宛名はヴァルク・ガルム②
灰角族の男は、すぐには答えなかった。
黒樫の葉が頭上で鳴っている。森の奥からは、さきほど逃げた獣の足音も、もう聞こえない。フィオナの指先が封筒の角に添えられたまま、わずかに強張っていた。
男の視線は、リンでもフィオナでもなく、封筒の宛名に落ちている。
ヴァルク・ガルム。
黒樫の森、北部監視塔跡。
子どもの字だった。まっすぐ書こうとして、何度も筆先が迷ったような字だ。けれど、名前だけは丁寧に濃く書かれている。
「ヴァルク・ガルム」
男は、低く言った。
「俺だ」
リンは、胸の奥で止まっていた息を少しだけ吐いた。
「本人確認を行います。利用者証、または国際郵便組合の受領記録に照合できるものはありますか」
男はしばらくリンを見ていた。
その問いを、忘れていたような顔だった。
やがて、腰に下げた革袋へ大きな手を入れる。取り出されたのは、古びた金属札だった。人間の掌ほどあるが、ヴァルクの手の中では小さく見える。
リンは両手で受け取った。
国際郵便組合、森林協定区域利用者証。
登録名、ヴァルク・ガルム。
登録区域、黒樫の森北部監視塔。
登録印は古いが、残っている。名簿で見た番号とも一致していた。
「確認しました」
リンは金属札を返した。
「ヴァルク・ガルムさん、ご本人として扱います」
男の眉が、わずかに動いた。
「扱う?」
「郵便物の受取人として、です」
ヴァルクは答えなかった。
ただ、封筒へ目を戻す。
フィオナが一歩前へ出た。
「封筒の状態を確認します。外装に擦れがありますが、封緘は保たれています。濡れ、破れ、開封痕はありません」
いつもの仕事の声だった。
怖がっていないわけではない。リンには分かる。フィオナの肩は少し硬いし、言葉も普段より丁寧すぎる。
それでも、封筒を見る目は揺れていなかった。
「開封するときは、右端からお願いします。差出人の字が端に近いので、上から裂くと傷むかもしれません」
ヴァルクは、自分の手を見た。
太く、爪は短く削られている。木札を彫るためか、指先には細かな傷がいくつもあった。
「小さい」
「はい」
フィオナは頷いた。
「でも、あなた宛てです」
ヴァルクは封筒を受け取った。
その手つきは、見た目よりずっと慎重だった。まるで、乾いた葉を一枚だけつまむように、親指と人差し指で端を支えている。
リンは受領票を取り出した。
「こちらに受領印をお願いします。署名が難しい場合は、登録時と同じ指印で構いません」
ヴァルクは、腰袋から小さな黒い石を出した。
石の表面には、乾いた墨のようなものが固まっている。彼はそこへ親指を押し当て、受領票へ指を下ろした。
受領欄から、少しだけはみ出した。
けれど、八年前の受領記録と同じだった。
大きすぎる指印が、枠の近くへ押されている。枠の中に収まらないと知っていて、それでも、できるだけそこへ押そうとした跡。
リンはその印を確認し、記録票へ書き込んだ。
「ヴァルク・ガルムさん、ご本人受領」
その言葉に、ヴァルクの視線が少しだけ動いた。
「本人」
「はい」
「まだ、そう書くのか」
「書きます」
リンは、返事を短くした。
説明はしない。
これは、説得するための言葉ではない。記録するための言葉だった。
ヴァルクは封筒を持ったまま、近くの木へ背を向けた。森の中へ戻るのかと思ったが、そうではなかった。少し先に、岩と黒樫の根に隠れるように細い石段がある。
彼は顎でそちらを示した。
「塔は、上だ」
リンとフィオナは顔を見合わせた。
「入っても?」
「郵便が来たなら」
ヴァルクはそう言って、石段を上り始めた。
北部監視塔は、森の斜面に半分埋まるように建っていた。
人間用の見張り塔より低く、太い。黒樫の幹を組み、石で足元を固めた古い建物だ。窓は小さく、屋根の下には鐘が吊られている。錆びてはいるが、落ちていない。
入口の横には、古い木札が何枚も掛けられていた。
北、狼、二。
谷、崩れ。
雪、早い。
どれも短い。村へ知らせるための記号に近かった。人間の文章ではないが、用件は分かる。
フィオナが木札を見上げる。
「これ、村へ送っていたんですか」
ヴァルクは頷いた。
「風が通る日は、下へ落ちる。鐘も鳴らした」
「村の人は、北の鐘の音を覚えているそうです」
リンが言うと、ヴァルクは足を止めた。
背中だけが見えている。
「誰が言った」
「森林管理官のセドリック・ハウさんです」
その名前を聞いても、ヴァルクは振り返らなかった。
「まだ、管理所にいるのか」
「はい」
「足は」
「少し悪そうでした」
「そうか」
それだけだった。
けれど、会話が切れたあと、ヴァルクはしばらく鐘を見ていた。
塔の中は、簡素だった。
