届いたもの①
東部第四支局の朝は、誰かの都合で静かになったりはしない。
中央から第一運航監察官が来ていようと、夜明け前に届いた輸送袋は行き先ごとに分けなければならないし、受付の奥では三台の刻印機が休みなく日付印を打っている。
発着場の扉が開くたび、冷えた風と箒の音が入り込む。
その隙間を縫うように、食堂から焼きたての麦パンの匂いが漂っていた。
仕分け台の端に置かれた籠には、丸いパンが三つ残っている。
一番近い一つへ手を伸ばす。
お腹が空いていたわけでは、断じてない。断じて。
手を動かしていないと、気を紛らわさないとつい、会議室の方を見てしまうから。これは、仕方がないことなのだ。
ラドナの支線がどうなるのか。
トーヴァたちの回答書類は、誰かに読まれたのか。
今日、中央から持ち込まれた封筒の中に、その返事がある。
そう思うと、刻印機の音までいつもより大きく聞こえた。
「仕事が先」
横からアデルに、自分の手首を軽く叩かれた。
「分かってる」
手を引っ込め、我ながら不服そうな声が出たなと思う。
パンの表面には、まだ少し湯気が残っている。
「分かってるなら、手を伸ばすなよ……」
「これは確認、仕方がないの」
「……何の?」
「温度」
アデルは呆れた顔をした。大げさすぎるほどだ。
会議室へ続く廊下を、一度だけ見る。
扉は半分開いている。
向こうに、磨かれた黒い靴が見えていた。
「結果、今日だよね」
「うん」
フィオナの問いかけに、短く返事をした。それから、仕分け台の上の輸送袋へ視線を戻した。
管理札を持ち上げる。
内容は問題ない。
問題ないとわかっているのに、最初の一行をもう一度読んでいた。
「北部第三中継所」
「それ、西部」
アデルが袋の側面を指す。
褪せた紫色の縫い糸が走っている。長く使われてきたせいで、青とも灰色とも判断がつかない色になっていた。
「この色、だいぶ北部に寄ってない?」
「寄ってない。西部」
「……新しいのに変えない? ここまできたら」
「まぁ、それは思うけどね」
「文句でも言いに行くか……。」
「リン! 今は西部へ載せろって!」
アデルが袋を持ち上げようとした。
そのとき、袋の口を留めた封緘紐が小さく軋んだ。
「ちょっ! 待って! 力、入れすぎだから!」
包装台にいたフィオナが顔を上げた。
声は大きくなかったが、アデルの手はそこで止まる。
フィオナが私たちの間へ入り、袋の口を覗き込んだ。
「その持ち方だと、封蝋が欠けちゃうんだってばぁ……」
「まだ欠けてない……な、大丈夫!」
「もーう! ちょっと貸して」
封蝋の縁へ指を近づける。
直接触れず、光の角度を変えながら、細かな亀裂がないか確かめていく。
フィオナのその手つきを見るのが、私は好きだ。
封筒や紐や蝋が、フィオナの前では急に生き物のように扱われる。乱暴に触れば壊れるし、正しく扱えばもう少し遠くまで行けるものとして、ひとつずつ見られている。
「うん、大丈夫。割れてない。ほんと、気を付けてよね!保護魔法も万能じゃないんだから!」
フィオナは緩んでいた箇所へ新しい紐を添え、元の結び目を傷めないよう固定した。
「はい。二人で持って」
「私も?」
「リンも」
「……自分の分は、もう済ませたけど」
「手は、空いてるよね?」
少し、良くない予兆を感じる。フィオナは怒らせると結構怖い。黙って袋の反対側を持った。
アデルもそれを感じ取ったようで、二人で西部行きの荷車へ載せる。
フィオナは封緘紐を念のためもう一度確かめ、管理札の端へ小さな検印を押した。
「西部行き。今度こそ」
「アデルが雑に扱うから」
「まだ言う!?」
アデルの声が少しだけ大きくなった。
受付にいた職員が二人、こちらを振り返る。
アデルは気まずそうに口を閉じた。
「中央の人、もう来てるみたいだから、静かに!」
フィオナが会議室へ続く廊下へ視線を向ける。
国際郵便組合中央運航局、第一運航監察官。
