宛名はヴァルク・ガルム④
セレン牧場は、黒樫村から少し離れた丘の上にあった。
低い石垣と木の柵に囲まれた斜面で、羊と山羊が混じって草を食んでいる。小屋の横には干し草が積まれ、白い布をかけた桶がいくつも並んでいた。
マーヤ・セレンは、柵の内側で小さな山羊を追いかけていた。
薄茶色の髪を二つに結び、膝には乾いた泥がついている。リンたちが柵の前に立つと、山羊の首に縄をかけようとしていた手が止まった。
「郵便屋さん?」
「東部第四支局の郵便魔女、リネット・ファルンです」
リンは身分証を見せた。
「マーヤ・セレンさんですか」
「はい」
マーヤの目が、リンの鞄へ向く。
期待ではない。
先に浮かんだのは、不安だった。
「手紙、また戻ってきたんですか」
リンは首を横に振った。
「いいえ」
鞄から、ヴァルクの返書を取り出す。
「ヴァルク・ガルムさんから、あなた宛ての返書をお預かりしています」
マーヤは動かなかった。
追いかけていた山羊が、縄を引きずったまま足元の草を食べ始める。それでも、マーヤは気づいていないようだった。
「ヴァルクさん、いたんですか」
「いました」
「読んでくれましたか」
「はい」
「怒ってませんでしたか」
「怒っていませんでした」
マーヤの口が、少しだけ震えた。
「ほんとに?」
「はい」
リンは返書を両手で差し出した。
「マーヤ・セレンさん宛てです。ヴァルク・ガルムさんから、お預かりしました」
マーヤは、手を出しかけて止めた。
「受け取って、いいんですか」
「もちろんです」
フィオナが少し横へ寄り、封筒の向きをマーヤに合わせた。
「封はしっかりしています。けれど、便箋が少し大きく折られているので、開ける時はここからゆっくりお願いします」
マーヤは、言われた通りに封筒を受け取った。
封筒は彼女の手には少し大きかった。宛名欄には、フィオナが整えた文字で、マーヤ・セレンと書かれている。差出人欄には、ヴァルク・ガルム。
その名前を見た瞬間、マーヤは息を詰めた。
「ヴァルクさんの字じゃない」
「封筒の字はこちらで書きました。便箋は、ヴァルクさんが書かれています」
「ヴァルクさん、字を書くの苦手だから」
マーヤは小さく言った。
「木札に羊って書こうとして、半分くらい黒くなってたことがあります」
「そうなんですね」
「でも、羊は助けてくれました」
封を開ける手が、少し震えている。
フィオナがそっと支えた。
「ゆっくりで大丈夫」
便箋が開かれる。
大きな字が、紙の上に並んでいた。
リンは中身を読まないように視線を外した。けれど、マーヤが声に出した一文だけは聞こえた。
「俺はまだ、北の監視塔にいる。住所は変わらない」
マーヤは、その行をもう一度読んだ。
それから、ぐっと便箋を胸に抱えた。
「住所、変わってないって」
「はい」
「また、書いてもいいんですか」
リンはすぐには答えなかった。
黒樫の森は、危険区域のままだ。北部監視塔までの道は安定していない。通常便として軽く受け付けられるとは言えない。
けれど、書けないとは言わない。
「書けます。ただ、しばらくは普通の便より時間がかかるかもしれません。森の道を確認しながら届けることになります」
「待ちます」
マーヤは即答した。
「戻ってこないですか」
「絶対に戻らないとは言えません」
リンは、そこだけは正直に言った。
マーヤの表情が不安に傾く前に、続ける。
「でも、何もしないで返すことはしません。宛先を確認します。受取人がいるか、届ける道があるか、ちゃんと調べます」
マーヤは便箋を握ったまま、こくりと頷いた。
「それなら、書きます」
小さな山羊が、マーヤの袖を噛んだ。
マーヤはようやくそれに気づき、「あっ」と声を上げて袖を引っ張る。緊張が一度そこでほどけた。
「この子のことも書きます」
「山羊ですか」
「羊です」
マーヤは真顔で言った。
フィオナが少し首を傾げる。
「角がありますよ」
「でも、おばあちゃんが羊なので、うちでは羊です」
「なるほど」
フィオナは納得したのか、納得していないのか分からない顔で頷いた。
マーヤは便箋をもう一度見た。
「ヴァルクさん、笑ってましたか」
リンは、塔の入口に立っていた大きな背中を思い出した。
笑っていたかどうかは、分からない。
けれど、封筒を受け取る手つきは、とても慎重だった。
「顔には、あまり出ませんでした」
リンは答えた。
「でも、マーヤさんのことは覚えていました。川へ落ちた羊のことも」
マーヤは目を丸くした。
「覚えてたんだ」
「はい」
「私も覚えてます」
便箋を胸に抱え直す。
「ずっと」
リンは受領票を取り出した。
「では、こちらに受領の署名をお願いします。難しければ、印でも大丈夫です」
「書けます」
マーヤは少し背筋を伸ばした。
フィオナが携帯用の硬い下敷きを出し、受領票を押さえる。マーヤは鉛筆を握り、ゆっくりと自分の名前を書いた。
マーヤ・セレン。
少し曲がっている。
けれど、読める。
リンはその署名を確認した。
「マーヤ・セレンさん、ご本人受領です」
マーヤは便箋と封筒を大事そうに抱えたまま、家の方へ駆け出した。
「お母さん!」
丘の上に、声が弾む。
「ヴァルクさん、いた!」
その声を聞きながら、リンは受領票を鞄へしまった。
大きな指印の下に、小さな署名が並ぶ。
どちらも少し枠からずれていた。
それでも、どちらも名前だった。
返送印の下で消えかけていた宛名は、ようやく返事を持って帰ってきた。