大きな腰掛け、低い机、古い森林図、干した薬草の束。壁には山と森の線が描かれた木板がかかっている。人間の地図より荒いが、道と谷と獣の移動線は妙に細かい。
ヴァルクは机の前へ座った。
封筒を、ゆっくり開ける。
マーヤ・セレンの手紙は、短かった。
リンは中身を読まない。読まないように視線を外す。フィオナも同じように、封筒の外側と折り目だけを見ていた。
ヴァルクは一度読み、二度目はもっとゆっくり読んだ。
大きな指が、紙の端で止まる。
「セレンの子か」
「はい」
「小さかった」
ヴァルクは、かすれた声で言った。
「川へ落ちた羊を、泣きながら追っていた」
「マーヤさんは、そのことを覚えているかもしれません」
リンはそう言ってから、言いすぎたかと思った。
けれど、ヴァルクは否定しなかった。
紙を畳まず、机の上へ置く。
「この手紙は、一度、戻ったのか」
リンは答えを迷わなかった。
「はい」
「なぜ」
「返送理由には、宛先地域に危険な魔獣が生息、受取人の存在を確認できず、と記録されていました」
フィオナの手が、鞄の紐を握る。
ヴァルクは、顔を上げなかった。
「魔獣」
「その返送処理については、東部第四支局から照会を出します」
リンは続けた。
「今日の配達では、ヴァルク・ガルムさんの本人確認、郵便物の本人受領、返書の有無を記録します」
「返書」
ヴァルクは、その言葉を繰り返した。
「出せるのか」
「出せます」
リンは即答した。
「ただし、黒樫の森は危険区域として扱われています。通常便ではなく、確認を挟む形になる可能性があります」
「戻るのか」
「戻しません」
言い切ってから、リンはすぐに付け加えた。
「少なくとも、確認もしないで返すことはしません」
ヴァルクはそこで、初めてリンをまっすぐ見た。
大きな目だった。
怖いと思う。
森の中で会えば、きっと誰でも怖い。
でも、その目は、どこか優しさや寂しさを感じさせる。
「俺は、まだここにいる」
「はい」
「監視塔も、ある」
「確認しました」
「道が消えた」
ヴァルクは、壁の木板地図へ視線を向けた。
「獣の道が先に消えた。次に、人の道が迷った。山から降りる風が、地面へ沈んだ。北の谷にいた獣が、南へ降りた」
リンはその言葉を聞いた瞬間、背中が冷えるのを感じた。
風が地面へ沈む。
「その地図を、写させてもらえますか」
リンが聞くと、ヴァルクは首を横に振った。
「持っていけ」
「いいんですか」
「古い。今の森と合わない。だが、消えた道は書いてある」
フィオナがすぐに保護袋を取り出した。
「木板ですね。擦れやすいので、布を挟んで包みます。湿気も避けます」
ヴァルクは、その手つきをじっと見ていた。
「人間の郵便は、小さいものを、よく守る」
「小さいからです」
フィオナは、木板を包みながら言った。
「すぐ傷むので」
ヴァルクは少しだけ目を伏せた。
笑ったのかどうかは、分からなかった。
それから、机の引き出しを開けた。
中から出てきたのは、人間用の便箋だった。古いが、湿気を避けて保管されていたらしい。角は少し反っているものの、まだ書ける。
ヴァルクの指には小さすぎる紙だった。
それでも彼は炭筆を持ち、ゆっくりと字を書き始めた。
字は大きい。
一行が、便箋の幅をほとんど使ってしまう。リンは見ないようにしていたが、最後の一文だけは、どうしても目に入った。
俺はまだ、北の監視塔にいる。住所は変わらない。
それだけで十分だった。
マーヤが次に手紙を書くためには、十分すぎるくらいだった。
ヴァルクは書き終えると、便箋を折るのに少し苦労した。フィオナが手伝おうとしたが、彼は首を振った。
自分で折った。
折り目は少し曲がったが、破れなかった。
「封筒をお作りします」
フィオナは予備封筒を取り出し、差出人欄と宛先欄を確認する。
「差出人は、ヴァルク・ガルムさん。宛先は、マーヤ・セレンさんでよろしいですか」
「マーヤ・セレン」
ヴァルクは、確かめるように言った。
「はい」
「まだ、羊を追っているか」
「確認して、お渡しします」
リンは答えた。
それは郵便魔女の返事としては、少し変だったかもしれない。
でも、ヴァルクはそれ以上聞かなかった。
フィオナが返書を封じ、封緘を確認する。
「返書一通、お預かりします。破損なし。封緘済み」
リンは記録票へ書き込んだ。
ヴァルク・ガルムより、マーヤ・セレン宛て返書一通受領。
塔の外へ出ると、森の空気は来た時より冷えていた。
陽が傾き始めている。
ヴァルクは入口まで見送った。
「また郵便が来たら」
リンは言った。
「お届けします」
ヴァルクはすぐには答えなかった。
森の奥、獣の道が消えた方を見ている。
それから、低く言った。
「ここにいる」




