あなたにしか、できない
午後四時三十九分。
中央まで、残り一時間余り。
回答期限には間に合う。
前方に、第十七観測塔が見えた。
塔の青い灯が、一度大きく明滅する。
リンの指先へ触れていた流れが、唐突に途切れた。
「アデル、落として!」
叫ぶのと、主幹線全体が横へ跳ねるのは、ほとんど同時だった。
空そのものを、巨大な手で引かれたような衝撃だった。
先を飛んでいたアデルの箒が、流れの外側へ弾き飛ばされる。
「っ……!」
安全索が強く張り、リンの身体も前へ引かれた。
アデルは箒を立て直そうとしている。
だが、主幹線の外では、箒を浮かせるだけでも魔力を激しく奪われる。穂先から漏れる光が、不安定に明滅していた。
このままでは落ちる。
考えるより先に、リンは箒を加速させていた。
「何してるの!」
「戻す!」
「リン、来るな!」
アデルの声を無視し、その横へ身体をぶつけるように並ぶ。
主幹線の中心は、すぐ目の前で揺れていた。
アデルを押し戻せば、彼女の箒は風路の補助を取り戻す。
その反動を受ければ、自分の方が外へ出る。
そこまで分かっていた。
それでも、迷う余地はなかった。
「柄を離さないで!」
リンは肩から、アデルの箒へぶつかった。
骨まで響くような衝撃が、腕と背中を走る。
アデルの箒が、青い流れの中へ押し戻された。
同時に、リンの身体は中心から弾き出される。
「リン!」
箒が大きく沈んだ。
安全索が張り詰め、今度は風路へ戻ったアデルを外側へ引きずり始める。
リンは片手で柄へしがみつきながら、もう一方の手をアデルへ伸ばした。
届かない。
アデルも腕を伸ばしている。
「索を巻く! そのまま持ってて!」
アデルが固定環へ手を掛けた。
巻き取ろうとするたび、彼女の箒が風路の縁へ寄せられる。
「駄目!」
「黙って! 戻すから!」
「二人とも落ちる!」
「落とさない!」
アデルの声は、怒っているように聞こえた。
けれど、その顔は泣きそうに歪んでいた。
リンの胸へ、強い恐怖が込み上げた。
自分が落ちることではない。
アデルまで、こちらへ来ようとしている。
このまま索をつないでいれば、彼女は絶対に手を離さない。
助けられると思っているあいだは、中央へ行かない。
リンは肩へ掛かる郵便鞄へ手を置いた。
トーヴァから預かった回答書類が入っている。
各集落の意見書。
利用記録。
六十四人という数字の外側で暮らしていた人々の返事。
ここまで自分が運んできた。
旧風路を見つけ、何度も往復し、自分の手で受け取った。
最後まで、自分で届けるつもりだった。
肩帯へ指を掛けても、すぐには外せなかった。
これを手放せば、自分の配達ではなくなる。
そんな考えが、今になって胸へしがみついていた。
愚かだと分かっている。
鞄を抱えたまま落ちれば、手紙も一緒に届かなくなる。
それでも、指が動かなかった。
「リン! 手を伸ばして!」
アデルが叫ぶ。
その声を聞いた瞬間、王立風路技術学院の窓口が脳裏へ浮かんだ。
息を切らしながら、ネラの返書を自分の手で差し出した。
あのときも、アデルが最後まで隣を飛んでくれた。
自分一人で届けたのではなかった。
それでも、最後に渡したのは自分だった。
今回は、それさえできない。
悔しかった。
身体の奥を引き裂かれるほど、悔しかった。
だが、悔しいからといって、手紙まで道連れにすることはできない。
リンは肩帯を外した。
郵便鞄の重みが消えた瞬間、肩が恐ろしく軽くなった。
郵便魔女としての自分まで、身体から離れてしまったような気がした。
「アデル!」
リンは郵便鞄の留め具を、安全索へ掛けた。
「何してるの!」
「受け取って!」
「嫌!」
アデルは即座に叫んだ。
「そんなのいらない! 先にリンを戻す!」
鞄を索へ押し出す。
黒い革鞄が風に煽られながら、ゆっくりとアデルの方へ滑っていく。
「戻して!」
アデルが索を掴み、鞄をこちらへ押し返そうとした。
「持っていって!」
「嫌だって言ってるでしょ!」
「アデルなら間に合う!」
「あんたも一緒に行くの!」
「無理だよ!」
「やってみなきゃ分からない!」
「分かるの!」
