午後四時十二分
午後三時二十二分。
四人は管理棟へ戻った。
机の上には、各集落から集められた封書と、通行記録、風舟の運用帳簿、風車棚の魔力使用記録が積まれている。
「全部で、これだけ?」
トーヴァが封書を数えた。
「五集落と牧民代表、それから灰角族の交易隊です」
フィオナが答える。
「灰角族もいるのか」
「昨日から下段の倉庫に滞在していました。石材を運んできたそうです」
「連中の郵便も、ここで受け取ってる」
中央の利用統計には、彼らも含まれていなかった。
机の上へ積み上がった書類を見ながら、リンは、出発前に読んだ一行を思い出していた。
登録人口、六十四人。
その数字自体は、消えていない。
ただ、いまはもう、その数字だけを見て小さな土地だとは思えなかった。
書類の外側にいた者たちの顔を、知ってしまったからだ。
それでも、道を残せばよいという答えも得られていない。
採石場では、過去の事故で腕を失った代表者が、廃止に賛成したとアデルが報告した。
診療所では、危険な支線を今のまま使うことには反対だが、患者を運ぶ別の道が必要だとフィオナが聞いてきた。
誰も同じ返事をしていなかった。
現地を見れば正しい答えが一つ見つかるのではなく、数えられていなかった事情が、次々と増えていく。
リンは郵便鞄の中にある封書の重みを確かめた。
自分が答えを決める必要はない。
けれど、これらを届けることで、誰かに簡単な答えを出させることになるかもしれない。
そのことが、少し怖かった。
アデルは懐中時計を机へ置いた。
「回答期限まで、二十六時間三十八分」
「今日中に書く」
トーヴァは封書へ手を伸ばした。
「共同区宛てだから、私が開ける。あんたたちは休んでていい」
「回答が完成したら、正式にお預かりします」
リンが答えた直後だった。
管理棟全体が、低く軋んだ。
窓の外で、風車の音が一斉に変わる。
それまで一定の速さで回っていた羽根が、大きく速度を落とした。
壁時計の針は、午後四時を指している。
「始まった」
トーヴァが窓へ近づく。
北東第九支線への魔力供給低下。
通知どおりの措置だった。
最初の数秒は、ただ風が弱くなっただけに見えた。
次の瞬間、段丘の下から大きな鐘が鳴った。
一度。
二度。
間を置かず、何度も。
「緊急鐘!」
フィオナが窓へ駆け寄る。
中段と下段を結ぶ風舟が、高度を失っていた。
小さな船体が山壁へ寄せられ、帆が不規則に揺れている。
乗っているのは三人。
一人は担架へ横たわり、残る二人が必死に帆と舵を操作していた。
「診療所の搬送舟だ!」
トーヴァが叫ぶ。
エルナはすでに扉へ向かっていた。
「アデル、リン、救助! フィオナは下の発着台を空けて! トーヴァさん、共同区中の風舟をすぐ降ろしてください!」
四人は管理棟を飛び出した。
発着場へ走りながら、リンは手袋を外した。
供給が減った。
だが、それだけではない。
支線に残っていた魔力が、北へ向かって一気に引かれている。
細い枝へ流れていた分まで、根元から吸い上げられているようだった。
「アデル!」
「分かってる!」
二人は同時に箒へ跨がった。
風路はすでに通常の半分ほどの力しかない。
箒へ魔力を流し込み、落下する風舟へ向かう。
「舟の下へ回る!」
リンが声を飛ばす。
「私が帆を切る!」
アデルが一気に前へ出た。
風舟の帆は、弱くなった流れを掴もうとして逆方向へ膨らみ、船体を山壁へ引き寄せている。
アデルは箒を傾け、帆柱すれすれを通過した。
腰の小刀を抜き、絡んだ補助索を切る。
帆が一枚外れた。
船体が大きく沈む。
「リン!」
リンは風舟の下へ箒を滑り込ませ、両手を船底へ向けた。
自分の箒を浮かせながら、さらに船体の重量まで支える余裕はない。
それでも、一瞬だけ落下を遅らせることはできる。
「浮揚、最大!」
箒の術式へ魔力を叩き込む。
青白い光が穂先から広がり、風舟の底を包んだ。
肩と腕へ重さがのしかかる。
「っ……重い!」
高度計の針が下がる。
風舟の落下は止まらない。
ただ、速度は僅かに緩んだ。
「発着台、空きました!」
下からフィオナの声が響く。
彼女は地上で人々を退かせ、着陸地点の周囲へ防護膜を張っていた。
アデルが風舟の側面へ回り、残った帆を山側へ向け直す。
「右へ押す! リン、あと十秒!」
「十秒は長い!」
「じゃあ八秒!」
「変わってない!」
二人で叫びながら、船体の向きを変える。
風舟は山壁を擦り、木片を散らした。
リンの防護光が一度大きく揺らぐ。
それでも、発着台の上まで運ぶことはできた。
「離れて!」
フィオナが両手を前へ出す。
地上に張られた防護膜へ、風舟が落ちた。
膜が大きく沈み、硝子が割れるような音を立てて砕ける。
