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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter5 道を閉じる手紙
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43/46

午後五時五十六分

 戻らなければ。


 アデルは、何度も箒を反転させかけた。


 少しでも視線を下へ向ければ、森の中にリンの姿を探してしまう。


 けれど、木々はすでに落下地点を覆い隠していた。


 救援標が上がる音が聞こえた。


 今度は森の中からだった。


 エルナとフィオナが、リンのところへ着いた。


 そう理解しても、胸の奥に食い込んだ痛みは消えなかった。


 自分で確かめたい。


 息をしているのか。


 目を開けたのか。


 名前を呼べば返事をするのか。


 何一つ分からないまま、背を向けて飛んでいる。


「……最ッ低!」


 声が震えた。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 索を切ったリンへか。


 置いてきた自分へか。


 こんな選択をさせた風路へか。


 腕の中には、リンの郵便鞄がある。


 いつも彼女が、傷一つつけないよう背負っていた鞄だった。


 肩帯を自分の身体へ回し、胸元へ密着させる。


 留め具を一度。


 もう一度。


 外れないことを確かめた。


 安全索を引いたときに焼けた右手が、手袋の内側で脈打っている。頬にも、流れから弾かれた際についた細い傷があった。


 痛みはどうでもよかった。


 リンは、助けてほしいとは言わなかった。


 間に合わせてほしい、と頼んだ。


 あんたにしか頼めない、と。


「こんなの、断れるわけないでしょ」


 声に出した途端、涙で前が滲んだ。


 アデルは乱暴に袖で目元を拭った。


 泣いて速度が落ちれば、リンが鞄を渡した意味がなくなる。


 そんなことまで考えてしまう自分が嫌だった。


 いま考えるべきなのは友人の命だ。


 それなのに、懐中時計を開けば、残り時間を数えてしまう。


 中央まで、残り一時間。


 回答期限まで、一時間二十分。


 どちらも待ってはくれない。


 森へ戻ることはできる。


 このまま箒を反転させれば、数分で救助地点へ着く。


 エルナたちと一緒に、リンを救援艇へ乗せられる。


 その代わり、回答書類は間に合わない。


 ラドナで聞いた声が、頭をよぎった。


 風車棚で水を汲み上げていた者。


 山道を羊と歩く牧民。


 診療所で患者を運ぶ道が必要だと話した者。


 リンが落ちながら守ろうとしたのは、紙の束ではない。


 アデルにも、それは分かっていた。


 分かってしまったから、捨てられなかった。


「絶対、あとでぶん殴る!」


 返事はない。


「勝手に渡したことも、勝手に落ちたことも、全部許さないからな!」


 声を出さなければ、また後ろを向いてしまいそうだった。


 アデルは前を見据え、箒へ残った魔力を流し込む。


 主幹線は、まだ不安定に揺れている。


 速度を上げるたび、右手の痛みが強くなる。


 それでも落とさなかった。


 リンの郵便鞄も。


 飛行速度も。


 中央運航局の時計塔が見えたのは、午後五時四十八分だった。


 白い塔の周囲には、各地から集まる旅客船や公用艇が幾重にも行き交っている。


 通常の進入順を待つ余裕はなかった。


 アデルは郵便角笛を三度鳴らした。


 期限指定公文書の緊急進入。


 管制塔から赤い誘導旗が振られ、前方の飛行路が左右へ開く。


 アデルは空いた進路へ箒を滑り込ませた。


 発着場へ降りる直前、脚へ力が入らなくなる。


 着地の衝撃で膝が折れかけたが、郵便鞄を抱えたまま踏み直した。


「医療班を――」


 近づいてきた誘導員へ言いかけ、首を振る。


 先に届けなければならない。


 ここまで来て、自分が手続きを止めれば意味がない。


「期限指定公文書です。専用窓口は!」


 誘導員が正面棟を指す。


 アデルは箒を預け、走り出した。


 中央運航局の正面棟は、地方支局とは比べものにならないほど広かった。


 高い天井。


 磨かれた石床。


 左右へ続く受付窓口。


 行き交う職員たちが、くたびれた制服で駆け込んできたアデルへ一斉に目を向けた。


「期限指定公文書!」


