届いたもの④
霧の向こうに、灰色の石造りの局舎が現れた。
錆びた発着標識。
補修途中の屋根。
刈られた草。
壁際には、新しく削られた木材と、修理を待つ窓枠が立てかけられている。
フィオナは地面へ降りると、しばらく局舎を見上げていた。
「おー……、思ってたよりは良い、かな」
「もっと崩れてると思ってた?」
「うん。屋根に穴が開いて、窓は全部割れてるくらい」
「いや、流石にでしょ」
雨風がしのげない場所で郵便物の保管などできるわけがない。これは分かりづらいが、フィオナなりのジョークなのだろう。面白くはないけど。
正面の扉が開いた。
工具を片手にしたハインが外へ出てくる。
袖には黒い油汚れがつき、髪には細かな木屑が絡んでいた。
リンを見たあと、フィオナと四つの荷物へ目を向ける。
「……少し多いな?」
「十五日程の滞在を予定しています」
フィオナが答えた。
「……君は?」
「フィオナ・レイと申します! 東部第四支局で、包装と保全を担当しています」
組合員証を差し出す。
「今日から、こちらでお世話になります」
ハインは組合員証を見たあと、フィオナの顔を見た。
「……良いのか」
「はい、むしろ少し楽しみです!」
やってやるぞ、と言わんばかりにフィオナは拳を高く掲げる。
「楽しい、か……」
フィオナの眉が僅かに下がる。
「えっと……」
「いや、申し訳ない。気にしないでくれ」
ハインさんは少し、目を伏せてそれから、荷物の中から食料箱を選び、持ち上げる。
「部屋は一つ空けてあるから、個人の荷物があるなら、そこに」
「私の?」
「……? 他に誰が使うんだ? そいつも残るわけじゃないんだろ?」
アゴで私を指す。失礼な。
「そいつって……!」
食って掛かる。
「……悪かった。でも、残らないだろう。君は。」
言い方は素っ気ない。
けれど、人が来ることを聞いて、念のため部屋を片づけていたらしい。
「ありがとうございます」
「窓は閉まりが悪いが」
「たぶん、工具もいくつか持ってきたので直せるかなと思ってはいるんですけど」
「それと、夜や雨の日はよく冷えるから、気をつけるように」
「毛布! 持ってきましたよ!」
ハインは食料箱を見た。
「準備がいいな」
「心配性なので」
フィオナは少し笑った。
「でも、ハインさんのこと、よく知らなくて。なので、食べられないものがあったら教えてもらえると……」
「基本、何でも食べるが……」
「じゃあ、好きなものは?」
二人に割って入ってみる。ただの興味本位だ。恋愛小説を好むこの人が好きな食べ物、少し気になっていた。
「……甘い物は、久しいな」
フィオナの笑顔が少しだけ綻んだ。
「今日からは、選べるようにしましょう!」
ハインさんは返事をせず。こちらに背を向けたまま、黙って歩いていく。私の角度からは、少し、耳が赤くなっているのが見えた。
食料箱を抱えたまま、局舎へ向き直る。赤みは既に無くなっていた。
「三号が待ってる、挨拶をしてもらうぞ」
それだけ言った。
受付では、三号がカウンターの前に立っていた。
新しく交換された右腕が滑らかに上がる。
「組合員証を、提示してください」
「えっと……はい、これ!」
「……拝借します」
「フィオナ・レイ。東部第四支局所属です。今日から十五日間、ここで働きます」
三号の胸元へ青白い文字が走る。
「所属情報を確認。現行名簿との照合は不可。訪問目的を申告してください」
「郵便物の状態確認、保全、再梱包! それから……作業場所と生活場所の整備、とか?」
フィオナが少し不安そうにこちらを見た。うーん、確かに言葉にしようとすると、難しい。少し考えるが、今の以上にまとまった答えは出せなかった。
「大丈夫じゃない?」
そこまで厳密な報告を求めているわけでは、ないだろう。
「該当職務、郵便局包装係」
「包装係……?」
フィオナは、その名前を口の中で一度繰り返した。
「仮登録を実施します」