リンの声が裏返った。
アデルの箒は、すでに流れの縁まで引かれている。
猶予はなかった。
それでも、索を切ることができなかった。
切れば、アデルは助かる。
手紙も届く。
その代わり、アデルへ自分を置いていかせることになる。
救助へ戻るのか。
期限へ向かうのか。
本来なら、自分が負うべき選択を、アデルへ押しつける。
あまりにも残酷だった。
けれど、ほかに頼める相手はいなかった。
速さだけではない。
ここまでリンへ合わせて飛び、無茶をすれば怒り、それでも最後まで離れなかった。
鞄の重さも、その中にあるものの意味も、アデルなら分かっている。
この手を離しても、彼女なら届かせる。
そう信じることだけが、いまのリンに残された仕事だった。
「お願い!」
声が震えた。
アデルの顔が、苦しそうに歪む。
「あんたにしか頼めない!」
それは命令ではなかった。
郵便魔女として正しい判断を告げる声でもなかった。
自分ではもう届けられないことを認め、アデルへ縋るための言葉だった。
郵便鞄が、アデルの胸元へ届く。
アデルは拒もうとした。
けれど、風に煽られた鞄が索から外れるように錯覚し、反射的に両腕で抱え込んだ。
その瞬間を、リンは見逃さなかった。
安全索の留め具へ手を掛ける。
アデルが顔を上げた。
「待って」
声から、怒りが消えていた。
「リン、待て。行かないからな!」
その言葉を聞けば、手を止めたくなった。
助けてほしいと言えば、アデルは戻ってくるだろう。
届かなくてもいいと言えば、自分を選んでくれるんだろう。
ほんの一瞬、それを望んだ。
手紙より自分を選んでほしいと、思ってしまった。
だからこそ、口にしてはいけない言葉がある。
「行って!」
リンは留め具を外した。
「リン!」
バチン、と音がして、二人をつないでいた索が、空中で大きく跳ねた。
引く力を失ったアデルの箒が、主幹線の中心へ戻っていく。
リンの身体は、箒ごと下層の流れへ引き込まれた。
急速に距離が開く。
アデルは郵便鞄を抱えたまま、こちらへ手を伸ばしていた。
「戻れ! リン!」
声が遠ざかっていく。
リンは、空になった肩へ手を伸ばした。
そこにはもう、何もなかった。
上空で、アデルの箒が大きく向きを変えた。
主幹線の縁まで戻ってくる。
「駄目……!」
リンの声は、風に呑まれた。
アデルは郵便鞄を胸へ抱いたまま、何かを叫んでいる。
聞こえない。
それでも、戻るつもりなのだと分かった。
リンが索を外した意味も、託した言葉も、いまのアデルには関係がない。
助けられるのなら、助けに来る。
そういう顔をしていた。
だが、アデルの箒は主幹線の縁で止まった。
後方の空へ顔を向ける。
そこには、少し遅れて飛んでくるエルナとフィオナがいるはずだった。
アデルは腰の信号筒を引き抜いた。
青い光が、空を裂いて高く上がる。
一発。
短い間を置いて、もう一発。
救助要請と、落下位置を知らせる二連信号だった。
後続の二人なら、必ず見える。
信号を撃ち終えても、アデルはすぐには動かなかった。
主幹線の縁で、郵便鞄を抱えたまま、リンを見ている。
戻りたいのだと、その姿だけで分かった。
リンも、戻ってきてほしかった。
いまなら、まだ間に合うかもしれない。
自分を引き上げ、四人で中央へ向かえるかもしれない。
そんな都合のよい考えが、胸へ浮かんだ。
けれど、救助信号はすでに上がっている。
アデルが自分で戻らなくても、エルナたちが来る。
助かる保証はない。
それでも、救助は後ろへつながった。
あとは、郵便を前へ運ぶだけだった。
「行って……!」
リンはもう一度叫んだ。
声が届いたのかは分からない。
アデルは唇を強く噛み、郵便鞄の肩帯を自分の身体へ掛けた。
最後に一度、リンへ手を伸ばす。
それから箒を中央へ向け直した。
青い流れが、アデルの身体を前へ押し出す。
その姿が、主幹線の中を急速に遠ざかっていった。
リンは空になった肩へ、もう一度触れた。
寂しいと思った。
悔しいとも思った。
けれど、アデルは自分を見捨てたのではない。
自分の命を後ろへ託し、郵便を前へ運んでくれる。
手紙は、まだ落ちていない。




