残っていた道②
最初の経路確認から戻ると、搬送の準備は終わっていた。
患者の担架は、フィオナの箒と補助台へ固定されている。
通常の風路なら、医療用の浮揚台だけでも十分に飛べる。しかし流れの細い旧風路では、少しでも中心を外せば、担架ごと谷へ引かれる可能性があった。
「患者さんの状態は?」
リンが尋ねる。
「痛み止めを使ってる。意識はあるけど、途中で急変するかもしれない」
フィオナは担架の横へしゃがみ、患者へ声を掛けた。
「谷底まで一時間くらいです。揺れるかもしれませんけど、絶対に運びますから」
患者は青白い顔で、それでも僅かに頷いた。
リンは自分の箒とフィオナの箒のあいだへ誘導索を結んだ。
「引っ張らないでね」
「分かってる。距離を見るためだけ」
「流れが細くなったら、私が先に合図する。担架を傾けないで、箒ごと動かして」
「リンこそ、急に曲がらないでよ」
「急に曲がる道なんだから仕方ないでしょ」
「先に言ってってこと」
「言うよ」
エルナが二人の索を確かめる。
「フィオナは担架だけに集中して。リン、後ろを確認しようとして流れを外さないこと」
「はい」
リンが先に旧風路へ入る。
数秒遅れて、フィオナの箒と担架が続いた。
往路で確認したはずの流れは、わずかに形を変えていた。
谷から吹き上がる自然風に押され、中心が山側へ寄っている。
「右へ半騎!」
リンが叫ぶ。
フィオナが担架を揺らさないよう、ゆっくり箒を寄せる。
「もう少し!」
「これ以上は岩壁!」
「その手前!」
「曖昧!」
フィオナの声が返る。
直後、旧風路が急に細くなった。
担架の右側が流れから外れ、浮揚台が大きく沈む。
「フィオナ!」
「分かってる!」
箒へ魔力を流すが、患者と担架の重さがあるため高度が戻らない。
誘導索が張り、リンの箒まで後ろへ引かれた。
リンは箒を反転させかけ、寸前で留まった。
流れの中で向きを変えれば、自分まで外へ出る。
「そのまま真っ直ぐ! 私が押す!」
「どうやって!」
リンは高度を落とし、フィオナの箒と並ぶ位置まで下がった。
右手を伸ばし、担架の補助台へ魔力を流す。
自分の箒を浮かせる力が弱まり、靴先が岩壁すれすれを通った。
「リン、下がってる!」
「前を見て!」
浮揚術式を一瞬だけ強める。
担架の右側が持ち上がり、旧風路の中心へ戻った。
フィオナの箒が軽くなる。
「戻った!」
「そのまま行って!」
リンは遅れた分を取り戻すため、箒へ魔力を流し込んだ。
右手の指先が痺れている。
それでも、患者の担架が安定したのを確認すると、前方へ戻った。
谷底の中継塔が見えたのは、出発から一時間十二分後だった。
エルナと現地の救護班が発着場で待っている。
「着地、ゆっくり!」
リンが先に降り、フィオナの進入位置を示す。
担架が地面へ着いた瞬間、救護班が駆け寄った。
患者はすぐに地上車へ移され、谷底の病院へ運ばれていく。
フィオナは箒から降りるなり、その場へ座り込んだ。
「腕、もう上がらない」
「私も」
リンは右手を開閉した。
指が思ったように動かない。
エルナが二人へ水を渡す。
「十五分休む。フィオナはこのまま病院へ。リンは私と共同区へ戻る」
「十五分で?」
「三十分にする?」
「十五分で戻れます」
「返事だけは元気ね」
リンは水を飲みながら、谷の上を見た。
まだ一度、共同区へ戻らなければならない。
トーヴァの回答は完成していない。
中央へ提出する帳簿の写しも、運び出す必要がある。
そして、その返事を期限までに届ける役目が残っている。
共同区へ戻る途中、リンの箒は何度か高度を落とした。
旧風路の中にいる限り、飛べなくなるほどではない。
けれど、往路では意識しなくても保てた速度が、少しずつ落ちている。
後ろを飛ぶエルナは何も言わなかった。
ただ、リンが速度を落とすたび、同じだけ間隔を詰めてくる。
「言いたいことがあるなら言ってください」
リンが前を向いたまま声を飛ばす。
「何も言ってないわよ」
「後ろから圧を感じます」
「被害妄想ね」
「絶対、帰ったら止めようと思ってるでしょ」
「状態を見て決めるわよ?」
「まだ飛べます」
「着いてから聞く」
それ以上、エルナは答えなかった。
理由は簡単だ。自分たちに手札はもう残っていないことを知っていたからだ。
共同区へ到着すると、リンは医務用の魔力計へ手を置かされた。
残量は五十八パーセント。
通常なら十分な数字だった。
だが、旧風路をもう一度下り、その後に中央まで数時間飛ぶことを考えれば、余裕があるとは言えない。
「一度休む」
エルナが決めた。
「回答が完成するまで食事と水分。次に谷底へ下りるときは、アデルが同行する」
「フィオナは?」
「患者に付き添って病院。谷底で待機してもらう」
「エルナさんは?」
「最後の搬送物をまとめる。私とフィオナは、あなたたちの二十分後に出る」
リンは頷いた。
自分一人で飛ぶと言っても、もう聞き入れられないことは分かっていた。




