六十四人のための道①
黒樫の森から戻って数日後、東部第四支局へ中央運航局の封蝋を持つ公文書が届いた。
薄い灰色の封筒は、通常の書留より一回り大きく、表面には三本の赤線が引かれている。緊急性を示す表示であり、宛先欄には、北東第九支線終端、ラドナ高棚共同区管理責任者、トーヴァ・ケルンと記されていた。
外側の管理票には、職務受取限定、回答書類在中、期限指定。
文書の表題は、北東第九支線運用区分変更通知。
回答期限は、翌日の午後六時だった。
「間に合うか?」
会議室の長机を挟んで座るオスカーが、封筒の表面を指先でなぞった。
「当然です」
リンはオスカーの瞳の奥に、少しばかりの不安があるように感じた。それを払拭するように、手短に、返答をする。
「北東第九支線の出力が落ちているという報告は、先月から上がっています」
エルナが運航記録を開いた。
「五日前には平常時の八十七パーセント。昨日の測定では七十九パーセントまで低下しています」
「閉鎖基準はどれくらいで設定しているんですか?」
フィオナが尋ねる。
「七十パーセントを下回った状態が十二時間続いた場合、旅客船と貨物船は通行停止。郵便箒については、現地管理官の判断になる」
答えたのはアデルだった。
椅子の背へ浅く身体を預けながらも、視線は卓上の風路図から離していない。
「でも、急に下がりすぎじゃない? 五日前から八パーセントも落ちてる」
「中央も同じ判断だから、この文書を出したのかもしれないわね」
エルナが答える。
オスカーは封筒を持ち上げ、裏面の通過印を確認した。
「中央を出たのは三日前だ」
「三日?」
リンは思わず聞き返した。
中央運航局から東部第四支局まで、直轄便を使えば一日半もかからない。
「第二中継局で六時間、北東幹線の分岐塔で十四時間止まっている。風路の出力低下と、迂回便の混雑が原因だ」
「回答期限は変わらないんですか」
「変わらん」
オスカーは公文書を机へ戻した。
「受取人へ届かなかった事情と、回答が遅れた事情は別に処理される。だが、期限が過ぎれば、その間に何があったとしても、手続きは一度止まる」
リンは封筒へ目を落とした。
何について返事を求められているのかは分からない。それでも、三日間の輸送遅延によって、受取人が考えるための時間を失っていることだけは確かだった。
「配達は今日中に完了させます」
「……頼む」
オスカーは風路図の北東部を指した。
「ただし、今回は郵便を渡して帰るだけではない。北東第九支線の現地確認を兼ねる」
指先の先には、山脈の奥へ細く入り込む一本の支線があった。
ラドナ高棚共同区は、切り立った山壁の段丘に作られた複数の集落をまとめた行政区である。
中央の利用者台帳に登録されている人口は六十四人。
定期郵便は週に二便。
大型の貨物船が入れないため、日用品や医薬品は小型の風舟で運ばれている。
「同行者は四人だ」
オスカーが言った。
「エルナが現場責任者。アデルは経路選定と緊急時の連絡。フィオナは共同区内の集配と住民対応。リンは公文書の管理と、風路の状態確認を担当しろ」
「四人で一通ですか」
フィオナが目を丸くした。
「一通を運ぶだけなら多い。風路が途中で消えなければな」
会議室が静かになった。
誰も、冗談だとは思わなかった。
「北東第九支線に、古い流れが残っている可能性はありますか」
エルナがリンへ尋ねる。
「地図だけでは分かりません。現地で触れてみないと」
「見つけても、勝手に入らず、報告を優先するように」
「まだ何もしてません」
「先に言ってるの」
エルナはそう答えてから、オスカーへ視線を戻した。
「出発時刻は?」
「三十分後だ。可能なら正午までに公文書を届けろ」
オスカーは四人を順に見た。
「任せたぞ」
「はい」
リンは公文書を両手で受け取った。
管理番号と封印を確かめ、郵便鞄の内袋へ収める。
普段の手紙より硬く、重かった。
中に何が書かれているかを知らなくても、その一通が誰かの生活を動かす文書であることは、封筒の厚みだけで分かった。
北東第九支線へ入ったのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。
北東幹線までは、空も風路も穏やかだった。
大型の旅客船や貨物船が行き交い、整えられた魔力が四人の箒を一定の速度で運んでくれる。
分岐塔を越え、第九支線へ進路を変えたところで、箒へかかる感触が変わった。
風路は残っている。
けれど、流れが薄い。
普段なら箒の穂全体を包むはずの魔力が、ところどころ抜け落ちている。長い布の端が裂け、風に煽られているような不安定さだった。
「速度を一段落とす」
先頭を飛ぶエルナが右手を上げた。
アデルが不満そうに高度を合わせる。
「この程度なら、まだ出せますよ」
「必要のない場所で速度を出さないで」
「分かってます」
「その割に不満そうね」
「顔のことまで言われるんですか」
アデルは口を尖らせながらも、素直に速度を落とした。
リンは手袋を外し、流れへ指先を伸ばした。
外から見れば、青空の中に一本の道が続いているだけだ。観測標も稼働し、閉鎖信号は上がっていない。
だが、内部では魔力が同じ方向へ流れていない。
本来なら終端のラドナへ向かうはずの力の一部が、北側へ引かれていた。
「リン?」
横へ並んだフィオナが、こちらの顔を覗き込む。
「変?」
「少し」
「少し、ってどれくらい?」
「風路そのものは飛べる。でも、力が横へ逃げてる」
リンは北側の山並みを見た。
そこには太い商業幹線が走っている。
東部と北方の大都市を結び、大型船が一日中行き交う主要路線だった。
「そんなことまでわかるんだ?」
アデルが尋ねる。
「たぶんだよ。まだ断定はできないけど」
「記録しておくわ」
エルナが飛行記録板へ時刻と位置を書き込む。
「現地へ着くまでは、無理に探らないで。流れの中心を外さないこと」
支線は山脈へ近づくにつれて細くなった。
左右には高い岩壁が迫り、その間を縫うように風路が上昇していく。
何度か強い吹き返しを受けたが、四人とも隊列を崩さなかった。
最後の稜線を越えた先で、ラドナ高棚共同区が姿を現した。
切り立った山壁に、大小の段丘が幾重にも重なっている。
最上部には石造りの管理棟と風路の発着場。その下には木造家屋が密集した居住区があり、さらに下の段丘には畑や風車、小さな工房が広がっていた。
段丘同士は索道と昇降籠で結ばれ、小型の風舟が人や荷物を運んでいる。
畑で働く者。
荷箱を風舟へ積み込む者。
家の間を走る子供たち。
発着場から見える範囲だけでも、中央の利用者台帳に記されていた六十四人を大きく上回っていた。
「六十四人?」
フィオナが、思わず数字を口にした。
「台帳と違いすぎる」
アデルも眼下を見回し、眉を寄せる。
リンは何も言えなかった。
出発前、資料に記された六十四人という数字を見て、自分も小さな共同区なのだと思っていた。
定期郵便は週に二便。
大型貨物船は入れない。
山奥に残された、わずかな住民のための支線。
書類にそう書かれていたわけではない。それでもリンの頭の中には、いつの間にか、そのような土地の姿が作られていた。
数字が間違っているかもしれないとは、考えなかった。
現地へ来るまで、自分も中央と同じ六十四人しか見ていなかったのだ。
「まずは配達よ」
エルナの声で、リンは意識を戻した。
四人は管理棟前の発着場へ降りた。




