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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter5 道を閉じる手紙
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44/46

次は、一緒に届けて

 目を覚ましたとき、最初に感じたのは、肩の軽さだった。


 いつもなら身体を起こすより先に、郵便鞄の重みを探す。


 けれど、そこには何もなかった。


 リンは反射的に右手を伸ばした。


 指先が触れたのは、硬い寝台の縁だった。


「動かないで!」


 すぐ近くから声が飛んだ。


 身体を起こしかけた途端、背中と左脚へ鋭い痛みが走る。リンは息を詰め、そのまま枕へ戻された。


 白い天井。


 薬草の匂い。


 窓の外から聞こえる、風路標の低い駆動音。


 ラドナではない。


 どこかの診療所らしかった。


「分かる?」


 視界の端から、フィオナが覗き込んできた。


 髪は乱れ、制服の袖には泥が残っている。眠っていないのか、目元にも濃い疲れがあった。


「フィオナ……」


「よかった。」


「ここ、どこ?」


「第十七観測塔の付属診療所。落ちた場所から一番近かったから」


 リンは喉の渇きを覚え、唇を舐めた。


 尋ねなければならないことがあった。


 それ以外のことは、まだどうでもよかった。


「手紙は?」


 フィオナの表情が止まった。


 その向こうで、椅子が小さく軋む音がした。


 リンが顔を向けると、窓際にアデルが座っていた。


 制服は着替えていたが、右手には包帯が巻かれている。頬にも細い傷があり、腕にはリンの郵便鞄を抱えていた。


「届いた」


 短い声だった。


「期限内に?」


「届いたって言ったでしょ」


 リンの身体から、一気に力が抜けた。


「よかった……」


 息と一緒に言葉が漏れた。


 トーヴァたちの返事は届いた。


 六十四人という数字の外側にいた人々の声も、中央まで運ばれた。


 自分が途中で落ちても、郵便は止まらなかった。


 その安堵が胸へ広がりかけて、リンはようやく、アデルがこちらを見ていないことに気づいた。


 郵便鞄を抱く腕へ、強く力が入っている。


「アデル」


「最初に聞くの、それなんだ」


 顔を上げないまま、アデルが言った。


「目が覚めて、最初に」


 リンは答えられなかった。


 手紙が気になった。


 期限へ間に合ったのか、それだけを確かめたかった。


 リンにとっては当然だった。


 けれど、アデルが何を思いながら中央へ飛んだのかを、まだ一度も尋ねていない。


「ごめん」


「何に謝ってるの?」


 アデルが顔を上げた。


 目が赤かった。


 怒っているのだと思った。


 実際、怒っている。


 それでも、その奥にあるものを見た瞬間、リンは目を逸らせなくなった。


「鞄を押しつけたこと?」


「……それも」


「索を外したこと?」


「それも、ごめん」


「助けに戻るなって叫んだこと?」


 問いが重なる。


 リンは一つずつ頷いた。


「全部、ごめん」


「全部って言えば済むと思ってない?」


「思ってない」


「私は、戻ろうとした」


「見えてた」


「だったら、何で切ったの!」


 アデルの声が病室へ響いた。


 フィオナが止めようと一歩動いたが、扉の近くにいたエルナが、目だけで制した。


 エルナの制服にも土がついていた。


 腕や額に小さな擦り傷がある。


 彼女たちが、落ちたリンを探したのだ。


「そのままだったら、アデルも落ちたから」


「落とさないって言った!」


「無理だった!」


「決めつけないでよ!」


「箒が風路の外へ引かれてた! あのままじゃ――」


「そういう話をしてるんじゃない!」


 アデルの声が震えた。


「あんたは、私に鞄を渡して、索を切って、それで終わりだったかもしれない。でも私は、そのあとも飛ばなきゃいけなかったの!」


 リンは言葉を失った。


 自分が落ちたあとも、アデルには時間が続いていた。


 救助信号を撃つ。


