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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter4 名前を呼ぶ手紙
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27/46

宛名はヴァルク・ガルム②

 灰角族の男は、すぐには答えなかった。


 黒樫の葉が頭上で鳴っている。森の奥からは、さきほど逃げた獣の足音も、もう聞こえない。フィオナの指先が封筒の角に添えられたまま、わずかに強張っていた。


 男の視線は、リンでもフィオナでもなく、封筒の宛名に落ちている。


 ヴァルク・ガルム。


 黒樫の森、北部監視塔跡。


 子どもの字だった。まっすぐ書こうとして、何度も筆先が迷ったような字だ。けれど、名前だけは丁寧に濃く書かれている。


「ヴァルク・ガルム」


 男は、低く言った。


「俺だ」


 リンは、胸の奥で止まっていた息を少しだけ吐いた。


「本人確認を行います。利用者証、または国際郵便組合の受領記録に照合できるものはありますか」


 男はしばらくリンを見ていた。


 その問いを、忘れていたような顔だった。


 やがて、腰に下げた革袋へ大きな手を入れる。取り出されたのは、古びた金属札だった。人間の掌ほどあるが、ヴァルクの手の中では小さく見える。


 リンは両手で受け取った。


 国際郵便組合、森林協定区域利用者証。


 登録名、ヴァルク・ガルム。


 登録区域、黒樫の森北部監視塔。


 登録印は古いが、残っている。名簿で見た番号とも一致していた。


「確認しました」


 リンは金属札を返した。


「ヴァルク・ガルムさん、ご本人として扱います」


 男の眉が、わずかに動いた。


「扱う?」


「郵便物の受取人として、です」


 ヴァルクは答えなかった。


 ただ、封筒へ目を戻す。


 フィオナが一歩前へ出た。


「封筒の状態を確認します。外装に擦れがありますが、封緘は保たれています。濡れ、破れ、開封痕はありません」


 いつもの仕事の声だった。


 怖がっていないわけではない。リンには分かる。フィオナの肩は少し硬いし、言葉も普段より丁寧すぎる。


 それでも、封筒を見る目は揺れていなかった。


「開封するときは、右端からお願いします。差出人の字が端に近いので、上から裂くと傷むかもしれません」


 ヴァルクは、自分の手を見た。


 太く、爪は短く削られている。木札を彫るためか、指先には細かな傷がいくつもあった。


「小さい」


「はい」


 フィオナは頷いた。


「でも、あなた宛てです」


 ヴァルクは封筒を受け取った。


 その手つきは、見た目よりずっと慎重だった。まるで、乾いた葉を一枚だけつまむように、親指と人差し指で端を支えている。


 リンは受領票を取り出した。


「こちらに受領印をお願いします。署名が難しい場合は、登録時と同じ指印で構いません」


 ヴァルクは、腰袋から小さな黒い石を出した。


 石の表面には、乾いた墨のようなものが固まっている。彼はそこへ親指を押し当て、受領票へ指を下ろした。


 受領欄から、少しだけはみ出した。


 けれど、八年前の受領記録と同じだった。


 大きすぎる指印が、枠の近くへ押されている。枠の中に収まらないと知っていて、それでも、できるだけそこへ押そうとした跡。


 リンはその印を確認し、記録票へ書き込んだ。


「ヴァルク・ガルムさん、ご本人受領」


 その言葉に、ヴァルクの視線が少しだけ動いた。


「本人」


「はい」


「まだ、そう書くのか」


「書きます」


 リンは、返事を短くした。


 説明はしない。


 これは、説得するための言葉ではない。記録するための言葉だった。


 ヴァルクは封筒を持ったまま、近くの木へ背を向けた。森の中へ戻るのかと思ったが、そうではなかった。少し先に、岩と黒樫の根に隠れるように細い石段がある。


 彼は顎でそちらを示した。


「塔は、上だ」


 リンとフィオナは顔を見合わせた。


「入っても?」


「郵便が来たなら」


 ヴァルクはそう言って、石段を上り始めた。


 北部監視塔は、森の斜面に半分埋まるように建っていた。


 人間用の見張り塔より低く、太い。黒樫の幹を組み、石で足元を固めた古い建物だ。窓は小さく、屋根の下には鐘が吊られている。錆びてはいるが、落ちていない。


 入口の横には、古い木札が何枚も掛けられていた。


 北、狼、二。


 谷、崩れ。


 雪、早い。


 どれも短い。村へ知らせるための記号に近かった。人間の文章ではないが、用件は分かる。


 フィオナが木札を見上げる。


「これ、村へ送っていたんですか」


 ヴァルクは頷いた。


「風が通る日は、下へ落ちる。鐘も鳴らした」


「村の人は、北の鐘の音を覚えているそうです」


 リンが言うと、ヴァルクは足を止めた。


 背中だけが見えている。


「誰が言った」


「森林管理官のセドリック・ハウさんです」


 その名前を聞いても、ヴァルクは振り返らなかった。


「まだ、管理所にいるのか」


「はい」


「足は」


「少し悪そうでした」


「そうか」


 それだけだった。