「お願いします」
「仮登録完了。包装係、フィオナ・レイ。勤務開始時刻を記録します」
フィオナは三号へ小さく頭を下げる。
「よろしくね、三号」
「挨拶を記録しました」
「……返事は?」
「挨拶を記録しました」
「そこから直した方がいいかもねぇ…」
ハインさんが、ほんの僅かに笑ったように見えた。
仕分け室の扉を開けたとき、フィオナは大きく口を開けて固まった。
天井近くまで続く棚。
年代も大きさも異なる封筒。
通路へ積まれた郵便袋。
裂けた布の隙間から、木箱の角が覗いている荷物。
乾いた紙、古い蝋、木材、僅かな黴の匂いが混ざり、部屋の空気そのものが長い時間を抱えている。
「これ、全部ですか」
「ほんの一部、と言うと大げさか。」
ハインさんが答える。
「地下にも少し残っている。奥の棚は、触ると封が崩れそうで動かしてない」
フィオナはしばらく動かなかった。
驚いているだけではない。
棚に並ぶ一通一通を、目で追っている。
「ずっと、ここにあったんですね」
「そうだ」
「ハインさんが、全部見てたんですか」
「……見られる範囲は」
ハインさんの言葉の切れが、そこだけ少し鈍ったように思う。何か、思うところでもあっただろうか。
フィオナは入口近くの袋へ近づく。
触れる前にしゃがみ込み、縫い目と床の間を覗いた。
「底に湿気が残ってます……ね、これ」
「ああ、だが、どうにも私では……」
「いえ、助かりました。急に暖かいところへ動かしたら、水滴が出るかもしれませんから」
「……そうか」
「袋のまま、ゆっくり乾かします!。封は、とりあえず切りません」
フィオナは持ってきた手袋をはめた。
袋へ手を伸ばしかけ、少しだけ止まる。
「大丈夫」
誰に言ったのか分からない声だった。
「ここまで残ったんだから、急がなくていいよ」
郵便袋へ話しかけるように言い、慎重に外装へ測定具を当てる。
ハインさんが、その手元を見ていた。
「返事は有るのか」
少しいたずらっぽい質問に少し笑ってしまった。
「……言葉では返ってきません、ね」
フィオナは少し笑った。
「でも、雑に触らないって、自分に言い聞かせられるし、いろんな事を教えてくれますよ」
ハインは何も言わず、静かに頷いて、近くの作業台を空け始めた。
あ、まずい。私も手伝わないといけないのを忘れていた。慌てて補給箱を壁際へ運ぶ。
食料、医薬品、保全資材、フィオナの生活用品。
一つずつ置いていくと、風待ち郵便局の中に、少しずつ第四支局の匂いが混ざっていく。
茶葉。
新しい布。
乾いた石鹸。
リンが最後の箱を置いたところで、受付から鐘が鳴った。
一度。
間を置いて、もう一度。
ハインさんの手が止まる。
「受入だ」
三人が受付へ戻ると、三号はすでに真鍮製の転送枠の前に立っていた。
枠の内側で、白い風が渦を巻いている。
「事故転送を確認」
三号の胸元へ文字が走る。
「接続先不明。到着物、一件」
リンは風の向こうへ意識を伸ばした。
冷たい。
刺すような冷気ではない。
深い雪の下を流れる水のような、音の少ない冷たさだった。
白い風の奥に、一瞬だけ山並みが見えた。
雪に覆われた針葉樹。
屋根から細い煙を上げる家々。
その上で、小さな影が風路から外れ、大きく揺れた。
次の瞬間、一通用の灰白色の保護袋が、受入台へ落ちる。
フィオナが息を呑んだ。
すぐに近づいたが、袋には触れない。
周囲を一度回り、封蝋と縫い目を目で確かめる。
「濡れては……いません、封も残ってますね」
「管理札!」
ハインさんの声に反応するように、三号の右腕が、袋の側面を持ち上げた。
いまの世界で差し出され、いまの風路で行き先を失った郵便だろうか。
「アルネリア公国」
フィオナが管理札を読む。
「本人限定。期限指定……五日後、受取人の成人登録日までに」
袋には、雪を抱いた枝と、伏せられた封筒を組み合わせた印が押されていた。
ハインさんの表情が変わる。
