残っていた道①
日が落ちるまでに、共同区の風舟はすべて地上へ降ろされた。
人的被害は、搬送舟の乗員と各発着台で転倒した者が負った軽傷だけで済んだ。
けれど、段丘同士を結ぶ交通の大半が止まった。
風車は回らない。
揚水設備も停止し、高い段丘へ水を送れなくなっている。
共同区の住民たちは、備蓄槽に残った水を確認し、手押しの滑車や地上索道を動かし始めた。
管理棟の会議室には、各集落の代表者が集まっていた。
「廃止に賛成する」
採石集落の代表が言った。
午前中にアデルへ意見書を渡した、片腕のない男だった。
「今日のを見ただろう。次は死人が出る」
「道を閉じたら、下の診療所へも行けない」
風車棚の工房長が言い返す。
「今だって行けない。こんな道を残して何になる」
「残すんじゃない。直せと言ってる」
「誰が金を出す」
「中央だ。勝手に魔力を引いたのも中央だろう」
「決めつけるな」
トーヴァが机を叩いた。
大きな音ではなかったが、重なっていた声が止まった。
「今の支線を、そのまま残せとは書かない」
トーヴァは、集められた封書と記録を見た。
「危険なのは今日分かった。中央の判断が全部間違いだったとも言わん」
採石集落の代表が、残った片手で机を支え、黙ってトーヴァを見る。
「だが、六十四人しかいないから閉じるという判断も、そのまま受け入れない。ここで暮らしている者を、最初から数えていない」
「返事は出せるのか」
誰かが尋ねた。
答える者はいなかった。
回答期限は、翌日の午後六時。
現行支線は消えた。
地上路では、どれだけ急いでも期限に間に合わない。
アデルが壁へ背を預け、腕を組む。
「中央まで、現行風路なら五時間半。ここから幹線へ戻れれば間に合う」
「戻れれば、ね」
フィオナが窓の外を見た。
夜の空には、観測標の光が一つもない。
段丘の間を行き交っていた風舟も、すべて地上へ下ろされている。止まった風車の羽根が、闇の中で大きな影になっていた。
エルナがリンへ視線を向けた。
「何か感じる?」
リンはすぐには答えなかった。
支線が消えてから、空の感触は大きく変わっていた。
北へ吸い上げられていた魔力が途絶え、その下に押し込められていた細い流れが、少しずつ輪郭を取り戻している。
現行支線よりも低い。
谷に沿い、山肌へ隠れるように南へ続いている。
風待ち郵便局へ向かったときに触れたものと、よく似ていた。
捨てられたあとも、完全には消えずに残っていた道。
リンの心臓が、大きく一度鳴った。
道がある。
この共同区は、まだ閉じ込められていない。
そう理解した途端、それまで身体へまとわりついていた疲労が、急に遠のいたような気がした。
指先へ触れる細い流れが、先ほどまでよりも鮮明に分かる。
どこから入るか。
どの高度を取るか。
山肌へ寄せるなら、どこで箒を傾けるか。
まだ一度も飛んでいない道の形が、頭の中で次々と組み上がっていく。
また、自分にだけ見えている。
そう思った瞬間、胸の奥がさらに昂った。
「ある」
声が、考えるより先に出た。
会議室にいる全員の目が、リンへ集まる。
「今の支線の下に、別の流れが残っています」
リンは窓際へ歩き、闇の中へ手を伸ばした。
「谷へ沿って、南へ向かってる。現在の風路より狭いですけど、完全には途切れていません」
「どこへ出る」
トーヴァが立ち上がる。
「まだ分かりません」
「使えるの?」
フィオナが尋ねた。
リンは流れの幅と揺れを、もう一度確かめた。
「一騎ずつなら」
答えながら、すでに頭の中では飛び方を組み立て始めていた。
入口は古い発着台の先。
高度を落とし、山壁に沿って入る。
途中で細くなる場所は、自分が先に通って示せばよい。
夜のうちに経路を確認できれば、朝を待たずに返書を外へ出せるかもしれない。
「私が見てきます」
言葉が続けて口から出た。
エルナの眉が動く。
「今から?」
「入口は分かっています。空荷なら、流れが細くなっても戻れます」
「外はもう暗いわ」
「道は見えます」
「あなたにはね」
エルナの声は強くなかった。
それでも、リンは次の言葉を止めた。
「旧風路に観測標はない。地図もない。あなたが落ちたら、こちらから位置を確認する方法もないわ」
「信号筒は持っていきます」
「撃てる状態ならね」
「でも、期限が――」
「明日の午後六時でしょう」
エルナはリンから目を逸らさなかった。
「今夜少し早く道を確認するために、明日その道を案内できる人を失うつもり?」
リンは黙った。
正しいことを言われている。
分かっているのに、窓の外に残る流れから目を離せなかった。
そこに道があると知ってしまった。
飛び方も、もう見え始めている。
いま確かめたい。
身体の内側に生まれた昂りが、共同区を救えるかもしれないという安堵だけではないことくらいは、リンにも分かった。
人々が道を失い、返事を外へ出せずにいる。
そんな状況に似つかわしくないほど、自分の感覚だけが研ぎ澄まされている。
指先へ触れる流れを追えば、どこまでも頭が冴えていく気がした。
その感覚が何なのかまでは、考えたくなかった。
リンは窓枠へ置いていた手を離した。
「……明るくなってから確認します」
「一人では行かせないわよ」
「流れは一騎分しかありません」
「間隔を空けてついていく。あなたが落ちた場所くらいは分かるようにする」
「落ちる前提で話さないでください」
