風の途切れた日①
その日、風路は前触れもなく途切れた。
リネット・ファルンが異変に気付いたのは、北東第三風路を飛び始めてから四十分ほど経った頃だった。
初夏の空は明るく、雲は高い。雨の気配も、風向きが変わる兆候もなかった。眼下には針葉樹の森が広がり、その切れ目を縫うように、細い街道が北へ延びている。
何も起こるはずのない、穏やかな配達日だった。
だからこそ、箒の穂先が突然沈んだ瞬間、リンは自分の感覚を疑った。
「――っ」
身体が前へ投げ出される。
反射的に柄を引き寄せ、両膝で箒を挟み込んだ。落下を止めようと魔力を送り込むが、いつものような追い風が返ってこない。誰かに背中を押されながら走っていたところを、いきなり突き放されたようだった。
高度計の針が下がっていく。
リンは腰を浮かせ、箒をほとんど垂直に立てた。
「浮揚、維持。出力、二段階上昇」
柄に刻まれた術式が淡い青色に輝く。
魔力を流し込むと、箒はようやく落下をやめた。箒は一度大きく軋んだものの、横滑りも旋回も起こさず、空中で姿勢を取り戻した。
飛行事故を想定した訓練では、高度を二百メートル失う前に箒を立て直せれば合格とされる。リンが失った高度は、その半分にも満たない。
速さにおいても、リンは養成課程時代から常に首位だった。長距離飛行の平均速度、加速性能、到着時の残存魔力量。そのどれを取っても記録を塗り替えてきた。
だが、リンの真価はそこではない。失速した箒を立て直し、乱れた空気の中で姿勢を保ち、わずかな魔力で飛行を繋ぐ技術において、リンは養成課程を出てから、一度も誰かに負けたことがなかった。
それでも、腕にかかる負担が普段とは比べものにならない。風路の補助がなければ、飛ぶために必要な魔力は何倍にも膨れ上がる。
飛べないわけではない。
ただし、このまま目的地まで飛び続ければ、さすがのリンと言えど、帰路に使う分が残らない。
リンは箒を安定させると、肩越しに背負った郵便鞄へ手を伸ばした。留め具は閉じている。組合の封印にも損傷はない。落下の拍子に、中の郵便物が傷んだ様子もなかった。
それを確認してから、リンは周囲へ意識を広げた。
風路は目に見える道ではない。
空を流れる魔力の偏りを整え、飛行する者の力を一定の方向へ運んでくれる、巨大な川のようなものだ。長い年月をかけて整備された主要風路には各国の都市や村が接続され、旅客船や商船、軍の伝令、そして郵便魔女たちが日々行き交っている。
リンは手袋を外し、左手を空中へ差し出した。
指の間を抜けていく空気は冷たい。
しかし、その奥にあるはずの流れが感じられない。
「消えてる……?」
地図を間違えた可能性を考え、腰の筒から風路図を引き抜いた。現在地を示す方位針は、確かに北東第三風路の上を指している。
今朝、組合支局を出発する前にも更新記録を確認した。閉鎖予定も、点検の通知も出ていなかった。
地図の上に道はある。
だが、空にはない。
リンは高度を落とし、近くにある中継塔へ向かった。
風路を外れた飛行は、泳ぐことに似ている。魔力を止めれば進まなくなるだけでなく、重力に引かれて落ちていく。速度を抑え、余計な旋回を避けながら、リンは森の中に立つ石造りの塔へ箒を進めた。
着陸場へ降り立ったときには、額に汗が滲んでいた。
「郵便魔女か!」
塔の扉から、作業服姿の男が飛び出してきた。
五十代ほどの、肩幅の広い男だった。胸元には風路管理官の銅章がついている。
「国際郵便組合、東部第四支局所属。リネット・ファルンです」
リンは身分証を取り出した。
「北東第三風路の異常を確認しました。いつからですか」
「正確には分からん。十分ほど前、観測器の針が全部落ちた。こちらも故障かと思って、いま調べていたところだ」
「前後の区間は?」
「北側も南側も応答がない。少なくとも、この塔だけの問題ではないらしい」
