宛名はヴァルク・ガルム①
黒樫村までは、現在も使われている通常風路で二時間ほどだった。
村は黒樫の森の南端にある。木材と薬草の集積地として知られているが、発着場だけは森から大きく離されていた。黒樫は、幹や枝だけでなく、周囲に漂う魔力まで根から吸い上げる。森の上へ定期風路が引かれていないのは、そのためだった。
リンとフィオナは南側の発着場へ降りると、そのまま森林管理所へ向かった。
平屋の石造りの建物には、伐採区域、薬草採取地、魔獣の出没記録を示す地図が何枚も掲げられている。窓口で身分証と特別配達の許可証を示すと、年配の管理官が奥から出てきた。
セドリック・ハウと名乗った管理官は、封筒の宛名を見た途端、眉間に皺を寄せた。
「北部監視塔へ行くのか」
「はい」
リンは答えた。
「ヴァルク・ガルムさんの所在確認を兼ねた、特別配達です」
「まだ、いると思うのか」
「その確認をします」
セドリックはすぐには返事をしなかった。封筒から目を離し、壁に掛けられた古い森の地図を見る。
「最後に姿を見たのは八年ほど前だ。家畜が襲われて、村と監視塔の往来が止まる少し前だった」
「家畜を襲ったのが、ヴァルクさんだという記録はありますか」
フィオナが尋ねると、セドリックは首を横に振った。
「ない」
短い答えだった。
「大型獣の足跡はあった。森の北から下りてきたものだ。だが、ヴァルクを疑う者もいた。あいつが灰角族で、森番だったからな」
「森番なら、むしろ獣を追い返す側では」
「そう言った者もいた」
セドリックの声は苦かった。
「だが、柵を破られ、家畜を失った者には通じなかった。監視塔への物資が止まり、ヴァルクも村へ来なくなった。それきりだ」
リンは壁の地図を見上げた。
最近の記録には、森の北側から南へ向かう赤い矢印が何本も引かれていた。獣の移動経路を示す印だ。
「ここ半年で増えていますね」
「ああ。本来なら人里を避ける獣まで、村の近くへ出るようになった。餌場が変わったのか、さらに北で何か起きているのかは分からん」
セドリックは机の引き出しから、古びた地図を取り出した。
「北部監視塔までの運搬路だ。入口までは整備されているが、途中から先は八年以上、誰も手を入れていない」
リンは地図を受け取った。折り目に沿って畳まれた紙の角は、何度も開かれたせいで白く擦れている。
「差出人のマーヤ・セレンさんは、村にいますか」
「ああ。セレン牧場の子だろう。明後日には親の仕事で西の町へ移ると聞いている」
期限指定郵便ではない。
それでも、今日持ち帰れば、次にその子が同じ住所から手紙を出せるとは限らなかった。
「北部監視塔へ向かいます」
リンが言うと、セドリックは深く息を吐いた。
「危険だと思ったら戻れ。ヴァルクが生きていたとしても、昔と同じとは限らん」
「分かりました」
「それと」
セドリックは一度、言葉を切った。
「もし会えたら、伝えてくれ。村の者は、まだ北の鐘の音を覚えていると」
リンは封筒を見た。
宛名は、ヴァルク・ガルム。
受取人がいるかどうかを確かめる仕事だった。だが、そこへ向かう道には、ほかにも置き忘れられたものがある。
「お預かりします」
リンはそう答えた。
◇
黒樫の森へ入ってしばらくは、古い運搬路の上を低く飛ぶことができた。
木々の間には、荷車二台分ほどの空間が残っている。陽光も、まだ細く地面まで届いていた。けれど森の奥へ進むほど枝は密集し、箒へ流し込んだ魔力が、根の下へ吸い取られるように失われていく。
フィオナの箒が、目に見えて高度を落とした。
「これ以上は、戻る分まで減るね」
「降りよう」
リンは迷わず答えた。
「珍しく早い判断」
「フィオナを置いていく理由がないし、歩いたほうが道を拾える」
「はいはい。今日は聞き分けがいい」
「今日だけみたいに言わないで」
二人は箒を降り、穂先へ保護布を巻いた。肩へ担げるよう固定し、枯れ葉の積もった運搬路へ足を踏み入れる。
長く人が通っていない道は、石畳の継ぎ目から根が盛り上がり、道標も蔓に覆われていた。森に慣れているフィオナが足元を見、リンが石の下に残った古い術式を拾う。
監視塔への運搬路には、かつて荷車を軽くするための簡易術式が埋め込まれていた。ほとんど消えかけているが、石の下へ残った魔力の癖は、リンの指先にかすかに触れる。
「右」
リンは、枝が密集した方を指した。
「そっち、道に見えないけど」
「石の下に残ってる」
「普通の人には?」
「分からないと思う」
「じゃあ、普通の道じゃないね」
「でも、監視塔には続いてる」
フィオナは少しだけ顔をしかめたが、それ以上は言わなかった。
森の北側へ近づくにつれ、鳥の声が減っていった。
