午後五時五十六分
戻らなければ。
アデルは、何度も箒を反転させかけた。
少しでも視線を下へ向ければ、森の中にリンの姿を探してしまう。
けれど、木々はすでに落下地点を覆い隠していた。
救援標が上がる音が聞こえた。
今度は森の中からだった。
エルナとフィオナが、リンのところへ着いた。
そう理解しても、胸の奥に食い込んだ痛みは消えなかった。
自分で確かめたい。
息をしているのか。
目を開けたのか。
名前を呼べば返事をするのか。
何一つ分からないまま、背を向けて飛んでいる。
「……最ッ低!」
声が震えた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
索を切ったリンへか。
置いてきた自分へか。
こんな選択をさせた風路へか。
腕の中には、リンの郵便鞄がある。
いつも彼女が、傷一つつけないよう背負っていた鞄だった。
肩帯を自分の身体へ回し、胸元へ密着させる。
留め具を一度。
もう一度。
外れないことを確かめた。
安全索を引いたときに焼けた右手が、手袋の内側で脈打っている。頬にも、流れから弾かれた際についた細い傷があった。
痛みはどうでもよかった。
リンは、助けてほしいとは言わなかった。
間に合わせてほしい、と頼んだ。
あんたにしか頼めない、と。
「こんなの、断れるわけないでしょ」
声に出した途端、涙で前が滲んだ。
アデルは乱暴に袖で目元を拭った。
泣いて速度が落ちれば、リンが鞄を渡した意味がなくなる。
そんなことまで考えてしまう自分が嫌だった。
いま考えるべきなのは友人の命だ。
それなのに、懐中時計を開けば、残り時間を数えてしまう。
中央まで、残り一時間。
回答期限まで、一時間二十分。
どちらも待ってはくれない。
森へ戻ることはできる。
このまま箒を反転させれば、数分で救助地点へ着く。
エルナたちと一緒に、リンを救援艇へ乗せられる。
その代わり、回答書類は間に合わない。
ラドナで聞いた声が、頭をよぎった。
風車棚で水を汲み上げていた者。
山道を羊と歩く牧民。
診療所で患者を運ぶ道が必要だと話した者。
リンが落ちながら守ろうとしたのは、紙の束ではない。
アデルにも、それは分かっていた。
分かってしまったから、捨てられなかった。
「絶対、あとでぶん殴る!」
返事はない。
「勝手に渡したことも、勝手に落ちたことも、全部許さないからな!」
声を出さなければ、また後ろを向いてしまいそうだった。
アデルは前を見据え、箒へ残った魔力を流し込む。
主幹線は、まだ不安定に揺れている。
速度を上げるたび、右手の痛みが強くなる。
それでも落とさなかった。
リンの郵便鞄も。
飛行速度も。
中央運航局の時計塔が見えたのは、午後五時四十八分だった。
白い塔の周囲には、各地から集まる旅客船や公用艇が幾重にも行き交っている。
通常の進入順を待つ余裕はなかった。
アデルは郵便角笛を三度鳴らした。
期限指定公文書の緊急進入。
管制塔から赤い誘導旗が振られ、前方の飛行路が左右へ開く。
アデルは空いた進路へ箒を滑り込ませた。
発着場へ降りる直前、脚へ力が入らなくなる。
着地の衝撃で膝が折れかけたが、郵便鞄を抱えたまま踏み直した。
「医療班を――」
近づいてきた誘導員へ言いかけ、首を振る。
先に届けなければならない。
ここまで来て、自分が手続きを止めれば意味がない。
「期限指定公文書です。専用窓口は!」
誘導員が正面棟を指す。
アデルは箒を預け、走り出した。
中央運航局の正面棟は、地方支局とは比べものにならないほど広かった。
高い天井。
磨かれた石床。
左右へ続く受付窓口。
行き交う職員たちが、くたびれた制服で駆け込んできたアデルへ一斉に目を向けた。
「期限指定公文書!」
声が掠れた。
「ラドナ高棚共同区、トーヴァ・ケルン管理責任者からの回答です!」
職員がすぐに専用窓口を開ける。