 声が掠れた。


「ラドナ高棚共同区、トーヴァ・ケルン管理責任者からの回答です!」


 職員がすぐに専用窓口を開ける。


 アデルはリンの郵便鞄を机へ置いた。


 右手で封印を解除しようとして、指がうまく動かない。


 索で焼けた掌が、手袋へ張りついている。


「お手伝いします」


「触らないでください!」


 反射的に声を荒らげた。


 職員が手を止める。


 他人へ触らせてはいけないからではない。


 この鞄だけは、自分が開かなければならないと思った。


 リンから預かったままの状態で、自分の手から書類を渡さなければならない。


 そんなこだわりが、アデルの中にも生まれていた。


 震える左手を添え、ようやく留め具を外す。


 中から公文書の返送封筒を取り出した。


「管理番号をお願いします」


 職員が告げる。


 アデルは息を整え、番号を読み上げた。


 封印の確認。


 差出人の公印。


 回答書類と添付資料の重量照合。


 一つずつ進む確認が、ひどく長く感じられた。


「急いでください」


「確認を省略することはできません」


「分かってます。でも……」


 壁の時計は、午後五時五十五分を示している。


 あと五分。


 間に合っている。


 分かっているのに、書類をめくる職員の指が止まるたび、呼吸まで止まりそうになった。


 もし封印が傷ついていたら。


 落下の衝撃で、内部の書類が破れていたら。


 重量が登録と合わなかったら。


 リンが命を懸けて渡したものが、窓口で受領されなかったら。


 考えないようにしても、悪い可能性だけが浮かんでくる。


「番号、一致しました」


 職員が受領欄へ時刻を書き込む。


 午後五時五十六分。


 受領印が持ち上げられた。


 乾いた音が、広い受付棟へ響く。


「期限内の受領を確認しました」


 届いた。


 リンが落ちながら手放したものを、届かせた。


 それなのに、嬉しいとは思えなかった。


 安心も、達成感もなかった。


 受領印の音を聞いた瞬間に浮かんだのは、風路から落ちていくリンの姿だった。


 アデルは机の端を掴んだ。


 力を抜けば、その場へ座り込んでしまいそうだった。


「お一人でここまで?」


 職員が、酷く傷んだ制服と空になった鞄を見比べて尋ねた。


 アデルは顔を上げる。


「救援をお願いします」


 声がうまく出なかった。


 一度息を吸い直す。


「東方主幹線、第十七観測塔の南西。郵便魔女が一人、墜落しました。私が救助信号を二発上げています。後続の二人が救助に入りました。観測塔からも艇が出ているはずです。でも、中央から医療班を追加で出してください」


 近くにいた別の職員が通信窓口へ走る。


「墜落者の氏名は?」


「リネット・ファルン」


 名前を口にした瞬間、堪えていたものが崩れかけた。


 アデルはリンの空になった郵便鞄を胸へ抱き寄せる。


 数分前まで、中には確かに回答書類が入っていた。


 いまは、何もない。


 届いた証拠であるはずの軽さが、ひどく心細かった。


「早く、お願いします」


 通信窓口から、複数の声が重なる。


 第十七観測塔。


 救援艇。


 墜落者発見。


 アデルは顔を上げた。


「いま、何て?」


 通信を受けた職員が、こちらへ振り返る。


「現地の後続班から連絡です。墜落者を発見。呼吸と脈拍を確認。意識はありませんが、生存しています。現在、観測塔付属診療所へ搬送中です」


 その言葉を理解するまで、少し時間がかかった。


 生きている。


 リンは、生きている。


 アデルの膝から、今度こそ力が抜けた。


 机へ片手をつき、どうにか身体を支える。


 泣きたくなかった。


 ここは中央運航局の受付で、周囲には大勢の職員がいる。


 それでも、視界がまた滲んだ。


「付属診療所へ行きます」


「その様子では、すぐに飛べるとは思えません」


「行けます」


「医療艇を手配します。あなたも先に治療を受けてください」


「でも――」


「搬送先は同じです」


 職員の言葉に、アデルはようやく口を閉じた。


 胸に抱えた郵便鞄へ、額を押し当てる。


「絶対、許さない、からな」


 先ほどよりも小さな声だった。


「生きてるなら、ちゃんと最後まで聞いてもらうからな」


 空になった鞄から、返事はなかった。

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