「雪枝印だな、それ」
「知ってるんですか」
リンが尋ねる。
「アルネリア北方の冬印だ。冬のあいだ、扱いを間違えると面倒な手紙につける」
「面倒な手紙?」
「病床からの手紙、長い旅立ちの前に出す手紙、家族へ残す言葉。そういう類のものだ」
フィオナが、灰白色の袋を見つめる。
「死亡者預託郵便ですか」
「大半は、な」
ハインさんは付いている管理札を手に取る。
「だが、この札はそうじゃない。差出人が亡くなってから渡す手続きではなく、本人限定の期限指定だ」
管理札を改めて見る。受取人の成人登録日までに。
その文字だけが、妙に重く見えた。
「なら、期限までに届ければいいんじゃないんですか」
「それだけで済むなら、雪枝印は押さない」
ハインは封蝋に刻まれた枝の紋を指した。
「アルネリアでは、冬に“最後の言葉”を家へ入れない。そういう決まりがある」
「最後の言葉?」
「差出人が亡くなったあとに届いた手紙や、死を前にして書かれたと分かる手紙だ。春まで郵便所で預かる」
受付の奥で、三号の記録音だけが小さく続いた。
「どうして、ですか」
「冬は……道が閉じる。会いに行くことも、別れを告げに行くことも、家を離れることも難しい。そこで最後の言葉だけ渡されても、残された者が春までその場に縛られる」
ハインさんの説明は短かった。最後に、それを避けたいのだろう、と付け加えた。
けれど、この郵便物に残る冷たい風路の名残。その先にある何かを思うと、それ以上の意味があることだけは分かった。
「だから、春まで待つんですね」
「ああ。道が開くまで待つ」
「随分、詳しいんですね?」
「……もともと、いろんなところに顔を出していたからな」
少し、悲しそうに目を伏せた。フィオナが黙ってこちらを見る視線が痛い。
……別に、そう言うつもりでいったわけじゃないんだけどな。
何も言わず、灰白色の袋を見る。
この手紙は、死亡者預託郵便ではない。
けれど、雪枝印が押されている。
つまり、差出人がどういう状態でこの期限をつけたのか、現地で確認しなければならない。
期限だけを見て、すぐに届けていい手紙ではなさそうだ。
「差出人が今どうしているかで、扱いが変わるんですね」
ありがとうフィオナ。助かった。
「そうだ」
ハインが頷く。
「生きているなら、期限指定の本人限定郵便として扱える。亡くなっていれば、冬越しの対象になるかもしれん」
「現地で確認するしかない」
アデルがいても、そう言っただろうなとふと思う。
まだここにいないアデルの顔を思い浮かべた。
その手紙の前に、フィオナがしゃがむ。
「まず、この子が外へ出られる状態か見ます」
「この子?」
「手紙」
フィオナは灰白色の袋を見たまま答えた。
「せっかくここまで来たのに、私たちのところで壊したら可哀想でしょ?」
三号の胸元へ、新しい文字が浮かぶ。
「配達期限まで、四日と十八時間二十七分」
リンは、その数字を見た。
四日と十八時間二十七分。
間に合うかどうかと聞かれれば、おそらく、問題ない。
けれど、この数字だけでは決められない。
雪枝印。
本人限定。
成人登録日指定。
そして、アルネリアの冬の決まり。
どれも管理札の上に並んでいるのに、肝心なことは何も分からなかった。
差出人が、どんなつもりでこの期限を書いたのか。
受取人が、その手紙のことを知っているのか。
この手紙が、今すぐ家へ入れていい言葉なのか。
何も分からない。
分からないのに、届けたいと思った。
思ってしまった。
ここまで、風待ち郵便局へ流れ着いたのなら。
今日見つけたのなら。
リンは郵便鞄の紐を握り直した。
届けたいと思うことと、届けてよいことは違う。
エルナさんの声が、頭の中で少し遅れて聞こえた気がした。
風待ち郵便局の試験運用が始まった最初の日。
届いたのは、春まで待つべきかどうかさえ、まだ誰にも決められていない、いまの手紙だった。