風は吹いている。葉も揺れている。だが、その音の奥に、獣の気配だけが南へ流れている。湿った地面には、蹄の跡がいくつも重なり、古い運搬路を横切っていた。
「管理所の地図と同じだね」
フィオナが声を落とす。
「北から南へ逃げてる」
リンが答えた時、前方の茂みが大きく揺れた。
枝が折れる。
次の瞬間、鹿に似た獣が葉を突き破って現れた。人間の胸ほどもある角の根元には、黒い苔のようなものがこびりついている。目は大きく見開かれ、リンたちの姿を認めても速度を落とさなかった。
「リン、下がって!」
フィオナが前へ出る。
右手を突き出すと、掌の前へ淡い光が広がった。薄い硝子を何枚も重ねたような防護膜が、二人と獣の間に立ち上がる。
獣の角が激突した。
鈍い音が森に響く。フィオナの靴が湿った土の上を滑り、光の膜に細かな亀裂が走った。
「重っ……!」
黒樫の森では、術式の維持が続かない。
リンは郵便鞄を背中へ押さえ、フィオナの横から右手を伸ばした。
「左へ退いて!」
「今?」
「早く!」
フィオナが身体をずらした瞬間、リンは掌の中へ魔力を集めた。
獣を倒す必要はない。正面から強く打てば、怯えてさらに暴れる。狙ったのは、前脚の少し右側だった。
「圧風!」
押し固めた空気が弾け、土と枯れ葉が舞い上がる。獣の身体が横へ押され、角が防護膜から外れた。
膜はそこで砕け、淡い光の欠片となって消える。
獣は倒れなかった。すぐに脚を踏ん張り、頭を振る。再び南へ駆け出そうとした、その時だった。
森の奥から、低く長い音が響いた。
角笛にも、獣の鳴き声にも聞こえた。
苔角の獣は耳を立てると、進路を変えた。村がある南ではなく、東の斜面へ向かって茂みの中へ消えていく。
フィオナは砕けた防護膜の残滓を見下ろし、息を整えた。
「もう一回まともに張れるか、微妙」
「私も、今ので思ったより持っていかれた」
リンは右手を開いた。指先に、鈍い痺れが残っている。
「私たちの魔法は、獣を倒すためのものじゃないからね。次が来たら逃げるよ」
「分かってる」
「分かってる人は、森の奥をそんな顔で見ない」
リンは言い返しかけて、やめた。
確かに見ていた。
獣が現れた方ではない。低い音が聞こえた、さらに奥の方だ。
「あれ、私たちを襲おうとしてたわけじゃないと思う」
「何かから逃げてたようには見えたけど」
「さっきの音で、進む向きが変わった」
「だからって、追わないでよ」
「追わない」
「本当に?」
「本当に」
フィオナはまだ疑わしそうだったが、やがて小さく息を吐いた。
「じゃあ、何か見つけても一人で動かないこと」
「フィオナもいるのに、一人では動かないよ」
「ならいい」
その時、木々の間から重い足音が聞こえた。
一歩ごとに、枯れ枝が折れる。近づいてくるものは、獣のように速くはなかった。だが、足音は大きく、低く、森の地面そのものを踏みしめていた。
フィオナの右手が反射的に上がる。砕けたばかりの防護膜を、もう一度作ろうとする手だった。
リンはその手首へ軽く触れた。
「待って」
「でも――」
「さっきの音を出した人かもしれない」
木々の奥から、大きな影が現れた。
まず見えたのは、灰色の角だった。
黒樫の枝の間を避けるように、ゆっくりと近づいてくる。肩は人間の倍ほど広く、腕は丸太のように太い。灰色の皮膚には古い傷がいくつも走り、腰には木札と短い角笛が吊られていた。
リンは喉の奥が固くなるのを感じた。
大きい。
エルナから聞いていた。名簿にも書いてあった。灰角族は大型で、角を持ち、森や山岳地帯で暮らすことが多い。知っていたはずなのに、森の奥で実際に向かい合うと、身体が先に驚いた。
けれど、半歩下がりかけた足を止める。
手紙の宛名を、もう一度思い出した。
ヴァルク・ガルム。
黒樫の森、北部監視塔跡。
リンは郵便鞄の肩紐を握り直した。
「東部第四支局の郵便魔女です」
声は少し硬かった。
それでも、名前は間違えなかった。
「ヴァルク・ガルムさん宛ての郵便物をお預かりしています」
灰角族の男は、低くリンを見下ろした。
その目は、獣のものではなかった。
長いあいだ人を待つことをやめていた者の、疲れた目だった。
「人間の郵便は」
男の声が、森の底から響くように落ちてきた。
「ここへ来ない」
リンは一度だけ息を吸った。
「長いあいだ、来ていなかったようです」
封筒を両手で持つ。
「でも、今日は来ました」
男は、封筒を見た。
宛名を見た。
それから、リンの顔を見る。
「なら、なぜ来た」
リンは答えた。
「宛名が、ここになっていたからです」
森の奥で、風が黒樫の葉を揺らした。
フィオナは隣で、封筒の角が折れないよう、そっと手を添えている。
リンはもう一歩だけ前へ出た。
「ヴァルク・ガルムさん。ご本人ですか」