管理官はリンの後ろにある箒を見た。
「よく無事に降りてこられたな」
「高度がありましたから。魔力を使えば、飛行そのものは可能です」
「目的地は?」
「フォルク村です」
管理官の顔が曇った。
フォルク村は、ここから北へ九キロほど進んだ山間部にある。大きな村ではなく、この中継塔から分かれる支線風路が、唯一の定期航路だった。
「悪いが、今日は戻ったほうがいい。支線も消えている。風路なしで山を越えるのは危険だ」
「気象状況は安定していたはずですが」
「さっきまでは、な。だが、山の天気は変わる。それに、原因が分からん。途中で魔力を乱すものに当たる可能性もある」
リンは反論せず、携帯計器を取り出した。
残存魔力量は七十二パーセント。ここまでの飛行で、通常の配達日一日分に近い魔力を既に消費している。風路を外れて九キロ進み、同じ距離を戻るとなれば、数字の上では全く足りない。
郵便鞄の中には、フォルク村宛ての郵便物が一通だけ残っていた。
リンは鞄を開けず、外側の管理札を確認する。
書留郵便。
受取人はミラ・ベルク。
差出国の欄には、西方の国名が記されていた。
「保管して、風路が復旧してから届けるべきだ」
管理官が言った。
「規則でもそうなっているんだろう」
「重大な危険があると判断した場合、配達を中断して持ち帰る権利があります」
「なら――」
「権利があることと、中断すべきことは同じではありません」
リンは計器をしまい、塔の北側へ回った。
森の向こうには山の稜線が見える。フォルク村は、その手前にある谷の奥だ。
空に手を伸ばしても、整備された風路の流れは感じられない。
その代わり、別のものがあった。
消えた川の底に湿り気だけが残るように、ごく微かな魔力の痕跡が、森の上を北へ延びている。
現行の支線よりも低く、谷に沿うように曲がっている。
「管理官。この地域で、風路の付け替えが行われた記録はありますか」
「付け替え?」
「現行路線より低い位置に、古い流れが残っています」
男は眉を寄せた。
「俺がここへ来たのは十五年前だ。それ以前の記録までは分からんが……昔は谷沿いを飛んでいたという話を聞いたことがある。魔獣が増えて、上空へ路線を移したとか」
「旧風路が完全には消えていないようです」
「使えるのか?」
「風路として利用できるほどの力はありません。ただ、空気の乱れが少ない場所を選ぶ目印にはなりそうですね」
飛行に必要な魔力を肩代わりしてくれるほどの流れではない。
それでも、谷に沿って低く飛べば、高度を保つための負担は減らせる。樹木や地形による風の乱れも、痕跡を追えば避けられるかもしれない。
リンは塔へ戻り、備え付けの運航記録を開いた。
時刻と氏名、現在の気象、魔力残量、風路の状態を書き込む。
最後に、配達を続行する理由を記した。
――公式風路の消失を確認。
――旧風路の残留魔力を確認。気象は安定。目的地まで九・二キロメートル。
――低高度、低速で飛行。魔力残量五十パーセントを帰投限界と定め、到達前に下回った場合は中断する。
「ずいぶん細かく書くんだな」
管理官が覗き込んだ。
「帰ってから報告書を書くためです」
「失敗したときの言い訳か?」
「逆です」
リンは記録簿を閉じた。
「何を考えて飛んだのか、あとから誰にでも分かるようにしておくんです。無事に届けられたかどうかだけで、正しかったことにはなりませんから」
管理官はしばらく黙っていたが、やがて棚から小さな信号筒を取り出した。
「持っていけ。緊急用だ」
「組合員以外への装備貸与は――」
「最低限の救援要請には応じる。国際郵便組合との協定事項だ」
管理官は、少し意地の悪い顔で笑った。
「そっちだけが規則を知っていると思うなよ」
リンは信号筒を受け取り、胸元の収納帯へ差し込んだ。
「ありがとうございます」