 リンを置いていく。


 中央へ向き直る。


 郵便鞄を抱えたまま、期限まで飛ぶ。


 リンが見たのは、その最初だけだった。


「後ろにエルナさんたちがいるのは分かってた。でも、信号に気づくかなんて分からない。間に合うかも分からない。あんたが生きてるかも分からなかった」


 アデルは郵便鞄の肩帯を握った。


「それでも行けって言うから、行った」


「……うん」


「途中で何度も戻ろうと思った」


 アデルの声が小さくなる。


「でも、この鞄を持ってた。あんたが、あんな顔で頼むから。私にしか頼めないって言うから……行くしかなかった」


 リンは、胸の奥を握られたような痛みを覚えた。


 自分はアデルを信じた。


 だから鞄を渡した。


 そう考えていた。


 けれど、信じたという言葉だけで、アデルに背負わせたものをきれいにはできなかった。


 リンは自分で届けることにこだわり続け、もうどうにもならなくなってから、配達と救助をまとめてアデルへ押しつけた。


 鞄を託したことだけを見れば、間違いではない。


 あの瞬間に渡さなければ、手紙も自分と一緒に落ちていた。


 索を外さなければ、アデルまで引きずり込んでいた。


 それでも。


 あの瞬間まで渡さなかったことは、正しかったのだろうか。


 西稜郵便支線を飛んだとき、アデルは言っていた。


 遅れたら鞄を持って先に行く。


 倒れるまで黙って飛ぶのは禁止。


 ラドナを出る前にも、魔力が減ったら代わると言われていた。


 リンは、そのたびにまだ飛べると答えた。


 実際、飛べていた。


 落ちる直前まで。


 飛べることと、持ち続けるべきことを、同じものだと思っていた。


「私……」


 声が掠れた。


「渡すのが、遅かった」


 アデルの眉が僅かに動く。


「何?」


「鞄を渡したことじゃない」


 リンは寝台の上で、両手を握った。


「もっと前に渡せた。魔力が減ったときに。アデルが代わるって言ってくれたときに」


 言葉にするほど、胸の中にあったものの形が見えてきた。


 郵便物を預かったのは自分だった。


 道を見つけたのも自分だった。


 だから最後まで自分で運ばなければならない。


 そうしなければ、自分の仕事ではなくなる。


 けれど、その考えにしがみついた結果、アデルへ残されたのは、最悪の瞬間にすべてを引き受けることだった。


「私、託せたから、それでいいと思いかけてた」


 リンはゆっくりと言った。


「届いたなら、あの判断は間違ってなかったって。でも違う。最後に渡せたことと、最後まで渡さなかったことは、別だった」


 病室が静かになった。


 窓の外で、観測塔の駆動音が続いている。


「アデルに、あんな選び方をさせる前に渡すべきだった」


 リンはアデルを見た。


「ごめん」


 今度は、何に対する謝罪なのかを、自分でも分かっていた。


「私を助けるか、手紙を届けるか、アデルに選ばせた。自分がもっと早く頼っていれば、そんな選び方をしなくて済んだかもしれない」


 アデルはしばらく何も言わなかった。


 抱えていた郵便鞄へ視線を落とす。


「私は、あんたを置いていった」


「違う」


「違わない」


「救助信号を撃ってくれた」


「それでも、自分では戻らなかった」


「私がアデルを押し戻して、行けって言ったから」


「それでも!」


 アデルが声を上げた。


 すぐに唇を噛み、視線を伏せる。


「中央へ着いて、受領印が押されたとき、嬉しくなかった」


 その言葉に、リンは胸を突かれた。


「届いたのに。期限内だったのに。窓口の人が受け取ったって言ったのに、ずっと、あんたが落ちたところしか浮かばなかった」


 アデルの腕の中で、郵便鞄の革が小さく鳴った。


「こんなの、二度と嫌」


 リンはすぐには答えられなかった。


 二度と無茶をしない。


 絶対に危険な場所へ入らない。


 自分の限界を必ず見誤らない。


 そんな約束はできない。


 リンはこれからも飛ぶ。


 誰も通れない道へ入ることもある。


 そのとき、自分が同じ判断を繰り返さないと言い切る自信は、まだなかった。


 だから、できない約束でアデルを安心させることはしたくなかった。