 けれど、会話が切れたあと、ヴァルクはしばらく鐘を見ていた。


 塔の中は、簡素だった。


 大きな腰掛け、低い机、古い森林図、干した薬草の束。壁には山と森の線が描かれた木板がかかっている。人間の地図より荒いが、道と谷と獣の移動線は妙に細かい。


 ヴァルクは机の前へ座った。


 封筒を、ゆっくり開ける。


 マーヤ・セレンの手紙は、短かった。


 リンは中身を読まない。読まないように視線を外す。フィオナも同じように、封筒の外側と折り目だけを見ていた。


 ヴァルクは一度読み、二度目はもっとゆっくり読んだ。


 大きな指が、紙の端で止まる。


「セレンの子か」


「はい」


「小さかった」


 ヴァルクは、かすれた声で言った。


「川へ落ちた羊を、泣きながら追っていた」


「マーヤさんは、そのことを覚えているかもしれません」


 リンはそう言ってから、言いすぎたかと思った。


 けれど、ヴァルクは否定しなかった。


 紙を畳まず、机の上へ置く。


「この手紙は、一度、戻ったのか」


 リンは答えを迷わなかった。


「はい」


「なぜ」


「返送理由には、宛先地域に危険な魔獣が生息、受取人の存在を確認できず、と記録されていました」


 フィオナの手が、鞄の紐を握る。


 ヴァルクは、顔を上げなかった。


「魔獣」


「その返送処理については、東部第四支局から照会を出します」


 リンは続けた。


「今日の配達では、ヴァルク・ガルムさんの本人確認、郵便物の本人受領、返書の有無を記録します」


「返書」


 ヴァルクは、その言葉を繰り返した。


「出せるのか」


「出せます」


 リンは即答した。


「ただし、黒樫の森は危険区域として扱われています。通常便ではなく、確認を挟む形になる可能性があります」


「戻るのか」


「戻しません」


 言い切ってから、リンはすぐに付け加えた。


「少なくとも、確認もしないで返すことはしません」


 ヴァルクはそこで、初めてリンをまっすぐ見た。


 大きな目だった。


 怖いと思う。


 森の中で会えば、きっと誰でも怖い。


 でも、その目は、どこか優しさや寂しさを感じさせる。


「俺は、まだここにいる」


「はい」


「監視塔も、ある」


「確認しました」


「道が消えた」


 ヴァルクは、壁の木板地図へ視線を向けた。


「獣の道が先に消えた。次に、人の道が迷った。山から降りる風が、地面へ沈んだ。北の谷にいた獣が、南へ降りた」


 リンはその言葉を聞いた瞬間、背中が冷えるのを感じた。


 風が地面へ沈む。


「その地図を、写させてもらえますか」


 リンが聞くと、ヴァルクは首を横に振った。


「持っていけ」


「いいんですか」


「古い。今の森と合わない。だが、消えた道は書いてある」


 フィオナがすぐに保護袋を取り出した。


「木板ですね。擦れやすいので、布を挟んで包みます。湿気も避けます」


 ヴァルクは、その手つきをじっと見ていた。


「人間の郵便は、小さいものを、よく守る」


「小さいからです」


 フィオナは、木板を包みながら言った。


「すぐ傷むので」


 ヴァルクは少しだけ目を伏せた。


 笑ったのかどうかは、分からなかった。


 それから、机の引き出しを開けた。


 中から出てきたのは、人間用の便箋だった。古いが、湿気を避けて保管されていたらしい。角は少し反っているものの、まだ書ける。


 ヴァルクの指には小さすぎる紙だった。


 それでも彼は炭筆を持ち、ゆっくりと字を書き始めた。


 字は大きい。


 一行が、便箋の幅をほとんど使ってしまう。リンは見ないようにしていたが、最後の一文だけは、どうしても目に入った。


 俺はまだ、北の監視塔にいる。住所は変わらない。


 それだけで十分だった。


 マーヤが次に手紙を書くためには、十分すぎるくらいだった。


 ヴァルクは書き終えると、便箋を折るのに少し苦労した。フィオナが手伝おうとしたが、彼は首を振った。


 自分で折った。


 折り目は少し曲がったが、破れなかった。


「封筒をお作りします」


 フィオナは予備封筒を取り出し、差出人欄と宛先欄を確認する。


「差出人は、ヴァルク・ガルムさん。宛先は、マーヤ・セレンさんでよろしいですか」


「マーヤ・セレン」


 ヴァルクは、確かめるように言った。


「はい」


「まだ、羊を追っているか」


「確認して、お渡しします」


 リンは答えた。


 それは郵便魔女の返事としては、少し変だったかもしれない。


 でも、ヴァルクはそれ以上聞かなかった。


 フィオナが返書を封じ、封緘を確認する。


「返書一通、お預かりします。破損なし。封緘済み」


 リンは記録票へ書き込んだ。


 ヴァルク・ガルムより、マーヤ・セレン宛て返書一通受領。


 塔の外へ出ると、森の空気は来た時より冷えていた。


 陽が傾き始めている。


 ヴァルクは入口まで見送った。


「また郵便が来たら」


 リンは言った。


「お届けします」


 ヴァルクはすぐには答えなかった。


 森の奥、獣の道が消えた方を見ている。


 それから、低く言った。


「ここにいる」

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