次は、一緒に届けて
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、肩の軽さだった。
いつもなら身体を起こすより先に、郵便鞄の重みを探す。
けれど、そこには何もなかった。
リンは反射的に右手を伸ばした。
指先が触れたのは、硬い寝台の縁だった。
「動かないで!」
すぐ近くから声が飛んだ。
身体を起こしかけた途端、背中と左脚へ鋭い痛みが走る。リンは息を詰め、そのまま枕へ戻された。
白い天井。
薬草の匂い。
窓の外から聞こえる、風路標の低い駆動音。
ラドナではない。
どこかの診療所らしかった。
「分かる?」
視界の端から、フィオナが覗き込んできた。
髪は乱れ、制服の袖には泥が残っている。眠っていないのか、目元にも濃い疲れがあった。
「フィオナ……」
「よかった。」
「ここ、どこ?」
「第十七観測塔の付属診療所。落ちた場所から一番近かったから」
リンは喉の渇きを覚え、唇を舐めた。
尋ねなければならないことがあった。
それ以外のことは、まだどうでもよかった。
「手紙は?」
フィオナの表情が止まった。
その向こうで、椅子が小さく軋む音がした。
リンが顔を向けると、窓際にアデルが座っていた。
制服は着替えていたが、右手には包帯が巻かれている。頬にも細い傷があり、腕にはリンの郵便鞄を抱えていた。
「届いた」
短い声だった。
「期限内に?」
「届いたって言ったでしょ」
リンの身体から、一気に力が抜けた。
「よかった……」
息と一緒に言葉が漏れた。
トーヴァたちの返事は届いた。
六十四人という数字の外側にいた人々の声も、中央まで運ばれた。
自分が途中で落ちても、郵便は止まらなかった。
その安堵が胸へ広がりかけて、リンはようやく、アデルがこちらを見ていないことに気づいた。
郵便鞄を抱く腕へ、強く力が入っている。
「アデル」
「最初に聞くの、それなんだ」
顔を上げないまま、アデルが言った。
「目が覚めて、最初に」
リンは答えられなかった。
手紙が気になった。
期限へ間に合ったのか、それだけを確かめたかった。
リンにとっては当然だった。
けれど、アデルが何を思いながら中央へ飛んだのかを、まだ一度も尋ねていない。
「ごめん」
「何に謝ってるの?」
アデルが顔を上げた。
目が赤かった。
怒っているのだと思った。
実際、怒っている。
それでも、その奥にあるものを見た瞬間、リンは目を逸らせなくなった。
「鞄を押しつけたこと?」
「……それも」
「索を外したこと?」
「それも、ごめん」
「助けに戻るなって叫んだこと?」
問いが重なる。
リンは一つずつ頷いた。
「全部、ごめん」
「全部って言えば済むと思ってない?」
「思ってない」
「私は、戻ろうとした」
「見えてた」
「だったら、何で切ったの!」
アデルの声が病室へ響いた。
フィオナが止めようと一歩動いたが、扉の近くにいたエルナが、目だけで制した。
エルナの制服にも土がついていた。
腕や額に小さな擦り傷がある。
彼女たちが、落ちたリンを探したのだ。
「そのままだったら、アデルも落ちたから」
「落とさないって言った!」
「無理だった!」
「決めつけないでよ!」
「箒が風路の外へ引かれてた! あのままじゃ――」
「そういう話をしてるんじゃない!」
アデルの声が震えた。
「あんたは、私に鞄を渡して、索を切って、それで終わりだったかもしれない。でも私は、そのあとも飛ばなきゃいけなかったの!」
リンは言葉を失った。
自分が落ちたあとも、アデルには時間が続いていた。
救助信号を撃つ。
リンを置いていく。
中央へ向き直る。
郵便鞄を抱えたまま、期限まで飛ぶ。
リンが見たのは、その最初だけだった。