アデルはリンの郵便鞄を机へ置いた。
右手で封印を解除しようとして、指がうまく動かない。
索で焼けた掌が、手袋へ張りついている。
「お手伝いします」
「触らないでください!」
反射的に声を荒らげた。
職員が手を止める。
他人へ触らせてはいけないからではない。
この鞄だけは、自分が開かなければならないと思った。
リンから預かったままの状態で、自分の手から書類を渡さなければならない。
そんなこだわりが、アデルの中にも生まれていた。
震える左手を添え、ようやく留め具を外す。
中から公文書の返送封筒を取り出した。
「管理番号をお願いします」
職員が告げる。
アデルは息を整え、番号を読み上げた。
封印の確認。
差出人の公印。
回答書類と添付資料の重量照合。
一つずつ進む確認が、ひどく長く感じられた。
「急いでください」
「確認を省略することはできません」
「分かってます。でも……」
壁の時計は、午後五時五十五分を示している。
あと五分。
間に合っている。
分かっているのに、書類をめくる職員の指が止まるたび、呼吸まで止まりそうになった。
もし封印が傷ついていたら。
落下の衝撃で、内部の書類が破れていたら。
重量が登録と合わなかったら。
リンが命を懸けて渡したものが、窓口で受領されなかったら。
考えないようにしても、悪い可能性だけが浮かんでくる。
「番号、一致しました」
職員が受領欄へ時刻を書き込む。
午後五時五十六分。
受領印が持ち上げられた。
乾いた音が、広い受付棟へ響く。
「期限内の受領を確認しました」
届いた。
リンが落ちながら手放したものを、届かせた。
それなのに、嬉しいとは思えなかった。
安心も、達成感もなかった。
受領印の音を聞いた瞬間に浮かんだのは、風路から落ちていくリンの姿だった。
アデルは机の端を掴んだ。
力を抜けば、その場へ座り込んでしまいそうだった。
「お一人でここまで?」
職員が、酷く傷んだ制服と空になった鞄を見比べて尋ねた。
アデルは顔を上げる。
「救援をお願いします」
声がうまく出なかった。
一度息を吸い直す。
「東方主幹線、第十七観測塔の南西。郵便魔女が一人、墜落しました。私が救助信号を二発上げています。後続の二人が救助に入りました。観測塔からも艇が出ているはずです。でも、中央から医療班を追加で出してください」
近くにいた別の職員が通信窓口へ走る。
「墜落者の氏名は?」
「リネット・ファルン」
名前を口にした瞬間、堪えていたものが崩れかけた。
アデルはリンの空になった郵便鞄を胸へ抱き寄せる。
数分前まで、中には確かに回答書類が入っていた。
いまは、何もない。
届いた証拠であるはずの軽さが、ひどく心細かった。
「早く、お願いします」
通信窓口から、複数の声が重なる。
第十七観測塔。
救援艇。
墜落者発見。
アデルは顔を上げた。
「いま、何て?」
通信を受けた職員が、こちらへ振り返る。
「現地の後続班から連絡です。墜落者を発見。呼吸と脈拍を確認。意識はありませんが、生存しています。現在、観測塔付属診療所へ搬送中です」
その言葉を理解するまで、少し時間がかかった。
生きている。
リンは、生きている。
アデルの膝から、今度こそ力が抜けた。
机へ片手をつき、どうにか身体を支える。
泣きたくなかった。
ここは中央運航局の受付で、周囲には大勢の職員がいる。
それでも、視界がまた滲んだ。
「付属診療所へ行きます」
「その様子では、すぐに飛べるとは思えません」
「行けます」
「医療艇を手配します。あなたも先に治療を受けてください」
「でも――」
「搬送先は同じです」
職員の言葉に、アデルはようやく口を閉じた。
胸に抱えた郵便鞄へ、額を押し当てる。
「絶対、許さない、からな」
先ほどよりも小さな声だった。
「生きてるなら、ちゃんと最後まで聞いてもらうからな」
空になった鞄から、返事はなかった。