ユリウス・ヴァーレンと名乗った男は、予定より二十分も早く第四支局へ到着していた。
それでも、オスカー支局長は朝の集配を続けるよう指示した。
ユリウスも急かさず、会議室で渡された茶を飲みながら、時折、開いた扉の向こうを眺めている。
最後の輸送袋が発着場へ運ばれたあと、もう一度パンの籠を見た。
三つあったはずの丸パンは、二つになっていた。
「一つ減ってるかぁ……。」
「さっき荷車の人が持っていったのかもね」
フィオナが言った。
「逃げられたか~」
「……フッ」
アデルのツボに入ったようだ。やってやったぜ。それでも、彼女は自分の分だけを取り、私から少し離して持つ。
「私のはあげないから」
「まだ何も言ってない!」
「目でわかるもん」
「う~~」
フィオナが自分のパンを半分に割った。
片方を私へ差し出す。
「はい」
「いいの?」
「みんなで食べたほうが、おいしいから」
なんていい子だろうか。
「大好き」
一度フィオナへ抱き着いてから、パンを受け取った。
まだ温かい。
指先に熱が移る。
「ありがと」
そう言って一口かじったところで、会議室から呼出鐘が鳴った。
「リン」
続いて、エルナの声が廊下へ届く。急いで飲み込んだ。
喉に少し詰まり、胸のあたりが熱くなる。
「行ってくる」
「待って」
フィオナが布巾を持って近づいた。
リンの口元を軽く拭う。
「粉」
「自分でできる」
「いいから!」
フィオナはそれだけ言って、布巾を畳んだ。
アデルはリンの背中を押さず、会議室の方を見る。
「行ってらっしゃい」
「うん」
パンの残りをフィオナへ預け、会議室へ向かう。
中に入ると、長机の上には、二つの封筒が置かれていた。
一つには中央審査局の銀色の封印。
もう一つには、命令書を示す黒い線が引かれている。
支局長は椅子へ深く腰を下ろし、ユリウスは背筋を伸ばしたまま座っていた。
中央局からのお客様だというのに、我が支局長はいつもの様子を変えない。さすがの私でも不安になる佇まいだ。
エルナさんは二人の間から少し離れた席で、すでに文書へ目を通している。彼女が何も言わない、と言うのであれば、もう仕方がないのだろう。
「失礼します」
「座れ」
支局長に言われ、私はエルナさんの隣へ腰を下ろす。
ユリウスが顔を上げる。
「リネット・ファルンさんですね」
「はい」
名前を確かめるだけの問いだろうか。
けれど、彼の視線は返事を返しても、すぐには離れなかった。
私の顔を見て、肩にかかった髪へ移り、胸元の組合章で止まる。
何かと見比べている、そんなように思えた。
リンが口を開く前に、彼は銀色の封筒へ視線を戻した。
「まず、ラドナ高棚共同区に関する再審査の結果をお伝えします」
膝の上で、指が自然に重なった。意識して握ったつもりは、ない。
「支線廃止の実施は、当面保留されることになりました」
最初に出たのは、言葉ではなく息だった。
胸の中に残っていたものが、少しずつほどけていく。
「提出された利用記録と現地意見書により、当初の審査で用いられた数字が、実態を反映していない可能性が認められました。中央審査局は、現地調査のやり直しを決定しています」
「調査が終わるまでは、道は残る、ということでしょうか」
「はい。支線維持に必要な魔力供給も、廃止決定以前の水準へ戻されます」
「トーヴァさんたちには?」
「現地管理所への通知は、昨日の中央便へ載せました」
まだ、ラドナには届いていない。
けれど、リンが中央へ運んだ回答書類から生まれた返事が、今度はラドナへ向かって飛んでいる。
あの高棚の上で、トーヴァが封を切るところを想像した。
どんな顔を、するだろうか。
トーヴァさんならきっと、すぐには喜ばない。悪態をつきながら口元をにやりと吊り上げる、そんな風に思った。
それでも、あの場所から道が消える日は、少なくとも今日ではなくなった。
「よかっ、た~」
つい、声が零れた。