「後ろにエルナさんたちがいるのは分かってた。でも、信号に気づくかなんて分からない。間に合うかも分からない。あんたが生きてるかも分からなかった」
アデルは郵便鞄の肩帯を握った。
「それでも行けって言うから、行った」
「……うん」
「途中で何度も戻ろうと思った」
アデルの声が小さくなる。
「でも、この鞄を持ってた。あんたが、あんな顔で頼むから。私にしか頼めないって言うから……行くしかなかった」
リンは、胸の奥を握られたような痛みを覚えた。
自分はアデルを信じた。
だから鞄を渡した。
そう考えていた。
けれど、信じたという言葉だけで、アデルに背負わせたものをきれいにはできなかった。
リンは自分で届けることにこだわり続け、もうどうにもならなくなってから、配達と救助をまとめてアデルへ押しつけた。
鞄を託したことだけを見れば、間違いではない。
あの瞬間に渡さなければ、手紙も自分と一緒に落ちていた。
索を外さなければ、アデルまで引きずり込んでいた。
それでも。
あの瞬間まで渡さなかったことは、正しかったのだろうか。
西稜郵便支線を飛んだとき、アデルは言っていた。
遅れたら鞄を持って先に行く。
倒れるまで黙って飛ぶのは禁止。
ラドナを出る前にも、魔力が減ったら代わると言われていた。
リンは、そのたびにまだ飛べると答えた。
実際、飛べていた。
落ちる直前まで。
飛べることと、持ち続けるべきことを、同じものだと思っていた。
「私……」
声が掠れた。
「渡すのが、遅かった」
アデルの眉が僅かに動く。
「何?」
「鞄を渡したことじゃない」
リンは寝台の上で、両手を握った。
「もっと前に渡せた。魔力が減ったときに。アデルが代わるって言ってくれたときに」
言葉にするほど、胸の中にあったものの形が見えてきた。
郵便物を預かったのは自分だった。
道を見つけたのも自分だった。
だから最後まで自分で運ばなければならない。
そうしなければ、自分の仕事ではなくなる。
けれど、その考えにしがみついた結果、アデルへ残されたのは、最悪の瞬間にすべてを引き受けることだった。
「私、託せたから、それでいいと思いかけてた」
リンはゆっくりと言った。
「届いたなら、あの判断は間違ってなかったって。でも違う。最後に渡せたことと、最後まで渡さなかったことは、別だった」
病室が静かになった。
窓の外で、観測塔の駆動音が続いている。
「アデルに、あんな選び方をさせる前に渡すべきだった」
リンはアデルを見た。
「ごめん」
今度は、何に対する謝罪なのかを、自分でも分かっていた。
「私を助けるか、手紙を届けるか、アデルに選ばせた。自分がもっと早く頼っていれば、そんな選び方をしなくて済んだかもしれない」
アデルはしばらく何も言わなかった。
抱えていた郵便鞄へ視線を落とす。
「私は、あんたを置いていった」
「違う」
「違わない」
「救助信号を撃ってくれた」
「それでも、自分では戻らなかった」
「私がアデルを押し戻して、行けって言ったから」
「それでも!」
アデルが声を上げた。
すぐに唇を噛み、視線を伏せる。
「中央へ着いて、受領印が押されたとき、嬉しくなかった」
その言葉に、リンは胸を突かれた。
「届いたのに。期限内だったのに。窓口の人が受け取ったって言ったのに、ずっと、あんたが落ちたところしか浮かばなかった」
アデルの腕の中で、郵便鞄の革が小さく鳴った。
「こんなの、二度と嫌」
リンはすぐには答えられなかった。
二度と無茶をしない。
絶対に危険な場所へ入らない。
自分の限界を必ず見誤らない。
そんな約束はできない。
リンはこれからも飛ぶ。
誰も通れない道へ入ることもある。
そのとき、自分が同じ判断を繰り返さないと言い切る自信は、まだなかった。
だから、できない約束でアデルを安心させることはしたくなかった。