船体は石床を滑り、積まれていた荷箱へぶつかって止まった。
リンは箒を立て直し、発着台へ降りる。
腕が痺れていた。
「全員、生きてる!」
フィオナが舟の中を確認する。
担架の患者は意識があり、付き添っていた二人も大きな怪我はない。
安堵する暇はなかった。
上空で、北東第九支線の観測標が一つずつ消えていく。
終端から順に、青い灯が黒くなる。
「供給を七十二まで落としただけじゃないの?」
アデルが息を切らしながら見上げた。
「引かれてる」
リンは北側へ手を伸ばした。
「残ってる魔力が全部、幹線へ持っていかれてる」
最後の観測標が消えた。
空に道はある。
地図の上にも線は残っている。
しかし、箒を支える流れはなくなっていた。
北東第九支線は、午後四時十二分、完全に消失した。
事故の直後から、共同区全体が慌ただしく動き始めた。
上空に残っていた風舟を着陸させるため、鐘が鳴り続けた。
フィオナは診療所の職員とともに、負傷者を一人ずつ確認して回った。風舟が急に沈んだ際に転倒した者や、荷箱へ腕を挟まれた者が何人かいたものの、命に関わる怪我はなかった。
アデルは下段の発着台へ残り、着陸した風舟を索で地面へ固定していった。
風路を失った船体は、山から吹き上げる自然風を受けるだけでも大きく揺れる。帆を畳み、固定索を二重に掛け、荷物をすべて降ろさなければならなかった。
「そっち、もっと張って!」
アデルが職人へ声を掛ける。
「これ以上張ると、船体が割れる!」
「じゃあ荷物を全部下ろして! 空なら持つ!」
「石材だぞ、何人いると思ってる!」
「落ちるよりましでしょ!」
普段の郵便配達なら、荷物を受け渡せば終わる。
けれど今日は、運ぶ道そのものが消えていた。
エルナは管理棟と各段丘を走り回り、水と薬の残量を確認した。
揚水設備が止まったため、上段の貯水槽へ新しい水は入らない。備蓄だけなら三日分。ただし、診療所と共同炊事場での使用を優先すれば、一般家庭へ配れる量は少なくなる。
「上段の浴場を止めてください」
エルナがトーヴァへ告げる。
「洗濯場も共同区画だけ残して閉鎖。飲み水は一人一日二瓶まで。採石場にある雨水槽も確認を」
「うちの住民に指示を出すのが上手いな」
「事故現場では、所属より先に必要なことをします」
トーヴァは苦笑し、すぐに伝令を走らせた。
リンも水運びを手伝おうとした。
だが、木箱を抱えたところで、エルナに取り上げられた。
「あなたは休んで」
「これくらい持てます」
「腕が震えてる」
「さっきの浮揚術式のせいです。少し休めば――」
「その少しを、今休んで」
「でも、みんな動いてるのに」
「明日、道を見つけるのは誰?」
リンは黙った。
「今のあなたが水瓶を二つ運んでも、共同区全体は助からない。明日飛べなくなったら、誰も外へ出られないの」
言われていることは分かる。
分かるからこそ、腹立たしかった。
「そんな顔をしないで」
「どんな顔ですか」
「自分だけ何もしてないみたいな顔」
「してません」
「してるわよ」
エルナはリンを管理棟の壁際へ座らせ、水と干し肉を渡した。
「食べて。一時間は飛ばないこと」
「一時間も?」
「二時間にする?」
「一時間で大丈夫です」
リンが干し肉を噛んでいると、固定作業を終えたアデルが戻ってきた。
額に汗を浮かべ、袖には帆布の汚れがついている。
「何してるの」
「休憩」
「リンが?」
「どういう意味?」
「自分で休むって言ったの?」
「エルナさんに座らされた」
「だよね」
アデルはリンの隣へ腰を下ろした。
しばらく二人とも、夕暮れの段丘を見ていた。
動かなくなった風車の羽根が、山の影の中で黒く止まっている。
「明日、戻れるのかな」
アデルが言った。
「残っていれば」
「……見つけても、全部自分で運ぼうとしないでよ」
「そんなことしない」
「する顔してる」
「アデルも言うの?」
「リン、分かりやすいから」
アデルは靴先で小石を転がした。
「飛べるのが自分だけなら、自分が何回でも飛べばいいって思ってるでしょ」
「ほかに方法がなければ、そうするしかないよ」
「入口と出口が分かれば、運ぶのはほかの人でもできるかもしれない」
「それができるのは私だけじゃん」
「だから、見えるところまであんたが連れていけばいい。そこから先は、私たちが運ぶ」
リンは何も答えなかった。
アデルは横目でリンを見る。
「郵便って、一人で最初から最後まで持ってないと駄目なの?」
「そんな決まりはないけど」
「じゃあ、明日は私にも持たせて」
「重いよ」
「誰に言ってるの」
いつか自分が言った台詞を返され、リンは少しだけ笑った。
「分かった」
「本当に?」
「……分かったってば」
アデルはまだ疑わしそうだったが、それ以上は何も言わなかった。




