宛名はヴァルク・ガルム③
帰り道で、森は一度だけ深く沈んだ。
風が止まったわけではない。葉は揺れているし、枝も鳴っている。けれど、足元の石の下に残っていた古い術式の感触が、ふっと遠くなった。
リンは立ち止まった。
「どうしたの」
フィオナがすぐに振り返る。
「道が、少し落ちた」
「戻れる?」
「今なら」
「じゃあ、今戻る」
フィオナの返事は早かった。
リンも逆らわなかった。もう届けるものは預かっている。ヴァルク・ガルム本人の受領記録もある。木板地図も、返書も、無事に鞄の中に入っている。
ここで余計な確認をする理由はなかった。
二人は来た時より少し速く歩いた。走りはしない。根に足を取られれば、封筒も木板も危ない。フィオナは何度か鞄の留め具を確かめ、リンは石の下に残った流れを拾い直しながら、南へ続く運搬路へ戻った。
森の入口で、セドリック・ハウが待っていた。
杖を片手に、発着場の方ではなく森の奥を見ている。リンたちの姿を認めると、彼は一度だけ目を閉じた。
「戻ったか」
「はい」
リンは、記録票を出した。
「ヴァルク・ガルムさん、ご本人を確認しました。郵便物は本人受領。返書一通をお預かりしています」
セドリックの視線が、記録票の大きな指印で止まった。
枠から少しはみ出した黒い印。
それを見て、彼の表情がわずかに崩れた。
「……同じだ」
「以前の受領記録と照合済みです」
「いや」
セドリックは首を横に振った。
「昔も、こんなふうにはみ出していた。本人は、枠に入れようとしていたが」
リンは何も言わなかった。
フィオナも、木板地図を抱えたまま黙っている。
セドリックは少し遅れて、管理官の顔に戻った。
「北部監視塔は」
「残っています。鐘も、木札も」
「鳴るか」
「確認していません。ただ、ヴァルクさんは今も森を見ています」
その言葉を聞いた時、セドリックの手が杖の柄を強く握った。
「そうか」
それだけだった。
リンはヴァルクから預かった木板地図を示した。
「北側の獣道と旧運搬路の変化が記されています。支局で写しを作ったあと、管理所にも照会を出します」
「分かった」
セドリックは頷いたあと、少しだけ迷うように口を開いた。
「ヴァルクは、村のことを何か言っていたか」
「セドリックさんの足のことを聞いていました」
セドリックは顔を上げた。
リンは続ける。
「それから、村の鐘のことも」
「そうか」
今度の声は、さっきより低かった。
「覚えていたか」
「はい」
セドリックはしばらく森の方を見ていた。
謝罪も、言い訳も、リンは求めなかった。ここで何かを言わせれば、別の話になってしまう。
今、鞄の中にあるのは、マーヤ・セレン宛ての返書だった。
「これから、差出人へ返書を届けます」
「セレン牧場なら、南西の丘だ。夕方の搾乳前なら、まだ外にいる」
セドリックはそう言って、道を教えた。
リンが礼を言って歩き出すと、背後から声が届いた。
「郵便魔女」
振り返る。
セドリックは帽子を取っていた。
「北の鐘の音を、村がまだ覚えていると伝えてくれて、ありがとう」
「私は、預かった言葉を届けただけです」
リンはそう答えた。
セドリックは少しだけ笑った。苦そうで、けれど崩れきってはいない笑い方だった。
「それで十分だ」