「次は」
アデルが顔を上げた。
「次は、一緒に届けて」
責める声ではなかった。
泣き出しそうな声でもなかった。
それだけに、リンの胸へ深く入った。
自分で届けるなとは言われなかった。
飛ぶなとも、危険へ近づくなとも言われなかった。
ただ、一人で終わらせるなと言われている。
リンは唇を開いた。
「うん」
答えるだけでは足りない気がした。
「次は、もっと早く言う」
「何を?」
「苦しいって。代わってって。助けてって」
口にすると、思っていた以上に恥ずかしかった。
アデルが僅かに目を見開く。
「本当に言えるの?」
「……練習する」
「そこは約束するって言ってよ」
「言えなかったら嘘になるから」
「そういうところ!」
アデルの声に、ようやくいつもの調子が少し戻った。
フィオナが堪えきれず、息を漏らす。
「笑わないで!」
アデルが振り返る。
「ごめん。でも、二人とも、やっと普通に喋ったから」
「さっきまで普通じゃなかったみたいに言わないで」
「普通ではなかったわね」
エルナが静かに加わった。
リンはエルナの顔を見た。
「エルナさんも、すみませんでした」
「私には?」
フィオナが自分を指す。
「フィオナにも」
「順番の問題じゃないんだけどなあ」
口調は軽かったが、フィオナの目元にも疲れが残っている。
「二連信号を見て、エルナさんがすぐ降下地点を割り出したの。私は防護膜の破片を追った。見つけたとき、リン、全然返事しないんだもん」
「ごめん」
「本当に怖かった」
フィオナが笑おうとして、うまく笑えなかった。
「届いたからよかった、では済ませないでよね」
「うん」
今度は、迷わず頷いた。
エルナが寝台のそばへ歩み寄る。
「アデルを押し戻した判断については、いま責めるつもりはないわ」
「はい」
「鞄を託したことも、索を切ったことも、あの状況では必要だったと思う」
リンはエルナを見上げた。
「ただし、あの状況を作るまで、自分の消耗を報告しなかったことは別です」
「……はい」
「まだ飛べる、というのは、業務を続ける十分な理由にはなりません」
以前なら、リンは反論していたかもしれない。
飛べるなら飛ぶ。
届くなら届ける。
それが仕事だと思っていた。
いまは、アデルの腕に抱かれた郵便鞄が目に入る。
自分が飛べなくなっても、手紙は届いた。
ただし、もっと早く渡せば、誰かにあれほどの選択を背負わせずに済んだかもしれない。
「覚えておきます」
「忘れないで」
エルナはそれ以上追及せず、フィオナとともに扉へ向かった。
「少し休ませましょう」
「アデルもね」
「私はまだ――」
「昨夜から寝ていないでしょう」
「でも」
「いいから」
エルナに促されても、アデルは椅子から立たなかった。
二人が病室を出たあとも、郵便鞄を抱えたままリンのそばにいる。
「それ、返してくれる?」
リンが鞄を見て言った。
アデルの目が細くなる。
「また最初から自分で持つつもり?」
「違うよ。仕事道具だから」
「いまは怪我人」
「でも――」
「退院するまで私が持つ」
「どうして?」
「預かったから」
リンは言葉を止めた。
アデルは郵便鞄を抱き直す。
「ちゃんと返す。落とさないし、中も開けない」
「それは分かってる」
「なら、もう少し預けて」
リンは肩へ手を伸ばしかけた。
そこに鞄がないことには、まだ慣れなかった。
軽くなった肩が、どこか心細い。
けれど、アデルの腕の中にある鞄を見ても、先ほどまでのように、自分の一部を奪われたとは思わなかった。
「分かった」
リンは手を下ろした。
「お願い」
「うん」
アデルがようやく笑った。
ほんの少しだけだった。
「次は、一緒に届けてよ」
リンは目を閉じた。
「うん」
今度の返事は、先ほどよりも自然に出た。