「落ちない前提で飛ぶあなたよりはましよ」
返す言葉がなかった。
会議室の空気が、少しだけ緩む。
けれど、リンの身体に残った昂りまでは消えなかった。
飛ばないと決めたあとも、指先は窓の向こうにある流れを追い続けている。
いまなら通れる。
その確信だけが、胸の中で何度も繰り返された。
「明日は、入口まで私が案内します」
リンは言った。
「その先は、流れを見て決めます」
「あなた一人で決めないで」
エルナが重ねる。
一瞬だけ返事が遅れた。
「……はい」
トーヴァは壁に掛けられた古い地図を外し、長机へ広げた。
四十二年前の風路再編以前、ラドナと谷底の町を結ぶ旧支線が存在していた。
現在の第九支線が開通した際に廃止され、運航図からも消された道だった。
「この中継塔へ続いている可能性は?」
アデルが、谷底に描かれた古い印を指す。
「高いと思う」
リンは答えた。
「流れの向きも合ってる」
「片道は?」
「飛んでみないと分からない。でも、現行支線より低いから、谷底までは一時間前後だと思う」
アデルは懐中時計を取り出し、回答期限までの時間を計算し始めた。
フィオナは患者搬送に必要な担架と固定具について、診療所の医師へ確認している。
エルナは地図へ経路候補を書き込み、救助信号を上げる位置を決めていく。
リンは三人の会話を聞きながら、地図へ視線を落とした。
自分の頭に浮かんでいたのは、道へ入るまでのことばかりだった。
誰を連れていくか。
何を運ぶか。
途中で事故が起きたとき、どう戻すか。
リンがまだ考えていなかったことを、三人はすでに話し始めている。
それを見て、少しだけ肩の力が抜けた。
理由までは考えず、リンも地図の上へ指を置く。
「入口は、この発着台の先です。最初は山側へ寄せた方がいいと思う」
「なら、私たちは返事を書く」
トーヴァが机へ座り直した。
「明日の朝までに仕上げる」
共同区の書記が、新しい紙を広げる。
トーヴァは各集落から集められた封書へ手を伸ばした。
リンたちは、内容を聞かないよう会議室を出た。
廊下へ出る直前、トーヴァの声が聞こえた。
「今の道が危ないことは認める。だが、ここに誰がいて、何に使っていたのかを数え直してから決めてもらおう。まずは、そこからだ」
翌朝、空が白み始める前に、リンは旧風路の入口へ立っていた。
谷へ突き出した古い発着台は、長いあいだ使われていない。
石床には苔が生え、端の手すりも半分崩れている。
その先へ、昨夜よりもはっきりと、細い流れが下っていた。
流れへ意識を向けると、昨夜と同じ昂りが、身体の奥から戻ってくる。
眠りは浅かった。
身体には、昨日の救助と配達の疲労も残っている。
それでも、指先だけは異様なほど軽かった。
箒へ跨がろうとしたリンの隣へ、エルナが並ぶ。
「先に私が入ります」
「ええ。私は間隔を空けてついていく」
「流れから外れないでください」
「それは私の台詞よ」
後ろでは、アデルとフィオナが救助用の索と信号筒を準備していた。
アデルは予備索を、自分の箒とリンの箒のどちらからでも取れる位置へ留めている。
フィオナの背には救急包があり、エルナの信号筒も、すぐ抜ける位置へ固定されていた。
リンは自分の箒を確認したあと、三人の装備へもう一度目を向けた。
昨夜、エルナに同行を告げられたときには、不満だと思った。
いまは、誰もいないよりはよいと思えた。
その程度の変化だった。
「準備できた?」
アデルが尋ねる。
「できてる」
「何かあったら、すぐ合図して」
「分かってる」
「自分で何とかしてからじゃなくて、何かあった時点でね」
「分かってるって」
アデルはまだ言いたそうだったが、エルナが間へ入った。
「それ以上は、戻ってからにして」
「戻ってくる前提ですよ」
「それなら結構」
リンは箒の柄を握った。
古い流れへ触れた途端、周囲の音が少し遠くなる。
山肌へ沿った細い筋だけが、鮮明に感じられた。
「入ります」
古い発着台から、身体を滑らせる。
流れは細く、現行風路のような強い補助はない。
それでも、完全な風路外飛行よりは軽かった。
少し遅れて、エルナの箒が続く。
リンは一度だけ後ろを確かめた。
エルナがいる。
その姿を認めると、呼吸が僅かに楽になった。
谷底へ向かう旧風路へ箒を進めた。
現行風路のような強い補助はない。
それでも、完全な風路外飛行よりは軽かった。
流れは山壁へ沿って下り、途中で何度も細くなる。
「次、左へ寄ります!」
声を後ろへ飛ばす。
エルナが十分な距離を空けて続く。
谷の中腹では、流れが二つに分かれていた。
片方は岩壁の中へ消え、もう片方は南へ向かっている。
指先へ触れる魔力の癖を読み、南側を選んだ。
四十二年間使われていなかった道は、完全には死んでいない。
誰にも整備されず、観測標もなく、それでも地形と自然の魔力に沿って残っている。
一時間ほど進んだ先で、谷底の古い中継塔が見えた。
屋根は崩れていたが、発着場は使える。
さらに南には、現在も運用されている東方主幹線の青い観測灯が並んでいた。
「つながった……」
古い発着場へ降りる。
後から着地したエルナが、すぐに懐中時計を確認する。
「片道五十七分」
「患者を乗せるなら、もう少しかかります」
「それでも地上路より早い」
エルナは信号筒を取り出し、空へ二発撃ち上げた。
旧風路通行可能。
共同区で待つ二人への合図だった。