「まだ、残ると決まったわけじゃないがな」
支局長が補足してくれる。
「分かってます!」
「そうか? 全部片付いた、そんな風に見えたがな」
「そこまでは思ってません!」
たぶん。
「……思ってた、わねぇ」
エルナさんが文書から目を上げず、ため息交じりに呟いた。
どうやら、何を言っても無駄らしい。
「とりあえず、一安心くらいしてもいいじゃないですか」
支局長が僅かに口元を緩める。
「まあな」
ユリウスは、そのやり取りを遮らず、ただ、黙って聞いていた。
文書を閉じ、銀色の封筒を机の端へ移す。
「ラドナについては以上です」
今度は、黒い線の入った命令書が中央へ置かれた。
「続いて、東部第四支局による独自調査の停止と、関係資料の引き渡しについて確認します」
「原本は揃えてある」
支局長が机の脇を指した。
封のされた木箱が二つ置かれている。
風待ち郵便局で回収した記録。
旧風路を通った際の運航記録。
自然魔力流の観測値。
四十二年前の風路網再編に関する資料。
「運航記録と、事故郵便の取扱記録の写しは、こちらにも残す」
「命令書では、関係資料をすべて引き渡すよう求めています」
「自分たちが飛んだ経路くらい、中央へ照会しなくても確認させろ。事故が起きてから返事を待っていたんじゃ遅い」
「独自調査へ使用しないと保証できますか」
「封をする。見るのは俺と一等郵便官のエルナ・ヴァイスの二名に絞る」
彼はすぐには答えず、少し思案をしているように見える。
木箱の上から目録を取り、一頁ずつ確認していく。
外では誰かが荷車を押しているのだろう。ゴロゴロと車輪が転がる音が響く。
車輪が床板の継ぎ目を越えるたび、規則正しい音が聞こえる。
「現行の運航記録と、事故郵便の取扱記録に限り、複製保存を認めます」
「最初からそう言え」
「条件を聞く前に認めることはできません」
「中央は何でも遅いじゃないか」
「急いだ判断の後始末を、現場の人間にさせないためです」
支局長の指が机を叩きかけて止まった。
ユリウスの声は穏やかだった。
それでも、その言葉だけは、規定を読み上げているようには聞こえなかった。
「独自調査は停止していただきます」
彼は持っていた目録を閉じる。
「風路消失の原因、旧設備の構造、四十二年前の再編との関連について、第四支局が独自に調査を進めることは認めません」
「分かっている」
手元に置いていた別の書類を差し出した。
表紙には、中央の書式に沿った長い題名が印刷されている。
旧風待ち郵便局における事故郵便保全及び再送試験運用申請書。
「調査はしない。だが、郵便は扱う」
「同じ場所で、同じ設備を使用するのでしょう」
「目的が違う。風待ちには四十二年前の郵便だけじゃなく、今の管理番号がついた袋まで流れ着いている。手紙が届き続けてるのに、中央の話し合いが終わるまで積んでおけと言うのか」
「管理方法は検討されています」
「郵便は、検討が済むまで待ってくれない」
オスカーの声が少し低くなる。
リンは、机の上に置かれた申請書を見た。
旧風待ち郵便局における事故郵便保全及び再送試験運用申請書。
長い名前だった。
けれど、その長さの中には、あの仕分け棚の匂いも、ハインが一通ずつ拾い上げていた手つきも、三号の胸元に浮かんだ古い管理番号も入っていない。
あそこにあるものは、書類の中では事故郵便と呼ばれる。
でも、リンにはそう見えなかった。
誰かが待っていたもの。
誰かが待たせてしまったもの。
それを、もう一度外へ出してよいのかどうか。
そのために、フィオナが行く。
そのために、自分は風待ちへ戻る。
「……積んでおくだけなら、風待ちじゃなくてもできます」
気づいたときには、リンはそう言っていた。
ユリウスがこちらを見る。
「でも、あそこにある手紙は、ただ積まれていたわけじゃありません。ハインさんが、ずっと見てくれてたんです!」
リンは膝の上で手を握った。
