がっていたが、杖を使わずに歩いてくる。リンは身分証と書留の管理番号を確認し、鞄の封印を解除した。
中から取り出した封筒は、黄色く変色していた。
角が擦れ、表面にはいくつもの検印が重ねられている。最初の消印は十六年前。途中で国境を三度越え、そのたびに別の郵便局で保管されていたらしい。
最後に押されているのは、国際郵便組合の還付不能郵便課の印だった。
「西方のリュセリアから届いた書留郵便です。本人確認をお願いします」
老女は封筒を見つめたまま、動かなかった。
「リュセリア……」
「お心当たりがありますか」
「娘がいたんだよ。昔、そっちへ行った」
村人たちが静かになる。
「戦が始まる少し前だった。すぐに戻ると言っていたけれど、それきりだった」
リンは受取証を差し出した。
老女は震える手で署名をし、封筒を受け取った。
「開けても?」
「ミラさん宛ての郵便物です。お受け取りになった時点で、扱いはご本人に委ねられます」
老女は封を切った。
中から出てきた便箋は一枚だけだった。老女は書き出しを読もうと目を細め、やがて困ったように笑う。
「悪いけれど、読んでもらえるかね。最近、細かい字が見えなくて」
「ご本人からの依頼であれば」
リンは便箋を受け取った。
郵便物の秘密を守ることは、郵便魔女に課せられた義務の一つだ。それは内容を見ないという意味だけではない。知った内容を、その場にいる誰かへ勝手に聞かせてよいということでもなかった。
リンは周囲を見た。
「皆さんの前で読むことになりますが」
「ああ。この村で、あの子を知らない人はいないよ」
老女が答えた。
リンは便箋を開いた。
「母さんへ。手紙を書くのが遅くなって、ごめんなさい」
紙の上に並んでいたのは、特別な言葉ではなかった。
娘は無事に国境を越えたこと。新しい土地で仕事を見つけたこと。結婚し、子供が生まれたこと。
戦が始まったため帰国できなくなったこと。
自分から村を出ていった手前、助けてほしいとも、帰りたいとも書けなかったこと。
最後には、ただ一行だけ記されていた。
「帰れなくなったけれど、帰りたいと思っています。いつか必ず、あなたに会いに帰ります。それまでどうか、お元気で」
リンが読み終えると、広場には風の音だけが残った。
老女はしばらく便箋を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「長かったねえ」
責めるような言い方ではなかった。
「十六年は長すぎる」
老女は便箋を胸へ抱いた。
「でも、届いたんだね」
リンは何も答えなかった。
届いたことが、書かれた約束を果たすわけではない。
失われた十六年を戻すことも、会えなかった人間を連れ帰ることもできない。
郵便魔女が運べるのは、郵便物だけだ。
その先で何が起こるかまで、引き受けることはできなかった。
「受領を確認しました」
リンは老女へ頭を下げた。
「これで、配達は完了です」
村で水と食事を分けてもらい、リンは一時間ほど身体を休めた。
魔力がいくらか回復したことを確認してから、再び箒へ跨がる。完全に回復したわけではないが、中継塔まで戻るには足りる。
帰路も、旧風路の痕跡を辿った。
夕方が近づき、谷の底には長い影が落ちている。
往路よりも風は穏やかだった。
それでもリンは気を抜かず、一定の速度を守った。疲労しているときほど、早く帰りたいという気持ちが判断を鈍らせる。
中継塔が見えた頃には、腕の感覚がほとんどなくなっていた。
着陸場では、管理官が待っていた。
「生きて帰ったか」
「記録どおりの飛行をしただけです」
「普通は、そういうのを生きて帰ったと言うんだ」
管理官は呆れたように言い、塔の扉を開けた。
「風路はまだ戻らん。北側の管理局からも連絡が来た。消失範囲は、こちらが考えていたより広いらしい」
「原因は?」
「調査中だ」
リンは運航記録へ帰着時刻と残存魔力量を書き加え、署名した。
続いて、郵便鞄の中身を確認する。
フォルク村宛ての郵便物はなくなり、鞄の中は空になっているはずだった。
だが、底に一通の封筒が残っていた。
リンは手を止めた。
「どうした?」
「郵便物があります」
「村で預かったんじゃないのか」
「集荷はしていません」
鞄の封印は、リンが村で開け、配達後すぐに閉じている。帰路の途中で開封した覚えはなく、封印にも破損はなかった。
リンは封筒を取り出した。
紙は白く、汚れもない。
宛名は、黒いインクで丁寧に書かれていた。
――郵便魔女へ。
「……?」
裏面に差出人の名前はなかった。
表に押された消印を見て、管理官が息を呑む。
「風待ち郵便局」
その名を、リンは聞いたことがなかった。
「どこの局ですか」
「昔、この山の北にあった郵便局だ」
管理官は消印へ顔を近づけた。
「北方風路の付け替えと同時に廃止された。四十年以上前にな」
消印の日付も、四十二年前になっていた。
リンが生まれるより、ずっと前だ。
封筒は正式な郵便物だった。国際郵便組合の受付印もあり、書式にも不備はない。
そして、宛名に間違いはない。
受取人であるリンは、封を切った。
中に入っていたのは、小さな便箋が一枚だけだった。
記されていた文章は、二行。
リンは最初の一行を読み、無意識に窓の外へ目を向けた。
夕暮れの空には、地図の上にしか存在しなくなった風路が、どこまでも北へ延びている。
便箋には、こう書かれていた。
――三日後、北方第六風路は午後三時十二分に消失する。