「次は」


 アデルが顔を上げた。


「次は、一緒に届けて」


 責める声ではなかった。


 泣き出しそうな声でもなかった。


 それだけに、リンの胸へ深く入った。


 自分で届けるなとは言われなかった。


 飛ぶなとも、危険へ近づくなとも言われなかった。


 ただ、一人で終わらせるなと言われている。


 リンは唇を開いた。


「うん」


 答えるだけでは足りない気がした。


「次は、もっと早く言う」


「何を?」


「苦しいって。代わってって。助けてって」


 口にすると、思っていた以上に恥ずかしかった。


 アデルが僅かに目を見開く。


「本当に言えるの?」


「……練習する」


「そこは約束するって言ってよ」


「言えなかったら嘘になるから」


「そういうところ!」


 アデルの声に、ようやくいつもの調子が少し戻った。


 フィオナが堪えきれず、息を漏らす。


「笑わないで!」


 アデルが振り返る。


「ごめん。でも、二人とも、やっと普通に喋ったから」


「さっきまで普通じゃなかったみたいに言わないで」


「普通ではなかったわね」


 エルナが静かに加わった。


 リンはエルナの顔を見た。


「エルナさんも、すみませんでした」


「私には?」


 フィオナが自分を指す。


「フィオナにも」


「順番の問題じゃないんだけどなあ」


 口調は軽かったが、フィオナの目元にも疲れが残っている。


「二連信号を見て、エルナさんがすぐ降下地点を割り出したの。私は防護膜の破片を追った。見つけたとき、リン、全然返事しないんだもん」


「ごめん」


「本当に怖かった」


 フィオナが笑おうとして、うまく笑えなかった。


「届いたからよかった、では済ませないでよね」


「うん」


 今度は、迷わず頷いた。


 エルナが寝台のそばへ歩み寄る。


「アデルを押し戻した判断については、いま責めるつもりはないわ」


「はい」


「鞄を託したことも、索を切ったことも、あの状況では必要だったと思う」


 リンはエルナを見上げた。


「ただし、あの状況を作るまで、自分の消耗を報告しなかったことは別です」


「……はい」


「まだ飛べる、というのは、業務を続ける十分な理由にはなりません」


 以前なら、リンは反論していたかもしれない。


 飛べるなら飛ぶ。


 届くなら届ける。


 それが仕事だと思っていた。


 いまは、アデルの腕に抱かれた郵便鞄が目に入る。


 自分が飛べなくなっても、手紙は届いた。


 ただし、もっと早く渡せば、誰かにあれほどの選択を背負わせずに済んだかもしれない。


「覚えておきます」


「忘れないで」


 エルナはそれ以上追及せず、フィオナとともに扉へ向かった。


「少し休ませましょう」


「アデルもね」


「私はまだ――」


「昨夜から寝ていないでしょう」


「でも」


「いいから」


 エルナに促されても、アデルは椅子から立たなかった。


 二人が病室を出たあとも、郵便鞄を抱えたままリンのそばにいる。


「それ、返してくれる?」


 リンが鞄を見て言った。


 アデルの目が細くなる。


「また最初から自分で持つつもり?」


「違うよ。仕事道具だから」


「いまは怪我人」


「でも――」


「退院するまで私が持つ」


「どうして?」


「預かったから」


 リンは言葉を止めた。


 アデルは郵便鞄を抱き直す。


「ちゃんと返す。落とさないし、中も開けない」


「それは分かってる」


「なら、もう少し預けて」


 リンは肩へ手を伸ばしかけた。


 そこに鞄がないことには、まだ慣れなかった。


 軽くなった肩が、どこか心細い。


 けれど、アデルの腕の中にある鞄を見ても、先ほどまでのように、自分の一部を奪われたとは思わなかった。


「分かった」


 リンは手を下ろした。


「お願い」


「うん」


 アデルがようやく笑った。


 ほんの少しだけだった。


「次は、一緒に届けてよ」


 リンは目を閉じた。


「うん」


 今度の返事は、先ほどよりも自然に出た。

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