「だから私も、それを見なかったことにして、終わらせたくありません!」
少し、語調が強すぎただろうか。
ユリウスは黙って申請書を開いた。
数頁を読み進め、役割分担の欄で手を止める。
「風待ち郵便局へ自由に出入りできるのは、ファルンさんだけですか」
「今のところは」
支局長が答える。
「彼女が先導すれば、同行者は連れていける」
「ファルンさんが飛べなければ?」
「運用を止める」
「現地に人が残っていても?」
支局長は想定外の質問に口をつぐんだように見えた。
エルナさんが、開いていた飛行計画書を机へ置く。
「フィオナを試験期間中、風待ちへ配置します」
「……常駐、ですか」
「十五日間。初回に二十日分の食料と医薬品を運びます。リンは第四支局と風待ちの間で、記録と郵便物を往復させる」
「帰路が失われた場合は?」
「リンも戻しません」
エルナは即座に答えた。
「消えかけた流れへ無理に入らせるくらいなら、二人とも風待ちへ残します。次の経路が確認できるまで、こちらから迎えには行けません」
「救援手段がないことを、運用計画へ含めると?」
「ないものを、あるようには書けません」
エルナさんはユリウスを真っ直ぐ見た。
「怖いからこそ、最初から決めておきます。期限が迫っているとか、郵便が増えたとか、そういう理由でリンを帰らせません」
最後の言葉だけ、少し硬かった。
エルナさんの横顔を見る。視線は計画書へ向けられたまま動かない。
けれど、紙の端を押さえる指には力が入っていた。
エルナさんが何を考えているのか、自分にも何となく理解できた。
分かるのに、胸の奥が少しだけむずがゆかった。
自分が行けば届くものがある。
自分が行かなければ止まるものがある。
それを理由にしてはいけないと、何度も言われている。
けれど、そう言われるたびに、「私」の中には小さな不服が残る。
行けるのに。
飛べるのに。
そこまで思ってから、リンは膝の上で手を握った。
あの不服こそ、エルナさんが怖がっているものなのだろう。
「ファルンさんが動けなければ、施設そのものが孤立しyてしまうのを、見逃せ、そう仰るのですか」
ユリウスが言った。
「だから、郵便局としての再稼働ではない」
支局長が答える。
「事故郵便を保全して、外へ出せるものを一通ずつ戻す。それだけだ」
「一人の能力へ依存していることに変わりはありません」
ユリウスの視線が、申請書に書かれたリンの名前へ落ちた。
「その人にしかできない。本人も望んでいる。これまで成功している。そうして始まった臨時措置は、成功するほどやめにくくなります」
外で出発鐘が鳴った。
会議室の窓を、二騎の箒が横切っていく。
ユリウスは、それを見送るように僅かに顔を向けた。
「いつの間にか、その人が動けること自体が、設備の一部として扱われる」
リンはユリウスを見た。
話しかけられているのは支局長、なのだろうか。
その言葉の向こうに、ここにはいない誰かがいるように聞こえた。
「私は、全部を一人でやるつもりはありません」
ユリウスがこちらを見る。
「ハインさんと三号がいて、フィオナが郵便を守る。第四支局で行き先を調べて、届ける先の郵便官にも頼る。私ができるのは、風待ちと外をつなぐところまでです」
「その出入口が、あなた一人なのが問題だと……」
「はい」
「なら、あなたが無理をすれば、全員が動ける」
「させません」
エルナさんの声が重なった。
「リンが行けない日は、仕事を止めます」
「郵便の期限が迫っても?」
「止めます」
「現地から救援を求められても?」
エルナさんは一度、息を吸った。
「止めます。それで失われる郵便があったとしても、リンを設備の代わりにはしません」
すぐに納得できる言葉ではなかった。
けれど、エルナさんがそれを口にするために、どれだけ力を込めたかは分かった。
「フィオナさん本人にも確認したい」
ユリウスが言った。
支局長が呼出鐘を鳴らす。




