六十四人のための道②
トーヴァ・ケルンは、六十代半ばほどの女性だった。
白髪を短く切り、厚手の作業服の上に共同区の印章を下げている。管理責任者という肩書きから想像するよりも、山の現場で働く者に近い姿だった。
「中央から?」
リンが身分証と公文書の管理番号を示すと、トーヴァの目が封筒へ向いた。
「やっと来たか」
「届く予定をご存じだったんですか」
「昨日、分岐塔から連絡が来た。運用区分に関する文書が向かっている、とな。中身までは聞いていない」
トーヴァは受領票へ署名し、共同区の公印を押した。
リンは署名と印、管理番号を確認する。
「本人確認を完了しました」
郵便鞄の封印を解き、公文書を取り出した。
「こちらです」
トーヴァは両手で受け取った。
封筒の表題を読み、管理棟の窓から外を見る。
段丘の間では、風舟が荷箱を運んでいた。
「会議室を使う。あんたたちも来てくれ」
「内容は、受取人であるトーヴァさんのものです」
リンが答える。
「分かってる。だが、返事を運ぶのはあんたたちだろう」
「ご本人から同席を求められるのであれば」
トーヴァは管理棟の奥にある小会議室へ、四人を案内した。
古い長机の周囲へ椅子が並び、壁には共同区全体の地図が掛けられている。
最上段のラドナ村だけではない。
斜面に散らばる四つの小集落、牧草地、採石場、診療所、風車棚。発着場からは見えなかった山の裏側にまで、人の暮らす場所が記されていた。
トーヴァは公文書の封蝋を割り、最初の一枚へ目を通した。
読む手が途中で止まる。
もう一度、上から読み直した。
「そう来たか」
怒鳴りもしなければ、紙を叩きつけることもしなかった。
ただ、声が低くなった。
「何が書かれているか、伺っても?」
エルナが尋ねる。
トーヴァは書面を机へ置いた。
「北東第九支線は、一か月後に廃止。郵便取扱いも同日終了。理由は利用者が少なく、設備の維持費が見合わないこと。それから、最近の出力低下だ」
フィオナが壁の地図と書類を見比べた。
「登録人口六十四人、と書いてあります?」
「そのとおり」
トーヴァは乾いた笑いを漏らした。
「上のラドナ村だけならな」
「共同区全体では?」
「定住している者だけで二百八十七人。春から秋までいる牧夫や交易隊まで含めれば、四百を越えることもある」
「どうして台帳には?」
リンの問いに、トーヴァは壁の地図を指した。
「郵便住所を持っているのは、上のラドナ村だけだ。下の集落宛ての郵便も、全部ここで受け取って配る。風路を通った人数は管理塔で数えるが、行き先はラドナで一括される」
中央の記録上、北東第九支線を利用しているのは六十四人。
だが、その数字は誤記ではなかった。
定められた方法で、定められた者だけを数えた結果だった。
だからこそ、リンは居心地の悪さを覚えた。
帳簿を作った者が、存在しない人間を消したわけではない。登録された項目を、正しく集計しただけなのだろう。
出発前の自分も、その数字を正しいものとして読んだ。
間違った数字よりも、正しい数字の外側にこれほど多くの人がいることの方が、ずっと厄介だった。
「廃止後の措置は?」
アデルが尋ねる。
「登録住民には移転費用を出す。郵便は一年間、指定した転居先へ無料転送。共同区に残る者には、月二回の地上便を検討する」
「地上便でここまで?」
フィオナが窓の外を見る。
段丘の下には、深い谷が広がっている。
「雪のない時期でも谷底から二日だ。冬は通れん」
トーヴァは次の書類をめくった。
「異議がある場合は、明日の午後六時までに回答書類と利用実態を提出。安全確保のため、本日午後四時より、支線への魔力供給を段階的に引き下げる」
室内の壁時計は、午前十一時四十八分を示していた。
供給低下まで、四時間余り。
「今日の午後四時?」
アデルが書面へ身を乗り出す。
「いきなり切るわけではない。七十二パーセントまで落とし、明朝まで状態を見ると書いてある」
「こちらへ来る途中の出力は、七十九パーセント前後でした」
エルナが言った。
「予定どおりなら、閉鎖基準ぎりぎりまで下げることになります」
トーヴァは椅子へ深く腰を下ろした。
「中央の言い分も、分からんわけではない」
リンは思わずトーヴァを見た。
「反対ではないんですか」
尋ねたのはフィオナだった。
「この支線が弱っているのは、ここに住んでいれば分かる。風舟が沈む。風車の回りも悪い。去年は荷舟が一隻、下の棚へ落ちかけた」
トーヴァの指が、公文書の上で止まる。
「道を残せと叫んで、その道から誰かが落ちたら、中央だけを責めれば済む話でもない」
その言葉に、リンは窓の外へ目を向けた。
細い風路の上を、荷物を積んだ風舟が横切っていく。
ここへ来る途中、自分たちも流れの薄さを感じていた。
支線を閉じれば、ここで暮らす者たちの生活が止まる。
だから残すべきだと、簡単には言えない。
残した道から風舟が落ちれば、失われるのもまた、ここで暮らす者の命だった。
閉じることも怖い。
残すことも怖い。
現地を見れば答えが分かるのだと、どこかで思っていたのかもしれない。
実際には、人の顔が見えるようになったぶん、どちらかを選ぶことが難しくなっただけだった。
「ただ、六十四人のための道だと言われて、そのまま閉じられるのは違う」
トーヴァは書面を見つめた。
「異議を申し立てますか」
リンが尋ねる。
「まだ決めていない」
トーヴァは首を横へ振った。
「下の者たちにも聞く。この道が危なくても残したいのか、移るのか。住んでいる者が決めることだ」
どちらの答えを選ぶのか。
それはトーヴァ一人にも、中央にも決められない。
ネラの広場で聞いた言葉が、リンの中へ戻ってきた。
誰かに決めてもらったのでは、自分の返事にはならない。
けれど、一人だけで決められるものでもない。
「どちらの返事でも、お預かりします」
リンが答えると、トーヴァが顔を上げた。
「中央から来たのに、残せとは言わないんだな」
「私たちは中央の使いではありません。郵便魔女です」
少し硬かったかもしれない。
それでも、今のリンに言えるのはそこまでだった。
トーヴァは僅かに口元を緩める。
「なら、郵便魔女に頼みたい」
「何でしょう」
「各集落の代表へ、この写しを届けてくれ。返事は封をして持ってこさせる。中身は見なくていい」
トーヴァは公文書に同封されていた通知書の写しを分けた。
「午後三時までに、ここへ戻したい」
「正式な郵便として受け付けます」
「頼む。こういうときくらい、住所が一つしかないことを使わせてもらう」




